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これが文章術の本の特徴だ。

たしかに役に立つ。たしかにツボを押さえてある。

しかし。しかしだ。最後まで読めないのだ。

なんでだろう。その理由を考えてみた。そうしてわかったのは、訴えたいメッセージがいまひとつ弱いからじゃないか。こう書けばいい、こうターゲットを決めればいい……などノウハウは十二分に書かれてある。だから役に立つ内容だ。

だが何か物足りないのだ。本を読んでいるときのような著者ならではの情熱、熱い想いが足りないのだ。だから読んで役には立つけれど、それ以上のものがこないのだ。

文章術の本には決まって、「読者のことを考えろ」と書かれている。だが読者のことを考え過ぎるといい文章は書けない。

なぜか?

文が委縮するからだ。思い切りの良さが抜け、どこか気にしながら書いてしまう。だから文が誰かに気兼ねした狭まった、こじんまりしたメッセージになってしまう。これでは誰が読んでも刺さらないメッセージになってしまう。

一例を挙げよう。

まず読者のことを考えた文章から。

みなさんはやる気がなくなってしまうこと、ないですか?

ぼくはあります。どういうときになくなるかと言うと、燃え尽き症候群みたいになったとき。やる仕事を終えて手にすることがなくなったときに起きます。

あなたの場合はどうですか?

想いつきましたか?

想いついたらそうなった状態をいま、イメージしてみてください。

どうです? 気持ちがどよ~んとしてきました?

では今度はこれをイメージしてください。

云々(うんぬん)

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とまぁこんなふうな文章になるだろう。

では続いて自分が伝えたいメッセージから入るとどうなるか、同じ内容で書いてみよう。

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ついこの間のことだ。

ぼくはなにも手に付かなくなった。

いまさらユーチューブやインスタをはじめる気はないし、かと言って毎日noteやブログを書くのを日課にする気も起きない。

なんだろう。なぜそれをやるのかという動機が湧かないのだ。

目の前に仕事が出されればやらないとと考え、手を付ける。

だが何をやってもいい、やらなくてもいいという状態だと一体なにをやればいいんだという気になる。

どんな話をすれば食いついてくれるんだろう……そんなことを考えていては、書く気も失せてくる。そんなときだ。一冊の本を手にしたのは――。

この本はハリウッドの売れっ子脚本家や監督、プロデューサーたちが売れる作品を作る際の心情を吐露したものだ。

本屋丸善で手にし、パっと開き、数行を読み、その場で購入した。心に響いたからだ。売れっ子脚本家が同じことを言っているのである。

”書くのは好きだけど、書きはじめるのは嫌い”中略”本当に、いやなんですよ。もっと穏やかにいきたいんです。”『ザ・ホワイトハウス』『ソーシャル・ネットワーク』を書き、アカデミー賞とエミー賞に輝いたアーロン・ソーキン。
『いまを生きる』の脚本を書き、アカデミー賞を受賞したトム・シュルマンは、
”自分が感情移入できないものを書くのに疲れたんだ。それまでアクションやホラー、ベタなコメディを書いてきたけれど、僕には向いていなかった。本気になれないんだ。なんだかありがちな話ばかりで、僕が心から信じるものじゃない。『いまを生きる』が商業的に成功するなんて予想はしていなかったよ。売れるわけがないよな、と思ったけれど書き始めた。でも、のめり込んで書いていくうちに、なかなか、いいな、と思い始めた。”
その後映画化を目指してハリウッドに売り込みをかけたのですが、あるプロデューサーは「題名を変えたとしても売れない」と酷評したそうです。しかし映画は世界的な大ヒットとなり、莫大な興行収入をたたき出しました。
(P15~P16を引用、略)

これを読んだときに、人の目を気にするから書きたくなくなるわけだし、また誰もこんなの面白いとは思わないだろうと想っても、自分が情熱を傾けられるだけの想いがあれば、その想いは伝わって行く――ということをハリウッドの脚本家たちも同じことを言っていると知ってうれしくなった。


そうなのだ。文章術や脚本術という「スタイル」は飲み物で言えば、グラスに当たる。グラスにドリンクを注ぐ。だから飲める。だがグラスそのものにはあまり意味はない。注ぐドリンクが何か? どういうものを飲みたいか、飲ませたいか、それがメッセージだ。脚本術の本がこれだけ面白いのだから、文章術の本も、もっと面白いものとして書けるハズだ。


文章術の本がいまいち面白くないのはたぶん、型だけで話すからだ。正解と間違いの二元論に終わり、そこにストーリー性を感じる何かがないからだ。


ただうまい文章、ヘタな文章という違いだけで、文章を書くときの葛藤や苦戦、荒削りの原文の良さ、リライトしていく過程での磨き上げ、といった過程を見せたり、文章を書く人の意見などを取り入れず、ただひとりの著者の意見を延々と続けるからだろう。

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……と読者のことを考えず、想いの丈をぶつけてしまったが、どうだろう? 前者の文章よりも面白いのではないか? 同じ内容のものを後者は”つい”深く潜り込んで書いてしまった。意図せずにだ。

よかったら前者の文章と後者の文章がどうだったか感想を寄せてほしい。

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「書きたいことを書けばいい」
https://note.com/hiroreiko/n/n8889124b7297


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