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君に幸あれ

序章 「前代未聞」 

湊月奈央は、そのあまりものおぞましさに、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
怒りと憎しみ、そして執着。死して尚しがみついて離れない、この男の粘着質には、本当に反吐が出そうだった。

奈央は、邪悪な念や霊の類いを祓う事を生業にしている霊能者。その祓いには湊月家に代々伝わる霊刀『逢魔之祐定』を用い、文字通り邪念と悪霊を斬る事が出来る。
ひとたびその太刀を光らせれば、ほとんどの霊達は恐れをなし、瞬く間に退散していく。しかしその刀光に微動たにしない霊達も存在す。その肝入りの霊達を斬り刻み、散滅させるのが彼女の仕事。

奈央は帯刀していた祐定に左手を宛てがい、柄を握りしめる。

目の前には、全裸のぶくぶくに太った中年男性が、依頼者のアイドル、沙藤エマの背中にしがみついていた。男はぶぅぶぅと唇を鳴らしては、涎を垂らしながら、彼女の首や背中を舐め回している。

「きっしょ!」
奈央は本心からそう思い、刀身を即座に引き抜いた。
抜刀一閃!
鋭く尖った刀光が、宙を舞う。
「びゃあ!びゃぁ!」
その刀光に奇妙な声をあげ、威嚇する男。
奈央は容赦なく祐定を振り下ろし、男の身体を斬りつける。

「びゃびゃびゃ…….」
男は笑うようにして、奇声を更にあげる。
「え?  なんで?」
奈央は躊躇なく男を斬りつけた。しかし、男は散滅するどころか、傷ひとつ負っていない。更に奈央は刃を振り下ろす。

「びゃびゃぶぅぶぅ……」
男は何事も無かったのように、赤ん坊のように無邪気に奇声をあげる。

「あ、あのう……先生? 大丈夫なんでしょうか?」
奈央の後ろに控える、エマのマネージャーの進藤が、心許ないような表情で彼女に伺いを立てる。
「うるさい!  黙ってて!」
進藤を一喝すると、奈央は祐定の刀身に目を向けた。
「ちょ! マジでキモい!」
 何度も振り下ろした刀身には、まるで精液のように白濁した粘液がまとわりついていた。
奈央はその粘液を振り落とそうと、今一度刀身を振り払った。
しかし、その粘液はまるで主人の執着心のように、刀身にしがみつくようにして、一滴たりとも離れようとしない。それどころか、振り払う際に遠心力で伸びた粘液が、刀身に戻る際に奈央の口元をかすめた。
「うえっ!  ぺっ!ぺっ!」
唇に付着した粘液を吐き捨てる奈央。
「ふざけやがって! 豚男が!」
口元を脱ぐうと、奈央は悪態をこぼし、両手で柄を握りしめた。
「せい!せい!やっ!」
威圧を込めた掛け声と共に、再度宙を舞う刀身。そのひと振りひと振りは重く、斬りつけると言うより、斬り裂くと言った方がいい程に、奈央の確固たる意思がのしかかっていた。

しかし…….

「びゃびゃぶぅぶぅ、ぶんびゃびゃぁ!」
まるで嘲笑うように奇声をあげる男。
その身体には傷ひとつない。ましてや斬りつければ斬りつける程に、粘度の高い粘液が彼を覆い、刃は彼を滑り落ちるだけ。

彼に取り憑かれたエマは、虚ろな眼差しで諦めかけたかのように、意気消沈している。
このままでは、エマはこの男に取り込まれてしまう。

こんな障例は初めてだ。いや、彼女にとっては前代未聞!今日が湊月奈央の廃業、命日になるかもしれない…….
策に惑う奈央。
彼女は強く、強く奥歯を噛み締めた。

つづく

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