このビールはビールじゃない、シガーもシガーじゃないから

大震災、原発メルトダウン以後、私が鬱々と考えてきたのは、こわれたり故障したりした構造物などモノやそれらを系統づけるシステムやネットワークのことではかならずしもありませんでした。

わたしはたびたび同じ夢を見ました。それは、地平線まで広がっている黒い瓦礫の原にたったひとりで立ちつくしているわたしの夢でした。ひどく怯えてました。一面の瓦礫の光景が怖かったのではありません。わたしは足もとの屍体や影やおびただしいモノたちをいちいち指さしてなにか言おうとしているのですが、どうしても言えないのです。

声が出ないということではありません。言おうとしている言葉が、指さしている屍体や影やモノをどうしても指示せず、それらの存在と一致せず、それぞれを裏づけず、ひとつひとつを担保もしないのです。私は口をパクパクし、しきりに指さすのですが、言葉と対象がまるで合致しないのです。私は胸を濡れた荒縄でしばられたような恐怖を感じ、言葉ではなく呻きや叫び声をあげました。あの夢はなんだったのか、ずっと考えています。

わたしが鬱々と考えてきたのは、結局、モノのことではなく、言葉のことです。言葉なのに、対象をしっかりと指示せず、証さず、表わそうとさえしない、私流に言えば“空の言葉”についてあれこれ考えたのです。脳裡にはいつも瓦礫の言葉の原がありました。そこには、無数のモノたちだけでなく、数えきれない言葉たちも泥や汚水にまみれて転がっている気がしました。

ここで、ベルトルト・ブレヒトの『亡命者の対話』の一部が浮かびます。二人の亡命者が駅の食堂で話しています。「このビールはビールじゃない。シガーもシガーじゃないから釣りあいはとれている…(中略)・・・ビールがビールでないと同時にシガーがシガーでないのは、幸運な事態だぜ」(野村修訳・晶文社)。亡命者ツィフェルのこの台詞はなにかとてつもなく大切なことを示唆していると、私は長く思ってきました。

瓦礫の原の悪夢からさめて思い至るのは、存在証明の困難ということです。シガーがシガーであり、ビールがビールであることは当たり前のようですが、それらの証明となると、人の幸福や不幸が困難なように、言いつまるのです。言葉(概念)と実態は、古来、乖離しがちとされてきましたが、現代にあっては、言葉(概念)があるのに実体(または実態)がないこと、またはその逆が、しばしばどころか世界中に蔓延しています。

中国はだれがどう考えても社会主義ではないのに、社会主義を堂々と僭称しています。日本だって、憲法第九条があるにもかかわらず、その実体(実態)はますますなくなっています。原発の安全、低コストといううたい文句と原発の実態がまるでことなることも、言葉と実態の連続性の破断といえるでしょう。

3・11が、言葉と実態のつながりを破断したのではなく、3・11のおかげで、もともとあった言葉と実態の断層が証されたのです。

ブレヒトがツィフェルに言わせた「このビールはビールじゃない。シガーもシガーじゃないから釣りあいはとれている」という台詞は、全体主義を念頭にしたアイロニーであると解釈されたりしますが、後期資本主義とそのグローバル化は、言葉と実態(実態)の断絶を世界中に広めたとわたしは思います。

うるわしい商品名とそのCM(言葉・概念)が商品(実態)そのものではないことをいまではだれもが知っています。ニュースキャスターたちの言葉が“空の言葉”で、彼ら彼女らの憂い顔や笑顔が、心底からのものではなく、安っぽい演技であることも、いまさら言うまでもありません。政党のマニフェストは、履行されないことの少ないことを、今や暗黙かつ公然の前提にしています。

言葉と実態の断層は大震災、原発メルトダウンで、もはやだれの目にもいっそう明らかになってきています。それでもわれわれは“空の言葉”を用い、臭い芝居につきあっているのです。気がふさがないわけがありません。

「このビールはビールじゃない。シガーもシガーじゃないから釣りあいはとれている…(中略)・・・ビールがビールでないと同時にシガーがシガーでないのは、幸運な事態だぜ」。
わたしたちはたぶん、このアイロニーの世界に、反語のわけにも気づかずに住んでいるのではないでしょうか。

それは、言葉の全面的虚偽もしくは機能不全にうすうす気づいていながら、気づいていないふりをして、強制されてもいないのに自由な言説を自己抑制し、課されてもいないのに自ら謹慎してしまう。オーウェルやブレヒトもまさかここまでとは予想もしなかったであろう、おのずからハーモニアスなファシズム世界です。

この言語管理世界では外圧よりも内圧が強いことに注意すべきではないでしょうか。言葉を弾圧する許しがたい敵は、鵺のような集合意識を構成している私たちひとりひとりの内面に棲んでいる気がいたします。

3・11後、私はいくつかの新聞のインタビューを受けました。「日本はどうなると思うか」「日本はどのように再生すべきか」といった質問をよくされました。生来ひねくれ者のわたしは、記者の言葉からして鬆のたったダイコンやゴボウみたいに感じて不愉快になり、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」などとまぜかえしました。

すると若い記者らは一瞬あきれ顔になって、聞こえなかったふりをするか、または「本気か」と問うてきたりするので、反射的に「本気だ」と答えたのですが、私のそうした応答は、案の定、新聞に一行も載ってはいないのでした。

わたしはいまさらなにも驚いてはいません。記者たちは無意識に現実の世界を、誰に命じられてもいないのに、修正しているのです。取材対象にたくさんしゃべらせて、自分の世界像に合う部分のみで、記事をつくります。新聞、テレビの「街の声」くらいいいかげんなものはありません。「日本はこの際いっそ滅びてみてもよいのではないでしょうか」。そのような声は、検閲制度がないにもかかわらず、あったとしても、ないことにされてしまいます。

私を取材に来た記者たちが「日本の再生」を全実在にかけて考えているとは私は到底感じませんでした。にもかかわらず、不真面目に混ぜ返すと、まさかというぐあいに目を白黒させるのが、私には理解できるようでよく理解できません。

大震災以降、気がふさぐことが多いのですが、このいわく言いがたい表現上のデキレース、言葉の一本調子、全般的不自由感がとくにたまりかねます。


辺見庸 「瓦礫の中から言葉を」

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