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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(24)

第3章 ゼンティス

ザンクト・ガレン州シュヴェーガルプ

「おぉ…」
 ゼンティス山の麓シュヴェーガルプにはロープウェイの駅とホテルしかない。駐車場に車を止めた二人は凍りついた外気の洗礼をまともに受けた。
「大丈夫、すぐ慣れるから。それより早く後ろ、開けて」
 二人は大きなリュックを背負ってロープウェイの駅舎に入った。しかし建物の中は、あきれたことに外と同じ寒さだった。チケット売り場の窓は暖房が漏れないようにしっかりと閉められているが、奥の改札からは冷たい風が盛大に吹き込んでいる。エミリアはリュックを下ろし、手袋を脱いだ。
「チケット買ってくる」
 体が自然と震えてくる寒さなのに気にも止めない様子のエミリアを見て、ヴァーツラフは感心すると同時に早く暖房の効いたところに避難したかった。
「次は30分後だって」チケットを渡しながらエミリアは地図を広げた。
「じゃあどっかでお茶して待とう」
 駅には待てるような場所はなかったが、隣接したホテルのレストランでは温かい飲み物を出している。彼らはレストランの椅子に座り、エミリアはハーブティー、ヴァーツラフはココアを頼んだ。
「これ大変そう…」
 エミリアはルートマップを見ながらつぶやいている。暖房の効いた屋内に入って、ヴァーツラフはやっと手袋を脱ぐ気になった。
「それ、僕らが行くルート?」
「違う。あたしたちはルート外で探すんだから」
「うん」
 エミリアは黙ってマップを読んでいる。ヴァーツラフはその隣でなんとなく周りを見回している。平日の夕方、この季節はほとんど利用者の姿はなかった。
「あのさ」
「うん?」
「ミリィはいつ頃から山に登り始めたの」
「え?ああ、最初に登ったのは中学の時かな。母に連れられて」
「ふうん、お母さん、山好きなんだ」
「え、そうなるのかな」
「違うの」
「いままで考えたことなかったから」
「そうなんだ」
「あの人、山、好きなのかな」
「え?好きでもないのに登る人なんているの」
「あのさ、母って、あんまり外出しないんだ。いつも家にいて、出かけるのは好きじゃないみたい」
「へえ」
「母と一緒にどこか行ったのって、その時だけかもしれない」
「まさか…」
「いや、そうだよ。変だと思うかもしれないけど、ホントにそうなんだ」
「まあ、世の中にはいろんな人がいるから。家にいるのが好きって人も大勢…」
「ちょっとそういうのでもないっていうか、家の中で何をするわけでもなく、じっと座ってたりするんだ。それってやっぱり変だよね」
「別にいいんじゃない。僕の母親なんか、人の顔見るとなんか文句言わなきゃ死ぬ症候群かよっていうくらい、いつも小言言われてたよ」
「ふうん」
「だからさ、さっきも言ったけど、いろんな人がいるんだ」
「そうなのかなあ」
「ミリィはそれで辛かったの?」
「別に辛いとかは」
「じゃあ、」
「特に辛い思いはしなかったよ。でもあの頃は、もっと母とつながっていたかった。あの人は、たった一人の子供にも、あんまり関心がなかったんだ」
「ミリィ、」
「そうなんだよ。友達の家に遊びに行った時、親子で仲良くおしゃべりしてるの見てショックだったんだ」
「ミリィ…」
「あたしは、母にほめられた記憶がない」
「ゴメン、僕が考えなしに聞いたから…」
「だからあたしは、母に認めてほしくて勉強もスポーツも人一倍頑張ったよ」
「うんうん」
「でもいくら頑張ってもあの人は…」
 エミリアは握った両手を膝に押しつけたまま、うつむいてしまった。ヴァーツラフは肩に手を回そうとして思い直し、ちょっと深呼吸してから話しだした。
「ミリィ、そんなことないよ、そんなことない。ミリィのお母さんだってミリィのこと、好きだったんだよ。でもちょっとだけ、お母さんは表現するのが苦手だった。それだけのことだよ」
「あんたは母を知らないからそんなこと言えるんだよ」
「でもさ、不器用な人ってどこにでもいるし、」
「そうよ、あんただってすごい不器用だし」
「え?そうかな。僕のことはともかく…」
「それに無自覚で」
「え?」
「そうだよ。不器用で無自覚。それが諸悪の根源だって」
「そんな…」
「相手が傷ついても無自覚って、最悪だよ」
 胸をつかれたヴァーツラフはじっとエミリアを見つめた。
「僕は……ミリィを傷つけてるの?」
「バカね、一般論でしょ」
「え、」
「あんたほどバカみたいにあたしの心配する人、見たことない」
「え、」
 エミリアは唐突に立ち上がった。「ちょっとトイレ」
 そう言うと小走りにラウンジから出ていってしまった。ヴァーツラフは遅まきながらに彼女が涙ぐんでいたことに気づいて動悸が早くなった。思わず腰を上げたが、まさかトイレまで追いかけていくわけにもいかない。気持ちは宙吊りのまま、とりあえずココアを飲み干して周りを見まわす。中途半端な時間のせいか広いレストランにはほとんど人影がない。向こうの壁にはいくつかイラストめいた絵が飾ってあるが、なんというか、アンリ・ルソーに無理やり寓意画を描かせたらこうなるだろう、という感じで、あまり興味をひくものではなかった。手持無沙汰のヴァーツラフがスマホで天気予報を確認していると、やっとエミリアが姿を見せた。まっすぐこっちに向かってくる。
「行くよ!もうすぐ発車時間だから」
「あ、はい」ヴァーツラフは思わず立ち上がっていた。
「スマホ、忘れてる。ほらほら、グズグズしないの」
「はい」
 エミリアは先に立ってどんどん行ってしまう。遅れまいとついていくヴァーツラフは、それでも自然と顔がほころんでいた。

「積雪は2メートルくらいか。2月の割りには多いな」
 エミリアはブルーのゴンドラから斜面の山肌を観察している。この時間、彼ら以外に乗っているのは山小屋で働く人だけだった。
「ヴァシェク、なにやってんの」
 ヴァーツラフはがらんとしたキャビンの中央に立ち、大きな窓に背を向けてスマホの画面を熱心に見ている。
「え、金属探知機のマニュアル読んでる。いろんなモードがあって、けっこうめんどくさいんだね」
「ちょっとほら、すごい岩だよ」
 ゴンドラは想像以上のスピードで進み、眼前にはきり立った絶壁が次々と迫ってくる。
「あ…今はいいや」
「ほら、あんなに高く」
「うん」ヴァーツラフはスマホから目を放そうとしない。エミリアの目が細まった。
「ヴァシェク、あんた、まさか…」
「え、なに?」
「そうなんだ。なんてこと…」
「どうしたの」
「あんた、高所恐怖症のくせに来たの」
「はは…まあ、なんとかなるでしょ」
「なにのんきなこと言ってんの。どうすんのよ」
「大丈夫だよ、下さえ見なければ」彼はスマホの画面に向かって答える。「ちょっと足がすくんで、ちょっとくらくらするだけだから」
「全っ然ダメじゃない。そんなんで、どうやって探すつもりよ」
「だから大丈夫だって。大げさに騒ぐようなことじゃ、ほら、もう雲の中に入った。これなら平気だよ」
 ゴンドラは真っ白い霧に覆われ、外界がまったく見えなくなった。ホッとしたような笑みを浮かべるヴァーツラフを見てエミリアは頭を抱えた。標高2500メートルの冬山で、ど素人かつ高所恐怖症の人間を引き連れて何ができるというのか。エミリアが絶望している間にゴンドラは頂上駅に着いた。山頂は雲の中で、窓には雪が降り積もって視界をさえぎっている。山小屋に向かう道は整備されているが、周囲は360度白くけぶって見事に何も見えなかった。

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