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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(21)

第2章 3つめのスケッチ

プラハ ファウストの家 2

「男の名はグレゴール・アントン・クロイツポイントナー。夫婦はハインリヒとレナ・ハース。クロイツポイントナーはバイエルンからスイスのアッペンツェルにやって来た。19の頃だ。靴職人だったがスキーと登山が得意で、地元のスポーツクラブでは人気者だった。私の説はこうだ。その頃、彼は裕福なメレンドルフ家の娘ヴィルヘルミーナと知り合い、愛し合うようになる。メレンドルフ家はアッペンツェルの隣のザンクト・ガレンを拠点に手広く建設業を営み、当時羽振りが良かったブルジョワ層の一つだ。地元では名家として名が通っていた。若気の至りで彼女は愛情の証に家に代々伝わるペンダントをクロイツポイントナーに贈ってしまう。食うに困ってバイエルンから流れてきた靴職人の息子は、いまや地元の社交界に入り込み、融資を受けて念願の靴工場を持つまでになっていた。彼の人生の絶頂期と言っていいだろう。ところが、ヴィルヘルミーナが妊娠し、それが両親に知れると状況は一変する。ヘルミーナの両親は娘を彼から遠ざけ、ペンダントを取り戻そうとしたんだ。そこに登場するのがレナ・ハースだ。彼女は以前メレンドルフ家で働いていて、メレンドルフ夫人のお気に入りだった。夫人はレナにペンダント返還の仲介を頼んだんだ。当時すでに結婚して子供もいたレナは、クロイツポイントナーより年上で世事にも長けていた。若造の靴職人を言いくるめることなどた易かったろう。ところがレナはペンダントをメレンドルフ家に返さなかった。最初から我が物にするつもりだったのか、あるいは当時国境までドイツ軍が迫っていた混乱のせいなのか、それはわからない。もしかしたらメレンドルフ家はいち早く戦争を避けて逃げてしまったのかもしれない。いずれにせよペンダントはレナの手元に残った。まだ第一次世界大戦中のことだ。クロイツポイントナーは、志願したか徴兵されたかはわからないが、アッペンツェル地方の国境警備隊に配属され、軍曹として2年間兵役についた。戦後、靴工場を立て直そうとしたが失敗。経済的に追い込まれた彼は就活したが、戦争の影響でなかなか仕事が見つからない。そんな中、ゼンティス山頂の測候所の住み込み職員募集を知り、応募した。募集していたのは夫婦者だったが細かいことを気にする余裕はなかったんだろう。ところが、その時同時に応募してきたのがレナとハインリヒのハース夫婦だった。偶然とは恐ろしいものだな。あるいは運命だったのか。結局レナ夫婦が採用され、彼は仕事にありつけなかった。殺人の動機は就職できなかったせいだとする解釈もあるが、説得力はない。その時レナのことを聞いたクロイツポイントナーは、忘れていたヴィルヘルミーナのこと、ペンダントのことを思い出した。ヘルミーナを探したが、メレンドルフ家は離散して家屋敷も見知らぬ人のものになっていた。彼らの行方を知る者はいなかった。せめて今あのペンダントがあれば、靴工場を再興できるかもしれない。あれはレナに渡した後どうなっただろう。そうだ、レナに聞けばヘルミーナのことがわかるかもしれない。あのペンダントのことも。彼は思い立ってゼンティスに登った。2月だったが登山はお手の物だ。山頂で夫婦はクロイツポイントナーの来訪の意図をはかりかねた。彼らには奴がレナに別れさせられた恨みを言いたいのか、採用されなかった妬みのせいなのか、金銭が目的なのか、真の目的はわからなかった。クロイツポイントナーはレナに自分とヴィルヘルミーナ・メレンドルフのことを思い出させ、自分が贈られたペンダントを思い出させようとした。だが、レナもまたメレンドルフ家とは戦争中ということもあり連絡が取れなくなっていた。ヘルミーナも今どこにいるのかわからない。そうクロイツポイントナーに告げると、彼は非常に落胆し、レナも同情するほどだった。彼はさらにペンダントのことを問い詰める。レナはずっと義理の母親に預けていたが、それをクロイツポイントナーに言うわけにはいかなかった。彼女は彼がピストルを持っているのを見てしまったからだ。彼女は、もう手もとにない、誰かにやってしまった、とごまかそうとした。クロイツポイントナーは誰にやったのかと執拗に尋ねるが、レナは数年前のことで覚えてない、と答える。そんなはずはない、隠してるんだろう、あれはもともと自分がもらったものだ、俺のものだ、今すぐ返してもらおう。彼はだんだん興奮してくる。レナは頑なに覚えていないと言い張る。最後は言い争いになり、クロイツポイントナーは思わずレナを撃ってしまう。当時山頂には暴風が吹き荒れていて、外の観測コテージにいた夫には聞こえなかった。彼は犬に邪魔されながら部屋中を探したが、ペンダントは見つからなかった。見つかったのはありきたりのアクセサリーだけ。クロイツポイントナーはレナを殺してしまったからにはハインリッヒも殺さないと警察から逃れられないと考え、外に出て夫も撃ち殺した。彼はコテージも家探ししたが何も見つからなかった。荒天の夜間、美しいシュプールを残して彼は現場から姿を消した。その後ピストルを警察に届けるよう、見ず知らずの人に預け、奪った安物のアクセサリーを売り払ったが、結局三週間後にゼンティスのふもとの納屋で首を吊った」
 語り終えたウリエルは満足そうで、穏やかに大男を見た。レオシュはその間ずっと身動きもせずに立ち続けていた。眉ひとつ動かすでもなく、目を細めるでもなく、その表情からは何も読み取れない。
「これが、私のたどり着いた真実、ゼンティスの物語だ。そして、このクロイツポイントナーとヘルミーナの間に生まれた私生児が私の祖父なんだ。祖父の残した日記が誰についてのものなのかやっとわかったのさ。この日記は祖父の乳母、かつてのヘルミーナの小間使いが書いたものだったんだ。そう考えるとすべてのピースがぴったりはまる。これが唯一の解釈だ。私は不遇なクロイツポイントナーと祖父が嫌いだ。私に言わせれば奴らは人生の負け犬だ。私と一緒にしてほしくない。私はああはならない、ならないと決めたんだ。そのために私はあのペンダントを手に入れる。奴らにはできなかったことを私はやり遂げる」
 ウリエルは立ち上がり、レオシュの前に立った。
「つまりこれは、単なる仕事であるばかりでなく、私の個人的な問題でもあるんだ。だから、今回は断わってもいいんだぞ。しかも、命を危険に晒すことになるかもしれないんだからな」
「……命じてください。俺は行きます」
「返事を急ぐことはない」
「俺は、ボスに拾って貰わなかったら、あのままマフィアの用心棒として、どこかの暗い路地裏か、工場跡地あたりで殺されてたでしょう。…だから、行けと言ってください」

プラハ ナ・プジーコプイェ通り

「カチンスキは、いえウリエルは1ヵ月も前にステラと接触してるんですよ。こっちはずいぶん遅れをとってるんです」
 仕事を終えたヴァーツラフは職場の前の通りに出ると歩きながらサー・ジェフリーに電話をかけた。
「まあ、ちょっと落ち着いたらどうだ」
 雑多なものが散らかる大きなデスクの上だけが照らされている暗い室内で、座り心地の良さそうな椅子に収まったサー・ジェフリーは、早口でしゃべる青年に穏やかに話しかけている。
「これが落ち着いてられますか。すぐにでもゼンティスに行かないと」
 彼は冷たい石畳の道を地下鉄の駅に向かっている。ちょうど近くの教会の鐘が鳴り始めたところだ。
「待ちなさい。いいか、問題のペンダントがなくなったのは何ヶ月も前だ。今頃は厚い氷の下で、誰にも見つけられやせんよ。それに今は真冬だ。こんな時に行っても手も足も出んのじゃないか」
「そんな悠長なこと言ってる間にウリエルが手に入れてしまいますよ。あいつはエミリアの電話を盗聴してたんですよ!」
「ああ、そうらしいな。クラーラから聞いたよ。なあ君、ウリエルだろうとカチンスキだろうと、10月に失くしたペンダントを見つけられるとはとても思えん。荒天続きの冬山は危険だ。何年か前にはあの辺で雪崩も起こっとる」
「だからといって、ウリエルが指をくわえてるって言うんですか。あいつは絶対行ってますよ」
「待てと言うに。君の今回の調査の目的はなんだ?ペンダントの実在を確かめることだろう。その目的は立派に果たされとる」
「事態が変わったんです。歴史的に貴重な美術品が盗まれるかもしれないんですよ」
「そうかもしれんが、わしらには手は出せんよ。ハプスブルク法はまだ有効だからそっちはいいとしても、これはもうスイス警察とオーストリア政府の仕事だ」
「警察なんか、被害が発生してからじゃないと動きませんよ。そうなってからじゃ遅いんです」
「ふうむ。君は被害と言うがな、いったい誰が被害を受けるんだ?」
「もちろん人類ですよ」
 薄暗い部屋の中で椅子に立て掛けてある、野菜と果物で描かれたローマの豊穣の神が笑みをたたえているのが見える。いくら見つめても絵が語りかけはしないことなどサー・ジェフリーもわかっているはずだが、この時はなぜか落胆したように肩をすくめた。そして彼は匙を投げた。
「なあ君、ひとつ教えてくれんか。君のその気狂いじみた情熱はいったいどこから来とるのかね」
「え?なんですか?」
「いや、いい。なんでもない」
 マエストロは飲みかけのスコッチのグラスを干すと、葉巻に火をつけた。
「ミリィは、エミリアは冬山登山のエキスパートなんです」
 ヴァーツラフはポケットの小銭を探り出し、券売機に入れている。
「ほう、そうかね」
「ベテランですよ」
「とはいえ、なぜ彼女が?」
「彼女も僕と同意見なんです。準備ができ次第、二人で行くつもりです」
「クラーラは反対しとるんだろ。えらく怒っとったぞ、無謀な独断専行は許されんとな。第一、EUとスイスの間に歴史的遺物の引き渡し条項があったかどうか…」
「大丈夫です。表向きはプライベートな旅行ということにすれば問題ありません。大体の場所もステラ・尹の妹さんから聞いてますし」
「ということは、もしうまくいったらクラーラが後始末に奔走することになるな。下手をすれば国際問題だ」
「それはそうかもしれませんが、今はそんなこと気にしてる場合じゃないんです」
「ううむ、どうあっても行くと言うんだな」
「今は緊急事態なんです。一刻を争うんです。お役所仕事で時間ばっかりかけてる内に、ペンダントはウリエルに奪われてしまいますよ」
「聞きなさい。もう止めんよ。ただし、いつ行くかは教えといてくれ」
「実力で阻止するってことですか」
「それは無理な話だ。もはや君らを止めることなど誰にも出来んよ。ただ、スケジュールと連絡先だけは知っておきたい。急な連絡が必要になるかもしれんからな」
「わかりました。あとでメールしときます」
 ヴァーツラフはホームに滑りこんだ地下鉄に飛び乗った。
「なあヴァシェク、くれぐれも無理はせんでくれ」
「なんです?周りの音がうるさくて聞こえないんですけど」
「何を言ってるのかわからん。もっと大きな声で頼む」
「…ぶです。絶対危険なことは……」
 電話が切れた。サー・ジェフリーは不機嫌に電話を睨みつけた。
「気にくわん。気にくわんぞ、こいつは。なんでペンダントなんぞ放っておけんのか、あいつは。リスクが高すぎる。……それとも、わしが歳をとったせいなのか…」
 椅子の背にたてかけられた豊穣の神はただ収穫の笑みを浮べるだけだった。葉巻の煙をしばらく見つめていたサー・ジェフリーは、絵に向かって低くつぶやいた。
「おまえさんも罪作りだな、まったく」

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