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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(27)

第3章 ゼンティス

ゼンティス山頂 アルター・ゼンティス 2

 突然、暗い室内にアラームが鳴り響く。ヴァーツラフは飛び起きてベッド脇に置いたスマホをつかんだ。暗闇にスマホの光を受けた彼の顔が浮かぶ。深夜0時30分。隣のエミリアがおっとり声をかけた。
「なあに」
「しっ」
「え?」

――緊急、緊急。当館に爆弾を仕掛けたという電話がありました。念の為、館内にいる方はすべて、テラスにお集まりください

 館内放送が避難を呼びかけている。二人は顔を見合わせた。
「爆弾?」
「しーっ」

――なお、戸外は現在零下10度です。さらに風速10メートルの風が吹いているので、体感温度は零下20度です。万全な防寒対策をして避難してください。慌てずに落ち着いて行動してください

「爆弾って…」
「ともかく服を着よう」
 二人は急いで身支度をしたが、ゴーグル、アイゼン、ポールやトランシーバーがないだけで、あとは捜索時のスタイルそのままだった。狭い廊下に出ると、他の客たちもテラスに面したホールに向かっている。中には子供連れの家族もいて不安そうな顔をしている。館内はすべての明かりがこうこうと灯り、ホールに続々と宿泊客や従業員が集まっていた。ヴァーツラフが思っていた以上に大勢の宿泊客がいる。出口ではスタッフがメガホンで客たちを誘導していた。
「落ち着いてくだい。走らないでください。みなさんが外に出ている間に爆弾の捜索を行います。終わるまでしばらく外でお待ちください。業務連絡、業務連絡。警備担当は厨房に集合のこと」
「どうなってるんだ」
 客たちは山小屋のスタッフに詰め寄っている。それ以外の人々は窓の外の荒れ狂う光景に怯えていた。
「いたずらじゃないのか」
「たとえいたずらでも、一度安全を確認しなければなりません。ご協力ください」
「こんな時間にこんなところで爆破予告だと。狂ってる」
「部屋番号とお名前を確認します。この列にお並びください」
「こんなの、絶対誰かのいたずらに決まってるよ」
「落ち着いてすみやかに外に出てください。外で人数を確認します。ご協力をお願いします」
「警察はなにやってるんだ」
「悪天候でヘリは飛べません。ご協力を願います」
 テラスの照明はすべてついているが、それでも十分とは言えず、隅の方は暗いままだった。ときおり突風が吹きつけ、大声を出さないと相手に伝わらない。
「手すりから離れて、できるだけ建物の近くでお待ちください。風が強くて危険です!」
 上を見上げると早い雲の間に稲妻が光っている。風向きは刻々と変わり、直接吹きつけられると彼らは震え上がった。
「どうでもいいけど早いとこ終わらせてくれ。寒くてしょうがない」
「ママ、怖い」
 小さな子供が母親の足にしがみつく。
「レオシュ、聞こえるか?」
 フードをかぶった大男が耳もとを押さえた。「はい…」
「目立たないように崖に向かえ。マップは見れるな?」
「…はい。あの、ボス?」
「なんだ」
「この爆弾は…」
「違う違う。私も驚いてるんだ。たぶん、どこかの馬鹿がたちの悪いいたずらを仕組んだんだろう」
「…わかりました」
「とにかくこれはチャンスだ。よし、今だ。行け」
 大男は群衆に背を向け暗闇に向かって歩き出した。持っていた暗視ゴーグルを頭に装着すると、もはや民間人には見えない。
「エミリア、どこだ?」
 ヴァーツラフは暗がりの中ではぐれてしまったエミリアを探していた。遠くで声がする。
「ここよ、ここ!」
「どこ?」
 振り向いたヴァーツラフの目の隅で何かが動いた。黒い影が暗闇に消えようとしている。彼が目で追っていると、その人影は視界から完全に消えてしまった。気になって彼がそこまで行ってみると、手摺りで行き止まりになっており、その先には真っ暗な虚無が広がっている。眼下に目をこらすが、激しさを増す吹雪で何も見えない。ときおり稲妻の閃光が闇を引き裂く。しばらく眺めていたが嵐は一向に収まる気配がない。その時閃光が走り、崖下に一瞬人影が見えた。崖といっても上から見れば絶壁だ。その急斜面を素手で降りている。この荒天時に、しかも夜中に、険しいゼンティスを下山しようとするなど自殺行為に等しかった。ヴァーツラフは我知らず男を追おうと手摺りを乗り越え、急斜面にとりついた。
「あいつ、どこへ行く気だ」
 彼は雪と岩だけの滑りやすい斜面を手探りで降りていった。ときおり稲妻が瞬間的に先行する人影を闇に浮かび上がらせる。ヴァーツラフはエミリアのことも忘れ、先行者に追い付くことだけを考えていた。

「ヴァシェク、ヴァシェク!」
 エミリアはさっき彼の声がしたあたりで大声で叫んだが返事はない。テラスは乏しい照明と人の多さで、探すのは容易ではなかった。エミリアはもう一度叫んだ。
「ヴァシェク!」
「危険ですから手摺りから離れてください!」
 スタッフが制するのも構わず、彼女は凍りついた手すりを掴んで眼下の崖を覗き込んだ。暗闇に目が慣れると崖に人影が一瞬見えたような気がした。
「ヴァシェク?」
「ここは危ないですから、あっちに戻ってください」
「そこに人が!」
「ええ?あそこは絶壁ですよ。こんな時間に人なんかいるわけないでしょう」
「でも、そこに」
「いいですか、ここは本当に危険なんです。突風が来たら崖の下に真っ逆さまです。それでなくても雷に撃たれるかもしれない。さあ急いで」
 スタッフは有無を言わせずエミリアを抱きかかえてテラスの中央に戻した。さっきの人影は彼女の錯覚だったのか?
「こんな時にトランシーバーがあれば…」

 ヴァーツラフは一歩一歩足場を確かめながら崖を降りていた。彼にとっては好都合だったが、下を見ても暗闇だけで何も見えない。上を見ても、もやの中で明かりがぼんやりしているだけだ。また雪が降ってきた。雪といっても細かい氷の粒だ。それが強風に乗って容赦なくヴァーツラフの体に吹きつけてくる。彼の手足は急速に体温を奪われ、すでに半分感覚がなくなっている。それでも歯を食いしばって進んでいると、さっき人影が見えたあたりまでやっとたどり着いた。あいかわらず暴風が吠え、氷の粒が弾丸のように体中を打つ。ちょっとでも気を抜くと一瞬で暗黒の谷底ヘ直行だ。それでも彼は頼りないヘッドランプの灯だけで手さぐりで前に進む。あの人影が向かっていたのが、昼間金属探知機が反応した辺りだったせいだ。消えた男の姿はどこにもない。びしょ濡れの体に暴風が吹きつけ、容赦なく体温を奪っていく。そろそろ戻らないと遭難する恐れがあった。
「ボス、ありました!」
 ヴァーツラフのいる所から十数メートル下った辺りで、レオシュが大声をあげた。岩の隙間に古風なペンダントがはさまっている。稲光を受けてルビーが妖しく煌めいた。
「なに、本当か?」
 避難客にまぎれてテラスで待機していたウリエルは、レオシュから連絡を受けて手摺りの方へ近づいた。すれ違ったエミリアはそのまま通り過ぎようとしたが、立ち止まって振り返った。どこかで見た顔だ。どこだったか。すでにウリエルはウェイターの変装を取り去り、素顔に戻っている。エミリアがウリエルの素顔を知るはずはなかったが、それでも彼女はウリエルの後ろ姿を見つめていた。
「本当です。ゴツいペンダントだ」
レオシュはなんとかペンダントを引っ張りだそうと指をかける。
「そうか、レオシュ、よくやった!」
「はい」
「気をつけて上がってくれ。慌てることはない。慎重にな」
「了解」
 レオシュは片手を岩肌につき、もう一方の手でペンダントを引っ張りだそうとするが、深く岩にくい込んで簡単には外れそうにない。彼は万能ツールを取り出し、ペンダントに引っ掛けて渾身の力で引っ張った。その姿を濃い霧が覆い隠す。また閃光が光った。
 ヴァーツラフはなにか聞こえたように感じた。風と雨粒が体を打つ音で気のせいかと思ったが、また聞こえた。確かに人の声だ。彼は声のする方へゆっくりと降りていく。やがてかろうじて両足で立てるだけの足場にたどり着いた。稲妻が走り、黒ぐろとした岩と空を背景に人影が一瞬現れる。ヴァーツラフは相手と目があったような気がした。また空が光る。人影の手で何かが反射した。彼は風に逆らいながら一歩一歩近づいていく。
 レオシュはようやくペンダントを岩の間から引き抜いたが、その時閃光が走り、近くに誰かがいるのを見た。ペンダントを手にしたレオシュは懸命に逃げるが、途中でロープが岩に引っかかり、身動きがとれなくなった。その間にヴァーツラフが距離をつめる。どうしても岩からロープがはずせないレオシュは、とうとう自分の体からロープをはずしてしまった。次の瞬間、突風に煽られレオシュがバランスを崩した。ヴァーツラフもよろけ、岩肌に体を密着させて吹き飛ばされまいと必死にしがみついた。

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