別役実「犯罪の見取図」正当なものではないとする論理

特に私は、≪イエスの方舟事件≫が伝えられた時に、そのことを強く感じた。これは、「イエスの方舟」と称する新興の宗教集団が、何人かの子女を勧誘して共同生活を開始し、彼女たちを取り戻そうとして押しかけた家人との間にあつれきを生じた、という事件である。当初報道機関はいっせいに、「イエスの方舟」を「邪教」と決めつけ、分別のない子女を拉致した不当性をなじったのであるが、その後の経過を踏まえて事態を冷静に振り返ってみると、事件になるべき要素などなにもなかったことが、次第に判明されつつあるのだ。彼女たちは、明らかに分別をもって意識的にそれに参加していたのであり、「イエスの方舟」という新興の宗教集団も、他のその種のものと比較していささかも狂信的なところのない、どちらかといえば極めて平凡な宗教団体であることが判明したのである。

では、事件などはなかったのか。やはり事件はあった。我々はこのことを伝え聞いて、少なからず衝撃を受けたし、それは必ずしも「イエスの方舟」を「邪教」と決めつける報道機関の論調に踊らされたものではなかった。むしろ、報道機関がそれを「邪教」と決めつけたのは、そうでないことを知っていながら、それを認めることを恐れたためであるともいえるのであり、我々もまた、そのことを暗に予感していた。

事件は、改めて振り返ってみれば明らかなように、「イエスの方舟」のほうが主導して発生せしめたものではなかった。おそらく、この点が重要である。そこに参加した子女を取り戻そうとして押しかけた、それぞれの「家庭」の父親や母親の方が、むしろ主導して発生せしめているのである。従って「イエスの方舟」をそこに参加した子女たちは、その「迫害」から逃れるべく、以後とめどもない放浪生活を余儀なくされている。被害と加害の関係は、誰が見てもそのようにしか確かめられないであろう。

では報道機関は、この局面において何故「イエスの方舟」の方を「邪教」と決めつけ、その行為の不当性をなじったのであろうか。一つには、かつて狂信的な多くの宗教団体が、分別のいかない子女を拉致し去った事例があり、とっさにそのパターンをなぞったということが考えられる。しかしもっと大きな理由は、それらの子女を「家庭」に取り戻そうとする父親や母親の行為を、「正当なものではないとする論理」が、彼等にはなかったせいではないだろうか。「家庭」を「家庭」とし、「家族」を「家族」とする論理が、正当なものではないはずはないからである。

しかし同時にそれら報道機関は、「家庭」を「家庭」とし、「家族」を「家族」とする論理が、じつにあいまいな根拠に基づいているのだということにも、薄々気付いていた。それはたしかに「正当なものらしい」のだが、なぜ「正当である」のかは、誰にもわからなかったのである。そして「イエスの方舟」を「邪教」と決めつける強引さに、そのまますり変えられたであろうことは、充分に考えられる。

我々もまた、事態の推移に従って、次第にそのことに気付かされていった。「家庭」を「家庭」とし、「家族」を「家族」とする論理が、正当なものでないばかりか、むしろそこに「よこしま」なニュアンスさえ、感じとられるようになったのである。少なくとも、それらの子女を取り戻そうとする局面においては、「イエスの方舟」より、押しかけた家人たちの方に、一種の狂信性を感じとったのは事実だからである。

もちろんこのことは、かなり奇妙なことに違いない。「イエスの方舟」の方が「邪教」であることをやめるに従って、「家庭」であり「家族」であるものの方が、「邪教」に見えてきたのである。しかもすでに、この場合の「家庭」であり「家族」であるものは、かつて我々が独立した自由な個人であることを阻害した、いわゆる「封建的家庭」ではないのである。

かつてのいわゆる「封建的家庭」というものは、それ自体が「よこしま」なものであったと、我々は考えることができる。しかしそれは、極めてありきたりの論理に従って言えば、戦後の民主主義的風潮の中で、かなり徹底的に破壊されて今日に至っているはずなのである。にもかかわらずそれがまた、新たに「よこしま」なものを抱えこんで、我々の前に立ちふさがったというわけだ。この事件は我々にそのことを気付かせてくれたのである。しかも、かつての「封建的家庭」がどのように「よこしま」であったか、我々は具体的に、そして論理的によく知っているが、現在の「家庭」であり「家族」であるものが、どのように「よこしま」であるのか、我々は知らないのである。ただ何となく、この事件を通じて、感じとらされただけなのだ。

これまで我々は、「家庭」であり、「家族」であるものに拠ってしか状況をたしかめてこなかったが、この事件によって我々は、逆に状況によって「家庭」であり「家族」であるものを振り返ることをはじめた。あるいは、そうすることを余儀なくされた、といってもいい。そして、無意識のうちに依拠していたそれが、思いがけずグロテスクな、肥大化したイメージを持ちつつあることに、気付いたのである。


別役実 「犯罪の見取図」

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