内田樹「街場の戦争論」 就職と雇用

就職に関しては、言いたいことがたくさんあります。

今の就職情報産業は、就職情報を明らかに意図的にコントロールしていると思います。一つは就活の一極集中かということです。都市部の就職情報だけに特化していて、地方の雇用状況については、ほとんど有用な情報を送っていない。

実際には、日本各地に多様な業種、多様な雇用機会があります。でも、それについての情報はほとんど開示されていません。地方には若い人がいなくて困っている仕事はたくさんある。でも、そういう求人情報は都市部の求職者のところには届かない。構造的に届かない。

先日、行きつけの美容院のオーナーから面白い話をうかがいました。常連のお客さんが「誰か若い人で兜の修理をする人がいないかな」と訊いてきたそうです。そのお客さんが言うには、日本の兜は世界中の美術館のコレクターが蒐集している。金属部分は年月が経っても傷むことはないのだが、刺繍や紐や革などは経年劣化してくるので修復が必要になる。ところが、その修復ができる職人がほとんどいない。技術者も後継者難に苦しんでいる。手に職をつければ、兜一個の修理代が一億円。ただし修行に十年かかるそうですけれど。

なるほどと思いました。確かにそれほどの人数はいらない仕事です。でも、一人もいなくなったら仕事の種類の90%くらいは「人手はそれほどたくさんいらないけれど、ゼロになったら困る」というものではないかと思います。ただ、そういう仕事は求人のための告知コストの費用対効果が悪すぎて、告知そのものが普通はなされない。だから現に求人があり、そういう仕事なら「やってもいいかな」と思っている若者たちがいても、マッチングが成り立たない。

「仕事はあるが求職者が来ない」という仕事は数え上げたらおそらく何万、何十万種あると思います。つまり、現在の大卒の人数だったら全員を悠々とい受け容れるだけのキャパシティがある。ならば、そういうマッチングをたとえば行政指導で行ってもいい筈だけれど、そういう努力は国政レベルでは全くなされていない。

地方における少人数の求職情報だけに特化してネットで情報提供しているサービスは聞くところでは一つしかないそうです。どうして、適切なマッチングのために行政は手間暇かけないのか。それは、そのような小さな仕事に若い人たちが散らばることを、政財官は実は望んでいないからです。

能力の高い若者を安い賃金で雇うためには、求人者がポストにたいしてつねに過剰である必要がある。当然です。採用する側は、よりどりみどりで気に入った人間を採用できるし、「君の換えなんかいくらでもいるんだ」という強気の立場に立てる。「換えなんかいくらでもいる」という脅しが効くならどこまでも雇用条件を切り下げることができる。採用側と就職情報産業はその点では結託していると僕は思います。

出来るだけ多くの求職者を、出来るだけ短期間に、出来るだけ狭い範囲に押し込む。それが新卒一括採用、一極集中という仕組みの意味です。実際の求職数の何十倍もの学生を狂騒の中に流し込む。当然、学生は採用試験にどんどん落ちます。100社受けて100社落ちるというようなことが当たり前にある。そうすると何が起きるか。学生の自己評価がさがる。自分は「使えない人間』なんだと思うようになる。そうなると、どこでもいいから拾ってくれるところで働くしかない、どんな待遇でも文句をいわない、どんな苛酷な条件でも受け入れるしかないと思うようになる。半年は試用期間だと言われても、土日出勤だと言われても、残業代がつかないと言われても、海外長期出張があると言われても、「はい、やります」と答えるしかなくなる。

狭いところに求人数よりも圧倒的に多い求職者を流し込む理由はそこにあります。だから、企業の人事はどんどん手荒なものになる。ブラック企業というものが生きてこられたのは、この仕組みに支えられてきたからです。

実際に適材適所で、求人数と求職者数のバランスが取れていれば、雇用する側は雇用を条件に引き上げざるを得ない。適切なマッチングをして雇用をおこなうと、人件費コストは上がる。だって、採用する人は「換えが効かない」わけですから。

それが嫌だから、学生たちを一箇所に無理やり集め、採用試験に落とし続けて、圧迫面接で脅しをかけ、就活生に「負け犬マインド」を刷り込む。そうすれば人件費コストは縮減できる。そういう理屈です。経営者としてはそうするのが合理的なんですから、その発想自体が責められない。でも、ここには若い同胞たちの成熟を支援するという発想がまったくありません。

今の就活の仕組みは企業側の採用コスト、人材育成コストを最小化するように制度設計されています。若者たちが適職を見出して、その才能を開花させて、自尊感情を以て幸福な生活を送れるようにするための仕組みではありません。もちろん、中には例外的に恵まれて適職を見出した人もいるかもしれませんけれど、大半はそうではない。就活を通じて自尊感情を高めたとか、自分の潜在可能性に気づいたという学生に僕はあったことがありません。もちろん「世間知らずの学生たちに世間の厳しさを教えてやっているんだ」という教化的な善意でこの苛酷な採用状況を正当化する人も採用側に入るのでしょうけれど、僕はそんなのは嘘だと思う。


内田樹 「街場の戦争論」

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