見出し画像

授業をおもしろそうに聞くのは「感情労働」なのか

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

ひとつ前の記事で、いまどきの大学生が授業の単位を取るとき、ギリギリの及第点である100点満点中の60点ではなく、巧妙に教員の足もとをみて、ギリギリアウトの45点~50点をねらう、という話を書きました。

授業を受ける態度も、奇妙さを感じています。
この感じ方は、自分の大学時代との比較です。現代の早稲田大学を、まったく別のものと比べても仕方がないが、ぼくの参照基準が、20年前の国立大学(大阪大学)しかないので、そこはご容赦ください。

むかしは、つまらない授業には、「出席しない」「レポート提出だけですむ講義を選ぶ」「代理で返事させる」というかたちで対応していた。ところが、いまはお役所?保護者?からの要請(?)により、学生の出席率を上げよ、というお達しが出ているそうです。大学教員も、出席率の管理を強いられています。
すると、「目が死んでる」「絶対に発言しない」「スマホや内職をしている」学生が教室に押し寄せます。それはそれで、地獄です。

教員にとっても学生にとっても悲劇なのは、登録者数・出席者数がすくない授業です。これでは、うかうかと「死んだ目」はできないし、「絶対に発言しない」ほうが不自然になるし、スマホや内職をするにも、物理的におかしくなる。※教室に、わずか数人しかいなくても、恐れずに、100人のなかの1人を「擬態」する学生はいる。生物学めいてくる。

もともとの構造からして、大学の講義って、聞いているだけではそんなに面白いものではない。これは、恐らくむかしから同じ。

立場が相対的に弱くなった教員たちは、年齢の離れた意欲の低い学生に、果たして自分の話が伝わっているのか?少しでも、面白く聞いてくれているか?ということに、ヒヤヒヤしています。
出席を強いられた現代の学生は、「先生の授業はおもしろい」「内容は意味がある」というありがたいお言葉を垂れて、つかのまの安心を誘います。これは、その場限りのリップサービスです。
なぜリップサービスをするのか。
まず、口先だけで済むので、ラクだからだ。ラクに心証を良くできるならば、やらない手はないですね。レポートが「単なるアウト」であった場合にも、「ギリギリアウト」に昇格し、単位を引き出すことができるかも知れない。
つぎに、たった90分でも同じ空間にいる(居らざるを得ない)ならば、大人を不機嫌にするよりは、機嫌を取っておいたほうが、処世術として優秀です。ぼくの印象では、打てば響くように、大人を口先で安心させるのが上手い。小中高の学校教育や、現代の「子供たち」を取りまく環境についてぼくは何も知りませんが、「目が笑っていない太鼓持ち」ばかり育ってますけど、それが近年の成果なんですかね。ぶきみ。

つまらない授業を「おもしろそう」に聞くのは、若者にとって「感情労働」なんでしょうね。
その帰結として、期末に意味をなさないレポートを出しておいて、「興味があるふりをして聞いてやったのに、落第させやがった」とキレることになります。その場で完結する「感情労働」の代価として単位をくれと、取引をしかける。

素直?で愚かな?大人たちは、「そんなに授業が面白いなら、もうちょっと勉強をがんばって欲しいものだが……」と、筋違いな期待をする。それは、「マクドナルドの店員さんが微笑んでくれた。私のことを好きなのかな」と期待するのと同じタイプの誤解です。

現代の大学生が「ダメ」なんじゃなくて、さまざまな経緯(改悪につぐ改悪、うらめにでた善意の連鎖)を伴い、複雑に生成されたシステムと、学生たちの処世術があいまって、だれも幸せじゃない気まずい空間が形成されているように見えます。こわい。
オンライン授業というのは、この問題の本当の原因をほぐしたわけではないが、一種の「解決法」になっていたので、残ってほしいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?