ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(25)
第3章 ゼンティス
プラハ ヴィノフラディ
「なんて言ったの」
マルチェッロは国立博物館の裏手にある地元の人しか来ないようなレストランにラニアを誘った。店の人とチェコ語とドイツ語と英語をごちゃまぜにして話している。もちろん身振り手振りを交えてだが、もっとも意思疎通に貢献したのは彼の双眸に浮かぶ熱意だったようだ。なんとか意味は通じたらしく、ウエイターはにっこり笑ってうなずくと、二人を奥まった静かな席に案内した。
「世界的に有名な中東の歴史学者を接待してるってね」彼は無邪気にウインクして見せた。ラニアが目を大きく見開く。
「わたしは!世界的に有名でもないし歴史学者でもない。専門は現象学的考古学だよ。ついでに言えば、国籍はフランスだ」
「カタいなあ、カタい。そんなこと、たいした問題じゃないさ」
「君って、どういう人なの」彼女は目を細めたが、マルチェッロはいっこうに気にしていないようだ。
「なに飲む?やっぱりビールにする?」
「アルコールは飲まない」
「ビールはアルコールの内に入らないよ」
「水をもらう」
「マジか。それって、もしかして戒律とか?」
「わたしはムスリムでもクリスチャンでもない。宗教とは距離をおいてる。これは趣味の問題」
「趣味ねえ。僕にとってアルコールは生きる意味だったりするんだけどな」
「なんのために生きるかは人それぞれ。わたしは他人の信条は尊重するよ」
「そう聞いて安心した。これで心置きなくビールが飲める」
ラニアはメニューをマルチェッロに渡した。
「わたしはチーズとナッツのサラダにする」
「ベジタリアン?」
「別に珍しくないでしょ」
「確かに」
マルチェッロはウエイターを呼んでなにやら話しかけている。
「君、チェコ語、話せるんだ」
「ホンの片言だけ。ドイツ語もノルウェー語もトルコ語も中国語もみんなその程度。あちこち世界を回ったけど、まともに話せるのはイタリア語と英語くらいだよ」
「それはすごい。片言でもなんでも、とにかくコミュニケーションとれるんだから」
「不思議とね。でも読み書きは全滅だな」
「ああ、」
「だからなんで僕が受かったのかわからないんだ」
「不安なんだ?」
「まさか。そんなことないよ。でも、ラニアは優秀なんだよね、事務の人が言ってた、ダイナマイト!って」
「優秀ってなんのことだろう。知識?経験?実績?そんなもの、やってれば自然に身につくもんだよ。大事なのは情熱」
「そんなこと言うんだ。でもそう聞いてうれしいよ。僕も興味だけは人一倍ある方だから」
「何に対する?」
「もちろん、人間だよ」彼は何を当然のことを聞くんだという顔をした。「だって、今ラニアが言った情熱って、そういうことでしょ」
「え」
「違うの?」
「いや、たぶん違わない。驚いたけど」
「情熱や興味って、そもそも人に対して起こる感情じゃないかな。間にモノがあるにせよ、最終的には自分だったり他人だったり社会だったり、人間ってもんに対する情熱や興味でしょう?」
「哲学的だな」
「普通そうじゃないのかな。結局人間って、人間にしか興味ないんだと思うよ」
「君はポストプロセス考古学が専門なの?」
「なにそれ?」
ラニアはそれには答えず、ただ笑っている。
「そもそもルドルフ二世はなぜ複数のクンストカマーを作ろうとしたのか」
デザートを食べながら、急にマルチェッロが話しだした。
「どうしたの急に」ラニアもフルーツのムースを口に運んでいる。
「君の気を引こうと思って一夜漬けしてきたんだ」彼はウインクしてみせた。
「さて、スペインホールには当時彼が蒐集していた芸術品、つまり絵画、彫刻、工芸品などと、それに様々な写本、各種測定器、実験器具、地図、ローマ時代の遺物、動植物や鉱物の標本、化石、などなどが収められていた。もはや単なるクンストカマー(芸術品陳列室)の域を越えて、ヴンダーカマー(驚異の部屋)になっていたんだ」
「そうだね。よく言われてるのは、神がこの世に書き記した言葉を解読するために世界のあらゆるモノを収集し調べること、つまり世界を、あるいはこの宇宙をまるごと一部屋に凝縮させることを目的としていた、っていう説」
「だとすると、そういう部屋を複数作る動機が説明できない」
「まさか手狭になったから?いや、それはないな。だとしたら部屋を拡張するか隣に増設すればいいわけだし」
「そのとおり。実際、スペインホールの隣の美術室とか、西翼の一階と二階も使ってたしね。で、僕が考えたのが、何か違う基準で集めた品々の部屋が必要になったから、という説」
「同じ城内に?」
「だってそこしか使える場所はなかったと思うよ、彼には」
「でなければ、特に貴重なものだけを隠した、とか」
「それはないな。隠す必要なんてないもの。だいたいルドルフはクンストカマーをめったに人に見せなかったらしいから」
「じゃあどんな基準?」
「そこまではまだ…」
「魔法や錬金術の?」
「いやいや、お嬢さん、それは違うよ」マルチェッロは笑って指を振った。「ルドルフは魔法も錬金術も異教徒の呪物も怪物も、すべてひっくるめて神がこの世にもたらしたと考えてたんだから」
「そんなに包括的なら、別の基準なんて入り込む余地ないんじゃない?」
「なにかあるはずなんだ、まだ僕らが気づいてない何かがさ」
ラニアは食後のコーヒーをすすっていたが、ゆっくりと言った。
「わたしは、ASテキストは偽書だと思うな」
「偽書?」
「厳密に言うと偽書というより、フェイクかな」
「なんでそんなものを残す必要があるんだろう」
「たとえば、侵入してきた外敵を欺くとか、盗掘を防ぐとか、」
「それはいただけないね。だったら絵の下なんかじゃなくて、もっと目立つところに書くよ」
「あの絵はスプランガーの晩年のもので、死後に弟子が完成させたっていう説もある。本当はあの絵の中に偽の場所を指し示すものが描かれるはずだったのに、それを知らない弟子が無難に仕上げてしまったとか」
マルチェッロは感激したようにラニアの手を取った。
「素晴らしい飛躍だ、ついていけない。やっぱり君は素敵なダイナマイトだ!」