夏目漱石「それから」 この落剥のうちに

彼は第一の手段として、なにか職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体を具えて現れて来なかった。彼は今日まで如何なる職業にも興味を有(も)っていなかった結果として、如何なる職業を想い浮べてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。彼には世間が平たい複雑な色分の如くに見えた、そうして彼自身は何等の色を帯びていないとしか考えられなかった。

凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であった。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢(しゅうえ)を塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄するだろうと考えて。そっと身震をした。

この落剝のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかった。三千代は精神的に云って、既に平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで彼女(かのおんな)に対して責任を負う積りであった。けれども相当の地位を有もっている人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果に於て大した差異はないと今更ながら思われた。死ぬまで三千代に対して責任を負うと云うのは、負う目的はあるというまでで、負った事実に決してなれなかった。代助は網然として黒内障(そこひ)に罹った人の如くに自失した。


夏目漱石 「それから」

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