宗教の事件 61 西尾幹二「現代について」

破壊活動をする団体への規制の歴史は、1936年のイギリスの公共秩序法、フランスの紙幣団体解散法などのいわゆる「反ファシズム法」が走りをなす。ドイツやイタリアのファシズム運動の自国内への波及を恐れた対応策であった。第二次世界大戦後は欧米各国においてこの種の法律が制定された。ドイツの結社法はその一つである。
1950年代から60年代にかけて、東西冷戦の激化に伴い、欧米各国では共産主義的勢力の暴力的破壊に脅威を覚えるようになって、「反共産主義法」が相次いで作られた。アメリカの1950年の国内安全保障などがその代表例である。昭和27年(1952年)に制定された日本の破防法もその流れをくむ一つではなかろうか。

1970年代以後、欧米各国の関心は多発するテロリズムに移った。ハイジャック、要人暗殺、無差別テロなどの悪質な犯罪は次第に国際化し、国家の支援を受けた国家テロリズムまでが出現して今日に及んでいる。こうして各国において「反テロリズム法」が作られるようになった。イギリスの1989年テロリズム防止法がその例としてあげられる。ドイツでも結社法だけではとうてい新しい暴力の挑戦に対決できないことに気がついた。テロは非公然組織であるため、結社法による解散処分などだけでは効果的な取り締まりができないからであるらしい。そのため刑事諸法にさまざまな手続き面での整備がほどこされたと聞いている。よど号ハイジャック事件や浅間山荘事件などの70年代のテロリズムの歴史を持つわが国において、その後どのような新しい対応がなされたか、あるいはなにもなされなかったかは、私自身よく知らない。ただ寡聞にして「反テロリズム法」が制定されたという話はいまだ耳にしていない。

オウム真理教は公然組織であるから、70年代の過激派テロ集団とは異なるが、テロ犯罪を問われていることには変わりはない。けれども日本には「反テロリスト法」もないし、「反ファシズム法」もない。公然組織である以上、日本で唯一の団体規制法である破防法をもって対処しようとする考えは妥当だし、それ以外に打つ手のないのが実情のようだが、すでに見てきた通り、破防法は基本的人権にあまりに配慮を払いすぎ、適用要件が厳格でありすぎるため、実効性に不安がある。ドイツの結社法では問題の団体が現実に犯罪行為を実行したかどうかが団体禁止の要件とされていない、ということは、驚異的事実として前に指摘した。しかしドイツに限らない。フランスの結社法においても事情は全く同様で、「不法な目的のために設立された結社」と認定されれば、それだけで解散させられる。また、現実に犯罪行為を実行したことを要件としている国であっても、日本の破防法のようにあの(三)の要件「将来における再犯の明らかなおそれ」をまで立証するよう求めている国はひとつもない。二重三重に鍵をかけている破防法の要件の厳格性は際立っている。

社会党の反対の怒号のなかでやっと成立したこの方の不完全性と非現実姓は明白である。いったいどうして破防法が民主主義を脅かすあぶない法律なのであろう。諸外国の例を調べれば調べるほど、日本の戦後社会の異常さと近代的法意識の未成熟が露呈している。

更に破防法の「暴力主義的破壊活動」は内乱、外患誘致、政治目的をもってする騒擾・放火・爆発物破壊・殺人・強盗など、きわめて重大な犯罪内容に限定されている(第4条)が、他の国ではそこまで重大な犯罪に必ずしも限定せず、より広範囲な犯罪を対象としている。加えて、破防法では団体の解散処分がただちに実行されるのではなく、危険な団体に対してはデモや宣伝の禁止などの活動制限をまず実施し(第5条)、それでもなお危険な場合に、段階的に徐々に解散を指示し、執行するという手順を踏むことになっている。考えられる限り穏やかであり、日本的であり、見方を変えれば生ぬるい。

リヨン・サミットが声明文で新たな覚悟を表明したような現代のテロリズム、思いもよらぬ手段をもってする目的不明の破壊活動に対処するのに、日本の破防法はあまりに手ぬるく、頼りなげで、適応性にも迅速性にも欠けているように思えないだろうか。松本智津夫にすでに当局が手玉に取られている一例をもってしても、時代遅れの馬脚をあらわしている。このままでは仮りに破防法の手続きが十全にとられても、オウム教団の形式的解散はよしんば実行されるにせよ、実質的活動の継続を防ぎ得ないのではないだろうか。

しかし、今のところ破防法以外にわが国に団体規制の法律はない。民主主義的秩序に反する破壊活動を絶対に許さないという国を挙げての決意と、自分で自分の安全と生活を守ろうという一般市民の意志があって初めて、法は生きてくる。破防法の不足部分は国民全部の協力と知恵で補わなくてはならないのである。いかなるテロも無条件に許さないという市民の日常感覚なくして、民主主義社会の健全な維持はありえない。マスコミに煽られ、国民は正当な法的措置を支持しているか否かで「確信の喪失」に襲われるような後めたさは、まずまっ先に拭い去るべきだろう。しかし拭い去るだけでは足りない。当局にまかせているだけで果たして21世紀にテロの恐怖から解放された国家でいられるか否か、より一歩踏み込んだ「反テロリズム法」の制定に協力すべきだろう。

「常識」はまさにここである。しかるに憲法学者や弁護士や各種法律家たちは、将来へ向けてのテロ活動の阻止という民主主義社会にとり最重要の目的よりも、ありもしない破防法の危険、国際比較からして無力にさえみえる法の恐怖をさわぎ立て、法を無効にすることに直接の目的を置いているかにみえる、察するにその動機は明白である。破防法のオウムへの適用を不可能にして、サリン散布テロリズムにさえ適用不可能であった前例をつくり、日本を今後起こり得るあらゆる左翼テロリズムに無防備な国家にしようと企てているのである。彼らはまだ暴力革命をあきらめていないのではないか。日本の憲法学者や弁護士たちのすべてがそうだと思わない。ただ全体として彼らは一部の勢力に引き摺られている。まともな市民感覚を持つ法律家諸氏よ、常識に戻れ!と私は彼らに今こそ声を大にして、訴えずにはいられない。


(つづく)


西尾幹二 「現代について」

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