徳岡孝夫「民主主義を疑え!」

オランダの映画監督で、かのヴィンセント・バン・ゴッホの弟で画商だったテオが曾祖父に当たるというテオ・バン・ゴッホが殺された。2004年11月のことである。

アムステルダムの朝のラッシュの中を、テオは自転車で走っていた。一人の男が彼を呼び止め、銃で撃った後、ナイフを取り出して刺した。テオが死ぬまで何度も何度も刺し、ゆっくりと現場を立ち去った。後に警官隊との撃ち合いのすえ捕まった。ムハンマド・ブイエリ(27歳)というオランダに生まれ育ったモロッコ人で、イスラム原理主義者だった。先日、オランダの法廷で終身刑の判決を受けた。死刑がないかわり、オランダの終身刑は掛け値なしである。ただいま終身刑服役者16人。釈放されたものは60年間に立った二人だそうである。

殺されたテオは、イスラム教の厳しい批判者だった。殺される二ヶ月前に彼の撮った「服従」という作品がオランダのテレビに出た。イスラム世界の女性虐待を告発する映画だったという。

わたしは偶然ブイエリの論告求刑と判決の記事を、向こうの新聞で見た。終身刑が求刑された日、ブイエリは傍聴席にテオの母アンネケ・バン・ゴッホがいるのを認め、話しかけたと書いてある。

「私にはあんたの悲しみが判らない。気の毒だとも思わない。あんたは神を信じない人だろうから私は全く感情を持てないのだ」

白昼の路上で突然わが子の命を奪った男からこういうことを言われた母親は、どんな気持ちがしたことだろう。こういうことを言える男がこの世にいた事実に、私は文字通り血の凍る思いがした。こんな奴には、もう説得は通じない。それは平和のうちに住む人類とは別の、一種の異星人ではないかと思った。


徳岡孝夫 「民主主義を疑え!」

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