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結婚って続けていくのはむずかしい? あたらしい結婚のカタチとは?

#「豊かさって何だろう」で記事募集している選考委員の平田はる香さんがこんな記事を書いていた。

好きな仕事(パンづくり工房)で試行錯誤しながら成果を上げて行く過程を紹介した「山の上のパン屋に人が集まるわけ」に非常に感心しながら読んでいた私が、平田さんってどんな人だろう……と想っていた矢先、目にしたのがこの記事だった。

お母さんで妻であるはる香さんが家を出たという話。はる香さんの、好きなことは極め、突き詰めて行く姿勢にいたく感心していたから「家を出た」という話に「あぁそうか。なるほどそうなるよね」と想えた。

結婚というと、同居し、仕事とプライベートを共有し、お互いの価値観を理解し、あるときは男女の関係になり、あるときは親にもなる。お互いの境界線はあいまいで、タイミングが合わないとイライラする。わかり合えるはずの存在――だからこそわかってもらえないときのいらだたしさはこの上ないものとなる。

だが――。それは「結婚のカタチ」にとらわれているから。「結婚したら一緒に住むもの」「結婚したからには結婚相手しか観てはいけない」「結婚したからには仕事とプライベートはある程度共有する」「子育て・家事は協力するもの」「年に一度は親元に挨拶に行く」「当然籍は入れる」といった「結婚はこうあるべき」という固定概念・価値観がある。

けれども私たちは「結婚って、あまりカタチにとらわれなくてもいいんじゃないか」「形式のことじゃない」と言っている。結婚に対しておっくうになったり、結婚した途端きゅうくつに思えたりするのは「結婚」に対して「こうあるべき」という固定概念があるから。

ふたりが適度な距離を保ち、しあわせで、子どもたちもしあわせでいられるのなら、それがいちばんいい。それで仕事も家庭もうまくいくなら。

一緒に住んで楽しく暮らせるのならそれが子どもにとってもいいとは思う。けれども一緒に住んできつくなったり何かを犠牲にしていると想うのなら、離婚はせず離れて暮らすという選択肢はあっていい。いちばんは本人にとってのしあわせ・距離感なのだから。

私、ひろ健作は、結婚に対してずっと後ろ向きなイメージしかなかった。「束縛される」「自由がない」「家族を背負わなければならない」「ほかの女性を選ぶ選択肢がなくなる」「合わなくても相手の親を親と呼ばなけれならない」……云々。こうした疑念が晴れなかったから10年もくっついたり離れたり、ほかの女性に行ったりしても、結婚には踏み切れなかった。

いまの時代で考えれば別にめずらしくもない反応だろう。だが当時は異端児だった。まわりが当たり前に結婚していくなかで私は、「結婚」に対してなぜしないといけないんだという疑問を持っていた。だからこそ、いまの人たちが結婚に対していま一歩踏み切れなかったり、「結婚したはいいもののはたしてこれが欲しかったのだろうか」と疑問を持つことに理解できる。

結婚には決まったカタチはない。もっと自由に、ふたりがしあわせで、周りがしあわせだったらいい。そういう選択ができるようになればもっとしあわせで豊かな毎日が送れると想う。

平田はる香さんの選択はときに厳しいものもあったと想う。同居してこそ家族という概念があったのだから。だがいちばん大事なのは自分がしあわせかどうか。かぞくがしあわせかどうか。だとしたら結婚のカタチにとらわれずに生きるその姿勢は必然だったのではないか。

前に進むことを決め、人生の選択をした人には教えられるものがある。

「結婚」というカタチにとらわれこうあるべきという人はいまの時代も多い。けれどもいちばんはふたり・家族がしあわせになれるかどうか。

「しあわせのカタチ」にはいろいろある――誰にでも可能性があり、愛される資格がある――そう想えたきょうという日だった。



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