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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(23)

第3章 ゼンティス

プラハ 美術史研究所

「はい。エジプトとの共同調査の時に」
 長い黒髪を際立たせるような鮮やかなスカーフを首に巻いたその女性は、クラーラには少し若すぎるように思えたが、履歴は申し分ない上、各地で遺跡発掘調査の経験も積んでいるらしい。
「素晴らしい経歴だ。あなたなら、パリでもハーグでも十分やっていけると思うが」
「でも、ルドルフ二世時代の研究はここが一番ですから」
 そう言って笑うと歯の白さが際立った。クラーラはもう一度履歴書に目を落としてから目の前の女性をながめた。張りのある浅黒い顔の中で表情豊かな目が知的に光っている。
「そう。あなたさえ良ければ、歓迎しますよ」
「ありがとうございます!」彼女は目を輝かせた。
「詳細は一階の事務で確認を」
 にこやかに退室した女性を見送ると、クラーラは履歴書の束をまとめ、受話器をとった。
「私だ。面接の合格者がそっちに行く。名前は、アル=ハリーファ、ラニア・アル=ハリーファ・ベルナール。そうだ、手続きを頼む」
 チェコ科学アカデミーはAS(運命の寓意=Alegorie Stesti)テキスト −最近では『フォルトゥナ』の下から発見された文章はこう呼ばれている− の調査完了を待って、プラハ城の未発見クンストカマー発掘調査に向けて専門家を募集した。美術史研究所に所属し、予備調査から発掘終了までを担当する。もちろん文部省やカレル大学との共同チームとしてだが。
「この二人でなんとかなるか」
 クラーラは改めて二枚の履歴書をデスクに広げた。一枚はラニア、もう一枚は男性だ。氏名欄には《マルチェッロ・ジャンニーニ》とある。顎の大きい、日に焼けた金髪の青年の写真が見える。
「こっちは実績や経験はあまりぱっとしないが、気さくで体力はありそうだからな、まあ良しとしよう」
 来月から始まる予備調査の第一フェーズは、16世紀末のプラハ城の平面図および文書資料を検討することから始まる。プラハ城は長年にわたって増改築が進められてきた、と言うよりも、数百年間ずっと建設中だったと言ったほうがふさわしいだろう。時代がずれると平面図も大きく変わる。今回は1570年から1620年の50年間に絞ったが、該当するいくつかの資料もそれぞれ細部が違っている。発見されたASテキストが指し示しているのは、いわゆる第二の中庭と第三の中庭を隔てる中央翼の一角にある旧数学塔付近だ。螺旋階段のついたその小さな塔は、かつては天体観測用として使われていたが、その地下にルドルフ二世の秘密の部屋が隠されているという。マリア・テレジア時代に中央翼を建て直した際に、数学塔も含め旧ウイングはすべて取り壊されてしまった。画面を確認しながらクラーラはため息をついた。本当にこんなところにクンストカマーなどあるのだろうか。電話が鳴ってクラーラは無意識に受話器を取った。
「私だ」
「観光局からです」
 クラーラは怪訝な顔をした。「つないでくれ」
「はい、所長のベネショヴァです」
「プラハ観光局のラディム・チェハークと申します。重要な件でお電話しました」
「どういったご用件でしょう」
「発掘調査ですよ、ベネショヴァさん。こんな重大なことを我々抜きでお決めになっては困りますな」
「どういうことでしょう」
「一方的に一週間もプラハ城を閉鎖するなど、正気の沙汰とは思えない、と申し上げてるんです」
「事前調査の件ですか」
「さよう、その非常識な調査のことですよ、ベネショヴァさん」
「その件でしたら、議会でも正式に承認されてるんですから、クレームでしたら議会の方にお願いします」
「いやいや。あなたは問題がおわかりになっていない。あなた方に勝手にプラハ城を閉鎖する権利はないのですぞ」
「いいですか、これは重大な学術調査です。議会も承認しています。うちに言う筋合いのものではないでしょう」
「プラハ城管理局も黙っていないでしょうな」
「議会は管理局も交えて議論してるんですよ。その間に、他の部分も集中的にメンテナンスすると聞いてますけど」
「プラハ城が一日にどれだけの観光客を受け入れ、どれだけの収入をもたらしているかご存知ですか。年間300万人近くの観光客が訪れ、400億コルナの収入があるんですぞ。一日あたり1億コルナ以上になる。それを一週間も閉鎖したら8億コルナもの損害だ。これの責任は誰がとるんですか」
「ですから、苦情は議会にと」
「議会はこのプロジェクトの実質的な責任者はあなただと言ってますがね」
「その通り。だからこそ、私にはこのプロジェクトを万難を排して進める責任があります。ですが、誤解を解くのは議会の仕事です。忙しいのでこれで失礼」
 クラーラは乱暴に受話器を置くとタバコに手を伸ばした。ドアにノックがあり、返事も待たずに大柄な男が入ってくる。外で電話が終わるのを待っていたらしい。
「クラーラ、大丈夫か。あなた悲しいの顔、美人、台無しね」
 笑顔で入ってきた金髪の大男はソファに深々と座り、クラーラをじっと見つめた。チェコ語がたどたどしい。
「マルチェッロ、聞いていたのか」
「わかりません」
 新入りはあくまでも馴れ馴れしくとぼけてみせた。クラーラはタバコの煙を吐き出し、イタリア語に切り替えた。
「立ち聞きはあまりいい趣味とは言えんな」
「もう一人が決まったらしいですね。紹介してくださいよ」
「紹介が必要なのか」
「そう堅苦しく考えなくても。これから一年、ひょっとしたら二、三年付き合うパートナーじゃないですか、挨拶くらいはしとかないと」
「ビジネスパートナーだ。わかってるだろうが…」
「もちろんですよ。ビジネスパートナーね」
「もう帰ったはずだが」
「遅かったか」
「まあ待て。せっかく来たんだから、仕事をひとつ頼みたい」
「いいですよ、なんなりと」
「プラハ城管理局に今回の発掘調査を担当する工事業者の選定を頼んでるんだが、経験のある所でないと安心できんからな」クラーラはマルチェッロにファイルを渡した。「この業者の実績をチェックしてくれ。該当工事の相手方の評価を聞きたい。できるな」
 マルチェッロは書類をめくりながらにやにやしている。
「つまり、ユーザーの口コミですね」
「まあそんなところだ。ポイントはスケジュール管理や予算管理、原状回復に問題がなかったか、現場での急な変更に柔軟に対応できたか、などだな」
「この業者もプラハ城管理局も信用してないんですね、ビジネスパートナーでしょう?」
「信用するしないの問題じゃない。当然のリスクマネジメントだ。無論、向こうが知ったらいい顔はしないだろうが」
 彼は顔を輝かせた。「スパイみたいだな。やっぱりツイードのスーツですかね」
「ただのインタビューだ。映画の見すぎじゃないのか」
「相手にこっちの意図をさとられないように動くんですよね。もしバレたらヴルタヴァ川に沈められるかもしれない」
「マフィアじゃないんだ。そんなことあるわけないだろう。君はなにか勘違いしてないか」
「わかりました。僕のコードネームはなんです?」
 クラーラは片肘をデスクについて額に手をあてた。
「やはり他の者に頼もう。君にはちょっと早かったようだ」
「待ってください。僕の初仕事だ。うまくやりますよ」
 ファイルをしっかり掴んだマルチェッロは白い歯を見せて意気揚々と部屋から出ていった。それを見たクラーラはため息をつき、またタバコに手を伸ばした。自分の人選に自信を失ったのかもしれない。

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