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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(26)

第3章 ゼンティス

ゼンティス山頂 アルター・ゼンティス 1


「それは外に出てから。いま着けたら床が傷だらけになるよ」
「あ、そうか」
 ヴァーツラフはアイゼンを手に持ってぶらぶらさせている。エミリアはお互いの雪崩ビーコンのスイッチを入れ、テストしてから彼に渡した。
「ホルダーにしまっといて」
 ヴァーツラフは素直に腰ベルトに付けたホルダーにセットした。さらに彼女はピッケルを渡す。「これはザックの外側に固定して」
 二人は山小屋の部屋で装備を身に着けている。おのおの小さめのザックを背負い、エミリアは捜索用の折り畳み棒を持ち、ヴァーツラフは金属探知機を持って部屋を出た。室内にはコンセントに繋がれた大量の充電器が残された。
 山小屋のテラスから伸びている屋根付きの通路を抜けた所で二人はアイゼンを着け、トレッキングポールを伸ばし、トランシーバーのヘッドセットをテストした。さらにエミリアは捜索用のプローブを伸ばして左手に持つ。ゴーグルを着けてからお互いの装備を点検する。念のためお互いの体を数メートルのロープでつないで準備は整った。ヴァーツラフは金属探知機のスイッチを入れた。
「ヴァシェク、用意はいい?」エミリアがイヤホンに触れながら言った。
「イエーイ!」
「あたしの跡をついてきて。絶対コースを外れないこと、いい?」
「わかった」
「とりあえずあそこまで行くから」
「はい」
「あたしの足跡の通りに歩くんだよ」
 二人はあらかじめ予定していたポイントで登山道を外れ、斜面に入った。ヴァーツラフはへっぴり腰で金属探知機を左右に振り、エミリアはプローブで地面をつつきながら斜面をゆっくり進んで行く。雪はやんでいるがときおり濃い霧が流れて視界はいいとは言えなかった。二人はマップにグリッドを重ねて端から順に探していく。風が逆巻き、雪を巻き上げて視界が遮られることもたびたびで、そのつど斜面にへばりついて風がやむのを待たなければならなかった。金属探知機はすぐに役に立たないことがわかった。何もないところで勝手にアラームが鳴るのだ。
「ミリィ、また金属探知機が反応した!」斜面に立ち止まったヴァーツラフが叫んだ。
「ヴァシェク、トランシーバーで怒鳴らないでって言ったでしょう」
「でも、金属探知機が、」
「さっきもエラーだったじゃない。それ、もう使わない方がいいかも」
 二人は昼食をはさみ午後も熱心に調べたが、まだ全体の四分の一しか探せていなかった。
「ヤバい、もうだめだ」
 後ろのヴァシェクが立ち止まった。エミリアも止まって振り返る。
「大丈夫?、ヴァシェク」
「脚が動かないんだ。寒さと疲労で、おかしくなってる」寒さのせいでよく回らない口でヴァーツラフは訴えた。
「わかった。ちょっと休憩しよう」
「ごめん、軟弱野郎で。でもちょっと空気薄くない?」
「無理しないほうがいいから。そっちに行くよ。一緒にチョコレート食べよう」
「え、ここで休憩?」
「違うの?」
「僕は一度温かいところに戻るんだと…」
「今戻ると、今日はもうできないよ、時間的にも気力的にも」
「じゃあ、今日はちょっと早めに戻るってことで」
「わかったわかった」

 山小屋での食事はテラスに面したホールで他の宿泊客と一緒にとることになっているが、今日は客が少ないので相席にはならなかった。二人は広めのテーブルを占領していた。
「ヤバい。今なら牛一頭食えそうだ」
「あたしも!」
 ヴァーツラフは昨夜から意識して肉を食べている。と言っても山小屋の料理はたいてい肉とサラダだが。
「今日はなんだろう」
「やった!カチャトーラだ」
「カチャトーラって?」
「鶏肉のワイン煮込み。あたしの大好物」
「そうなんだ」
「美味しいんだよ。自分でもたまに作ったりするんだ」
 日が暮れてから風はさらに強くなり、ときおり突風の音が聞こえてくる。ホールに客は四分の一ほどしかおらず、ハイシーズンとは趣きを異にしていた。エミリアはカチャトーラを頬張りながら味をほめた。ヴァーツラフはしばらく黙々とチキンに取り組んでいたが、何かを思い出したらしい。
「あのとき金属探知機が反応したのは、やっぱりエラーかなあ」
「ん?ああ、最後のやつ。たぶんね。誤動作ばっかりで、あんなかさばるもの、持ってくるんじゃなかった」
「でもたまに当たるんだよね」
 ヴァーツラフはポケットからコインを取り出してテーブルに置いた。20年ほど前のルクセンブルクフラン硬貨だ。
「ホントそれ。おかげで100パーセント無視するわけにもいかないし、やっかいだわ」
「じゃどうする?あのポイント、もう一度探してみる?」
 ヴァーツラフはスマホを取り出し、エミリアから転送されたGPS履歴マップを開いた。この付近の地図が細かくグリッドに分けられ、調査済みのところは緑、未調査のところは赤く色分けされている。
「うーん。ただでさえ予定が遅れてる。記録しといて、他がダメだったら調べるってことにしない?」
 エミリアはカチャトーラのソースをパンにつけて口に運ぶ。ヴァーツラフは問題のグリッドだけ黄色に変えた。ホールの大きな窓の外は暗闇で、ときおり雷が厚い雲を光らせている。
「雪崩ビーコンってさあ、ほんとに役に立つの?」
「たたないわけじゃないけど、条件が限られてる」
「そうなんだ」
「近くだったら居場所を突き止められるよ」
「すごい」
「どっちかが遭難しても数十メートルだったら探せるんだ」
「なるほど。でもまあ、そういう状況にならないことを祈るよ」
「祈ってるだけじゃだめなんだよ。自分で気をつけないと」
「わかりました。ねえ、今日の僕はどうだった?何点ぐらいかなあ」
「え、」
 エミリアはヴァーツラフを見たが、その無邪気な顔は忠実な犬のようだ。
「初めてにしちゃ、うまくできたんじゃないかなって」
「そうねえ…85点」
「やった。なかなかのもんだよね」ヴァーツラフの顔が輝いた。
「95点めざさないと」
「え、それってちょっと厳しすぎない?」
「その10点が生死を分けるんだよ」エミリアは真剣な顔でヴァーツラフにフォークを向けた。「あと10点上乗せするのは大変なの。どんな状況でもパニくらずに理性を働かせなくちゃいけない。でも、それができないとほんとに危ないの。お願いよ」
「デザートをお持ちいたしますか」
 いきなり背後で声がした。振り返ると眼鏡をかけたウエイターが軍人のように背を伸ばして立っている。
「あ、もう少ししたらお願いします」
「さようで」ウエイターはこちらをジロジロ見ながら下がった。
「まだ食べ終わってないのに」
「新入りかな。結構年齢はいってるみたいだったけど」
「それより明日の天気は?」
「えーと、ああ、今日と同じだ。曇り、強風、時々吹雪」
「しょうがないね」

「オーダーミスぅ?今度やらかしたら給料からさっぴくぞ」
「すいません」
 ウリエルは3日前から、この山頂の唯一の宿にウエイターとして潜入していた。山小屋のスタッフを暴行して怪我を負わせ、代理として入り込んだのだ。エミリアとステラの通話データから大雑把な位置はわかっていたので、ウエイターとして働きながら、空き時間をフルに使って詳細なマップを作成していた。昨年の10月の日の出の位置、その時間帯の風向きの傾向、中肉中背の30歳女性の平均的投擲距離、ペンダントの想定重量、などを元に計算式を作り、パラメーターを変えてシミュレーションを繰り返し、最終的に3つのポイントにまで絞り込んでいた。
 昨日、エミリアとヴァーツラフがこの山小屋にやってきた。夕食時に気づいたウリエルは慌てたが、すぐにレオシュを呼び寄せた。
「レオシュ、すぐ動けるか」
「……はい」
「あいつらがここに来た。プフィッツナーとモラヴェツだ。こうなるとぐずぐずしてられんな、どっちが先に見つけるかだ。急いで冬山の装備を準備してくれ。そして、二人部屋をおまえひとりで予約するんだ。いまはそんなに混んでないから大丈夫だろう」
「わかりました」
「トランシーバーとヘッドセット、それに暗視ゴーグルもいるな。冬山装備は私の分も頼む」
「はい」
「結構な荷物になるだろうから、冬山を撮りに来たカメラマンとでも名乗るといいだろう。頼んだぞ」

 レオシュはアマチュア・カメラマンとして大量の機材とともに二人部屋をせしめた。彼が夕食会場のホールに姿を現すと、すぐにウリエルが近づいてテーブルに案内した。大男は"上官"のウエイター姿を見てなにか言いたそうだったが、出かかった言葉を飲み込んだ。
「いらっしゃいませ。アルプシュタイン最高峰、ゼンティス山頂へようこそ。当ロッジは初めてですか」ドリンクメニューを渡しながらウエイターは大柄な客を眼鏡越しに眺めた
「…はい」大男は困ったような顔をして小声で答える。
「お飲み物はいかがされますか」
 ウエイターは大男の目をのぞきこむように訪ねた。レオシュにもその意味は通じたらしい。
「…はい。じゃあ9番で…」
「かしこまりました。エビアンですね」
「…あの、」
「お客様、エビアンでよろしいですか」
「あ、はい…」
「かしこまりました。すぐお持ちします」

 ウリエルは11時に仕事が終わると、制服のまま人目を避けて9号室に滑り込んだ。
「ボス、大丈夫ですか」
「もちろんだ。ウエイターなんか目をつぶってたってできるさ。誰も私のことなど気にしちゃいない。もちろん、あの二人もな」
 ウリエルは伊達メガネをはずし、PCを開いて、盗聴マイクの録音を再生した。

――あんなかさばるもの、持ってくるんじゃなかった
――でもたまに当たるんだよね
――ホントそれ。おかげで100パーセント無視するわけにもいかないし、やっかいだわ
――じゃどうする?あのポイント、もう一度探してみる?
――うーん。ただでさえ予定が遅れてる。記録しといて、他がダメだったら調べるってことにしない?

「聞いたかレオシュ。これは使えるかもしれない」
「…はい」
「こっちはどうなってる?」
 ウリエルはPCを操作して防災センターの監視カメラ映像に侵入した。館内各所の映像リストの中から天井カメラで二人のテーブルが写っているものを選んで再生する。拡大すると、ヴァーツラフのスマホ画面が写っている。ウリエルは自分のマップと照らし合わせて位置を特定した。
「ここだな」
「はい」
「我々のポイントとも合致してる。ビンゴかもしれんな。レオシュ、今夜は出かけるぞ」
「今夜…ですか」
「もちろんだ。明日まで待ってたら奴らに先を越されるかもしれん。うまくいけば今夜で仕事は終わるぞ」
「…はい」
「ここで着替えてテラスから降りる。ポイントはここだ」ウリエルは画面に出した地図の一ヵ所をレオシュに示した。「わかるか」
「はい」
 次にウリエルは山小屋の平面図を出した。「テラスのこの辺から降りると最短距離だ」
「わかりました」
「暗視ゴーグルを出しておけ。トランシーバーもだ」
「はい」
「1時間後に出発する」
 レオシュはトランシーバー、ゴーグルなどの装備をケースから取り出している。
「私はテラスから指示を出す」
「はい」
「ロープはしっかりとテラスの手摺りに固定しておくんだ」
「はい」
「いざとなったら引っ張り上げてやる」
「はい」
 レオシュは返事しながら次々と装備品を並べている。その中には軍用の拳銃もあった。それを見てウリエルは眉をひそめた。
「銃は置いておけ。いや、私が預ろう」

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