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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(22)

第3章 ゼンティス

アッペンツェル 路上

「シュミットさん?」
 アッペンツェルの町外れにある寂しい裏道で、髭面の大男が道を塞ぐように彼の前に立っていた。山あいの町は日暮れも早く、冬のこの時期、傾いた陽を背にした大男の表情はわからなかった。問われた中年男性はいぶかしげに答える。
「なんです?」
「アルター・ゼンティスにお務めですか」
「それがなにか。あんた誰です」
「じゃあ、間違いないな」
 大男はいきなり男に覆いかぶさり、羽交い締めにした。シュミットは抵抗するが、圧倒的な体格差と腕力で身動きできない。やがて小さな悲鳴が漏れ、大男がシュミットを放すと、彼はそのまま崩折れてしまった。大男はシュミットのポケットを探り、スマホを奪うと無言で立ち去った。シュミットは倒れたまま低く呻いている。人通りのない裏道は物音ひとつせず、哀れな呻き声だけがいつまでもよどんでいた。
 大男は木陰に止めてあった車に戻り、奪ったスマホのスリープを解除した。次に用意した別のバッテリーをスマホにつなぎ、バッテリーごと電磁波シールド材でできた袋に収める。周りを見回しても人っ子ひとり見当たらなかった。
「ボス、完了です」
 彼はザンクト・ガレンで待機している"上官"に連絡した。
「そうか。よくやった、レオシュ。やりすぎなかったろうな」
「…俺は、プロです」
「悪かった。疑うわけじゃないんだ」
「はい…」
「18時にホテルで落ち合おう」
「わかりました」
「バーに来てくれ、アインシュタイン・バーだ」
「はい」
「しかし、なんでアインシュタインなんだろうな」
「………」
「気にするな、独り言だ」

ウィーン ハイリゲンシュタット

「聞こえる?ヴァシェク」
「オーケー、ミリィ。こっちからは聞こえてる?」
 ウィーン郊外にある100年前に建てられた長大な集合住宅の一角にあるアパートの一室で、二人はトランシーバーとヘッドセットのテストをしていた。
「通話のオンオフは自動で切り替わるから」
「ハンズフリーって楽でいいな」
「さっきの暗証番号忘れないでよ」エミリアが廊下から部屋に入ってきた。
「秘話機能の?」
「そ。じゃあ、これはよしと。電源切っといてね。次は、」
 エミリアはヘッドセットを外し、黒い小さな箱を二つ取り上げた。
「それは?」
雪崩なだれビーコン」
「ヘえ」
「雪に埋まっちゃった時は、これが命綱だよ。ここが電源。で、モードを送信にしとくの。これでよしっと。はい」二つとも設定して一つをヴァーツラフに手渡す。
「え、もう終わり?」
「そ。これでいざという時探してもらえる」
「すごいな。こんなのあるんだ」
「でも過信したらだめだよ。近距離しか役に立たないから」
「ふうん」
「電池、いったん抜いといて」
「こんなにいろいろ持ってくんだ…」
 ヴァーツラフはエミリアが用意した服や装備を前にしてつぶやいた。目の前にはリュック、各種ウェア、ハーネス、登山靴、アイゼン、トレッキングポール、ロープ、ピッケル、ファーストエイドキット、スコップ、ゾンデ、予備バッテリー、GPS用のスマホ、金属探知機などが並んでいる。
「GPSはあたしが持つから。金属探知機はもし持ってくんだったらヴァシェク持ってね。取説、よく読んどいて」
「全部持ってくとなると結構な重量だよね」
「んーと、一人15キロくらいかな」
「ほんとにこんなに必要なの」
「あんた、冬山を何だと思ってんの。近所の公園にピクニックに行くんじゃないんだから」エミリアはリュックに手際よく荷物を詰めながら、子供にさとすように言った。
「でもゼンティスってさあ、スイスじゃ小学生が遠足で行くような所らしいよ」
「小学生は真冬に登ったりしません」
 ヴァーツラフは黙ってしばらくの間は自分のパッキングに専念していたが、ついに我慢しきれなくなった。
「でもさあ、手で投げただけだから、そんなに遠くには行ってないはずだよね」
 エミリアはたたんでいた靴下を放り出すとヴァーツラフを睨みつけた。
「あたしは、スマホ変えたり装備を準備したりで、この一週間めちゃくちゃ忙しかったの。わかる?」
「あ…はい」
「それを今になってゴチャゴチャ言われたくない。わかる?」
「はい」
「休暇をとるのに同僚に頼み込んで仕事を代わってもらったり、」
「うん」
「いくらあたしが守るって言っても、最後は自分自身なんだよ。他人事みたいな言い方、よくないよ」
「ごめん」
「だから、いちいちくだらないことに引っかかってないで、ちゃんとパッキングするの。わかった?」エミリアはパッキングを再開した。
「…はい」
「そもそも下は絶壁でしょ。どこまで落ちたかなんて誰にもわからないじゃない」
「それはそうだけど…もう雪はあったみたいだし」
「ああもう、そんなたたみ方しないの。貸して」
「あ、ごめん」
 エミリアはヴァーツラフのアウターをたたみながら言った。「とにかく単独行動は厳禁。あたしから離れないこと、いい?」
「はい」
 ヴァーツラフは思いついたように聞いた。「ねえ、金属探知機ってどうなの」
「うーん、あんまり当てにはならないかも。特に零下10度以下だと精度が悪くなるらしいし」
「そうなんだ」
「とりあえず考古学科の後輩から借りたんだけど」
「ダメもとで持ってこうよ」
 ヴァーツラフは細長い袋から金属製の棒を取り出した。
「これ、何だったっけ」
「それはゾンデ」
「ゾンデ?」
「プローブだよ」
「プローブって」
「雪に埋まった遭難者を探すやつ」
「これじゃ短くない?」
「伸ばすと2メートル以上になるんだ」
「へえ、いろいろあるんだ」
「ゾンデにしてもビーコンにしても、買う前に説明したじゃない。聞いてなかったの?」
「え、そうだっけ。なんかいろんなもの買ったしなあ。全部で給料1ヵ月分くらい使ったんじゃないかな」
「にしてもよ。命に関わることなんだから、そのくらい安いもんでしょ」
「…うん」
「準備しすぎるくらいでちょうどいいんだからね」
「トランシーバーも秘話機能付きだし」
「それはあんまり過信しないほうがいいけどね」
「ないよりマシでしょ」
「あそうだ。ヴァシェク、チケットは大丈夫だよね」
「えーと、」ヴァーツラフはスマホを探った。「いま出す。ちょっと待って…ああ、ここだ。明日の11時発、ウィーン空港だ」
「チューリッヒからはレンタカー?」
「うん。もう手配してある」
「どのくらいかかるの」
「順調にいけば1時間半くらいかな」
「じゃあ4時ころには宿に着けるね」

チューリッヒ中央駅

「あんたの食生活って子供みたい」
 チューリッヒ中央駅構内の広大な広場に面したカフェで二人はランチをとっていた。ここからは広場の天井から吊り下がった巨大な極彩色の守護天使が見える。エミリアの前にはローストビーフサンドの、ヴァーツラフの前にはドーナツの乗った皿があった。エミリアは目を細めて向かいの皿を見ている。
「そうかな」
「そうよ。ちゃんとした食事じゃなくてお菓子みたいなのばっかりじゃない」
「でも、これでここまで大きくなったんだから」ヴァーツラフは頬をふくらませた。
「あたしだったら病気になってる」
「じゃあそのサンドイッチ、一口ちょうだい」
「いやよ。欲しかったら自分で頼みなさい」
「意外とケチだし」
 ドーナツを頬張りながらヴァーツラフがつぶやくとエミリアはため息をついた。
「なに言ってんの。最後は体力がものを言うんだよ。ちゃんと食べとかないと」
「はいはい」
 ドーナツを食べ終わったヴァーツラフは席を立って店内のカウンターに行った。何か買っているらしい。それを横目で見ながらエミリアは黙々とサンドイッチを頬張っている。ヴァーツラフが紙袋を抱えて戻ってきた。
「なに」両手でサンドイッチを持ったエミリアが上目使いに尋ねる。
「車の中で食べる用のパストラミサンドと水。一本は君に」ヴァーツラフがテーブルにペットボトルを置いた。
「どうも」彼女は再びサンドイッチにかぶりついた。
「じゃあ、車借りてくるからここで待ってて」
「え、」
「すぐそこなんだ。10分かそのくらいで戻るよ」ヴァーツラフは紙袋だけを抱えてカフェを出ていった。
「ふん」
 ヴァーツラフはエミリアに何を言われてもほとんど気にしていないように見える。これが先人たちの通った道なのだろうか。後ろ姿を見送りながら、エミリアは自分でもなぜヴァーツラフに当たるのかわからずに、いらいらとローストビーフサンドイッチを噛みちぎった。

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