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再会:隠れ家的な蕎麦屋で

 小豆色の電車が止まりきらないうちに、ドアが開いた。雨上がりのアスファルトがしっとりと濡れて、乾ききった8月の街が生き返ったようだ。ハイヒールを脱ぎ裸足で歩き出したくなる衝動を抑え、山側の店に向かった。

 住んでいなければ、知り合いがいなければ、たぶん降りないだろう阪急御影駅にある『蕎麦処 ふくあかり』。月に一度、やるせない逢瀬のために訪れる二人が似合いそうな、この店、お店の人には申し訳ないが、そんな感想を私は抱いた。

 今から会うその人は、以前、働いていた会社の知り合いだ。上司というわけではない、特にかっこいいというわけでもない。でも、なぜか気になり、バレンタインデーにチョコレートをあげたのがきっかけだった。今時、中学でも起こらない奇跡、、、、

 その人はビールとワインが好きだった。
 「日本酒が好きです」
 何気なく、言った言葉だが、次に飲んだ時には、小奇麗な店で、聞いたこともないような日本酒をご馳走してくれた。そう、オーラもなく、強くもなく、ただ、優しいだけの人。何も、劇的な展開はなく、だから、ドロドロした修羅場も無かった。どうして愛したのかを思い出せないように、どうして終わったのかも思い出せない、それだけの関係。満たせるはずのない心の空白を、一緒にいる時間が埋めてくれるはずもなかった。
 
 再会したのは、大阪。その人が話す講演会のチラシを偶然目にした。
 特に感情が高ぶったわけではない、昔も、その時も。だからこそ、逆にもう一度会うことのハードルが低かったのかもしれない。講演会の後、「お久し振りです」の一言で十分だった。そして、気が付くと、1週間後の今日、ここにいる。

 その人は、一番好きなハートランド、私は、冨久錦の日本酒スパークリング。好みは、二人とも、あの時のまま。
 「乾杯」とだけ言って、グラスを合わせた。

 “これからどうなるのだろう”、そんなことが頭の片隅に浮かんだが、恭子のそんな気持ちを日本酒スパークリングの泡が静かな音をたてながら、消し去っていった。


 ただ、また、ここで乾杯できること、また、一緒に飲めること、それだけが嬉しい。それでいい気がした。

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