宗教の事件 70 吉本隆明・辺見庸「夜と女と毛沢東」

●オウム事件はメディアにとって最高のカンフル剤

辺見 僕は『正論』の「バサリ論壇」とかいう欄で「反日的日本人」だとやられたことがある。従軍慰安婦問題の発言で、ですね。「慰安分の下腹部を手助けして公開し、それで食っていこうとする日本人」で「動物学部研究の対象」なんだそうですよ、僕は。こういうのは反論にも値しない。そしたら、同じ号の同じ欄で吉本さんもやられていた。麻原関連の発言で、吉本さんを「反体制の巨頭」だと書いている。やれやれ、ですよ。
吉本 そこら辺は、僕はもう慣れっこになっているから、怒りもしません。弓山さんは僕の話を聞きながら「よくわかります」ってとても好意的にうなずいてくれたから安心していたんです。ところがいざ彼が要約して紙面に載ると、オヤオヤという感じでした。ちょっとニュアンスが違うなと思った。ただ、そんなこと言っているとキリがないから、放っておきましたけど。

辺見 産経新聞のあのやり方は、全体から見ると、当初から罠にかける意図があったのではないかとすら勘繰りしたくなる。

吉本 だから僕はハメられたなと思っているけど、そう言ってもしょうがねえやと思うから・・・・・・。

辺見 驚いたことには、西尾幹二さんが全体を締め括っているのね。

吉本 「吉本はそういうことはいわない方がいいんだ」というんだけど、それなら自分の方も言わない方がいいぜって思いましたけどね。

辺見 全体にそういう雰囲気ですね。オウムについては無用な発言はしない方がいいって。だからテレビにはまともなのが出てこないでしょう。僕も「出ないか」と随分誘われたけど、あれに出たら終わりだと思いましたね。

吉本 終わりです。もう本当に嫌ですね。

坂本弁護士一家が殺害されたことについては、もちろん怒りを覚えます。しかしそれを必要以上に象徴化してお涙頂戴のストーリーを作り上げて、坂本さんの部屋をモニュメントして残そうなんて話をマスコミが大々的に取り上げるにいたっては、これは戦前の名誉の戦士の喧伝と同じことになりはしないでしょうか。僕には明らかに健全なバランスを逸しているような気がするんです。そういう危機感を、死者への哀悼の気持とは別個に感じるんです。無意識的な美談作りへの警戒感をどこかで冷やかに抱かざるをえない。そのことがどうしておかしなことなのでしょうか。これは死者を冒瀆するということではないです。どうして二つをごっちゃにするのか、僕が問題にしているのは、殺された事実ではなくて、その事実の取り上げ方なんです。とりあげ方が胡散臭い。こりゃ戦争中と同じだと思う。戦後社会もとうとうここまで来てしまったかというのが実感です。

僕はもっと軽い社会の方がいいと思うんですよ。今の若者が持っているような軽さがどんどん広がればいいと思う。うちの娘なんか、ウッパラヴァンなーというホーリーネームを持っている信者を見て、「ああいうアッパラパーみたいなホーリーネームは嫌だなあ」とか、「ニラレバ(ミラレバ)みたいな名前は嫌だなあ」とか、そういう受け止め方。

辺見 僕の娘もそうだなあ。そういうケロッとした反応というのはオウムの若い信者にもどこか重なります。

ただ吉本さん、僕が迷うのはそこなんです。その軽い気分です。その軽い、価値の空洞化した身体でも人が殺せるんだなと思うんです。ノッペラボウなんだな、顔が。オウムでも一流企業の新入社員でもノッペラボウの顔してる。ノッペラボウの人殺しなんじゃないか。それからテレビの自称レポーターという女の子がいるでしょう。あの連中も相当ノッペラボウですよ、顔も心も。ですから平気で容疑者の家族を追っかけ回して、僕はあれは言葉の最も正確な意味で「暴力」だと思います。本人たちはただ無邪気にやっているだけで、「暴力」の意識なんかこれっぽちもない。容疑者の母親の買い物カゴの中まで写したり、立ちはだかって詰問してみたり、愚にもつかない質問です。あれ、ノッペラボウだからできるんです。あんなものジャーナリズムでもレポーターでもないよと思う。

軽さもいいけれど、やはり顔や心に凸凹がないとまずい……。事態を僕らの世代のように妙に深刻に辛気臭く考えるのではなくて、相対化できるというのは結構なことだけど、ひたすら相対化するだけで、物語の芯が抜け落ちちゃっている。連中には憎しみなんてあまりない。さりとて冷血でもない。そういう人間の殺しが一番怖いんです。このノッペラボウ青年たちこそ、消費社会とメディア・ファッショの産物じゃないかと思うのです。だから人間論的には「無罪」なんですよ。無罪の犯罪ぐらい怖いのはない。司法上は有罪であろうけれど、人間的には無罪なんだと思う。人間的には間違いなく有罪の連中は概して裁かれないんです。

オウム事件というのはマスコミにとってはカンフル剤でした。週刊誌は軒並み売上増、新聞の夕刊は二割増し、マスコミは神戸の震災以上に、オウムに救われました。オウム事件というのは商売でもあったんです。今もそれが続いている。しかしそうして流されるオウム関連の情報には、私たちの過去・現在・未来に対する<なぜ>という問いがまったくないんです。それでいて、読者、視聴者とメディアの間に情報需給が立派に成立している。オウム、メディア、消費者は共犯関係といってもいい。もっと言えば、権力とも共犯関係なんだと思う。オウム事件というのは。警察権力がこれほど得した出来事はかつてないですよ。もう何でもできるようになったわけです、警察は。この国は一見、ソフトな警察国家になったといってもいい。

僕は吉本さんがなぜ軽さを大事に思うかよくわかるけど、ここに来て、軽さもまたヤバイなという感じがしますね。

吉本 ただね戦争中のことを経験しているから、それと比べてとうとう日本の市民社会もどんづまりまで来たなあという感じが拭えないんです。


(つづく)


吉本隆明・辺見庸 「夜と女と毛沢東」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?