見出し画像

ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(28)

第3章 ゼンティス

ゼンティス山頂 アルター・ゼンティス 3

 風が少し収まって目を上げると、さっきまで誰かがいた所に人影はない。ヴァーツラフはそこまで這うように進み、崖下を覗き込んだが漆黒の闇が広がるばかりで何ひとつ見えない。転落したのだろうか。その時急に今まで吹きつけていた風がやみ、月が姿を現した。満月の光は思いのほか明るく周囲を照らし出した。崖の下に何かが光るのが見える。ヴァーツラフはそこまで降りようと、そばにあったロープを掴んだ。引っ張ると上で固定してあるらしく、手応えはしっかりしている。彼はロープを自分の体に固定し、慎重に絶壁を降り始めた。ほんの数メートル降りたところで、再び風が襲いかかり、彼の体を吹き飛ばそうとする。月は隠れ、辺りは闇に沈んでしまった。強烈な風と雨粒で彼は一歩も進めなくなり、ただロープを掴んで風が止むのを待つしかない。その時、彼が足をかけていた僅かな岩が崩れ、ヴァーツラフは宙吊りになってしまった。両手で岩を掴み、体を引き寄せようとするが体は風に煽られて岩肌に叩きつけられる。雷鳴の轟く中、絶壁にしがみつきながらヴァーツラフは嘆いた。
「なんでこんなことに…」

「館内をくまなく捜索しましたが、爆弾は発見できませんでした。いたずら電話だったと思われます。みなさん、お部屋にお戻りください。ご協力ありがとうございました」
 山小屋のテラスでは、避難客がぞろぞろと屋内に戻っていく。
「あんなに雷が多いとはね。とにかくすごかったな」
「手の感覚がない…。凍傷になってたらどうしよう」
「真夜中のサンダーストーム・ショウは面白かったけど、こう寒くちゃね」
「なんか暖まる飲み物はないのか。これじゃ寒くて寝られん」
その中にヴァーツラフの姿を探していたエミリアは、最後に数名のスタッフだけが残ったテラスを見て吐き気をもよおした。
「大丈夫ですか。さあ早く中へ」
 スタッフに支えられ、ホールに戻った彼女は、人数確認をしているスタッフの所に案内された。
「お名前と部屋番号を」
「いないんです」エミリアの顔は蒼白だった。それは決して寒さだけのせいではない。
「は?」
「姿が見えないの。彼がいないのよ」
「まず、あなたのお名前と部屋番号を教えてください」
「…エミリア・プフィッツナー、3号室です」
「えーと、ああ、ありました。で、お連れの方は」
「だからいなくなったって言ってるでしょ!」
「え?えーと、ヴァーツラフ・モラヴェツ様、ですか」
「そうよ、ヴァーツラフの姿が見えないの」
「まだテラスにいらっしゃるんじゃ」
「もう誰もいない。彼はどこ?」
「ええっ」
 スタッフは初めて事態の深刻さに気づいたようだ。そこへもう一人の人数確認係がやってきた。
「そっちに9号室の客は戻ってる?」
「え、9号室?」
「そう。こっちでチェックできてないんだ」
「いや、その客は確認してないな」
「そうか、まずいな」
「こっちも一人、3号室の客が戻ってないんだ」
「なんだって」
「あの、」
「こちらは?」
「3号室のお連れの方で」
「ご心配をおかけしてすいません。もう一度確認しますので、ここでお待ちになりますか、それともお部屋で?」
 テラスから入ってきたスタッフが大声で叫んだ。「誰か下に降りてるみたいだ!」
「どうした」
「手すりにロープがある。見てくれ」
 彼らは顔を見合わせた。急いでテラスに向かうスタッフと一緒にエミリアも再び外に出た。
「これか」
 テラスの手すりには頑丈そうなカラビナが取り付けられ、ロープの先は漆黒の闇に飲み込まれている。
「けっこうテンションがかかってる。この先に誰かいるのは確かだ」
「明かりをもってこい!」
 誰かが叫んだ。急にテラスが騒がしくなる。
「この下に二人いるってことか?」
「そんなことわかるわけないだろ」
 エミリアは慌ただしくスタッフたちがテラスに集まるのを呆然と眺めていたが、急いで腰ベルトのホルダーに手を伸ばした。雪崩ビーコンをもどかしそうに取り出すと、モード切り替えスイッチに指をかける。
「お願い…」
 送信モードが受信モードに変わった途端、信号音が聞こえてきた。
「ヴァシェク!」
 小さく叫んだ彼女はビーコンを持って手すりに駆け寄ると、ゆっくり左右に動かしてポイントを探った。小さな液晶に点滅する点を追って手すり沿いに移動すると、スタッフたちが集まっているロープのそばにたどり着いた。下を覗き込んでも暗闇で何も見えないが、この下にヴァーツラフがいるはずだ、このロープの先に必ず。
「引き上げられないんですか!」エミリアは風に負けじと声を張り上げた。
「無理に引くと途中でロープが岩に擦れて切れるかもしれない」
「じゃあ…」
「今ヨハンが準備してる。あいつは山岳救助のベテランだ」
 テラスには何台かの投光器と重そうな動力ウインチが運び出されている。その脇で自分の装備を点検している男性がいた。ヘッドランプ付きのヘルメットを着けて、ヘッドセットをチェックしている。
「あの、ヨハンさん?」
「ああ、今忙しいんだ」
「あたしのパートナーなんです。助けてください」
 ヨハンは手を止めてエミリアを見た。
「お願いします。あたしの、一番大切な人なんです」
「わかった。必ず連れて帰る」
 落ち着きのある低い声でそう答えると、彼は素早く笑みを見せて崖に向かった。自分のロープをウインチに取り付けたヨハンは手すりにつかまり、スタッフたちの手を借りて崖側に降りていく。投光器が彼の行く手を照らすが、降ろされたロープの先は見えない。エミリアの口から言葉が漏れた。
「ヴァシェク、持ちこたえて。もうすぐ助けが行くから。それまで生きていて…」

 ヴァーツラフは宙吊りになりながらロープにしがみついていた。寒さや痛みの感覚はとうに失われ、今はひたすら眠い。このまま眠ってしまえたら、どんなに楽だろう。遠のく意識の彼方で何かが聞こえたような気がしたが、この猛吹雪の中でいったい何が聞こえるというのか。稲妻が走った時、なにか動く影が見えたような気がした。幻覚だろうか。今度は細い光が彼を照らした。
「おい、聞こえるか!」
 ヴァーツラフは弱々しく頭を動かした。
「もう大丈夫だ!」
 ヨハンはヴァーツラフに声をかけ、彼の体にハーネスを着せ付け、そこに用意したロープを取りつけた。さらに二人の体が離れないよう自分と彼のハーネス同士もカラビナでつなぎあわせた。ヴァーツラフは朦朧とした意識の中で状況が把握できず、固く握ったロープから手を放そうとしない。
「大丈夫だ。そっちは放せ。よく頑張ったな」ヨハンがこわばった彼の指を一本一本ロープから剥がしていく。
「だめだ!」ヴァーツラフが叫ぶが、もう抵抗する気力もない。
「大丈夫だ。上で彼女が待ってるぞ」
 ヨハンはトランシーバーで上に伝えた。
「発見した!………そうだ、生きてる……………いや、一人だけだ」
 ヨハンはヴァーツラフの体を抱きかかえ、上に合図した。「よし、上げてくれ。ゆっくりだぞ」
 テラスでは大勢の人々が手すり越しに下を覗き込んでいる。中にエミリアの姿もあった。ウインチはゆっくりとロープを巻き取っていく。やっと二人の姿が見えてきた時、テラスは歓声に包まれた。ウリエルは建物の陰からその様子を窺っていたが、手すり越しに助け上げられるヴァーツラフの姿を見て小さくため息をついた。
「レオシュ…なんてことだ…」
 彼はスマホを取り出し、山岳救助隊に遭難信号を発信した。
「はい、REGAです。どうしました?」
「友人が、転落したんです。場所は…」

←目次             (29)→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?