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正しさを信じさせてくれる君へ~ヤジロベエみたいな僕にBUMP OF CHICKENが教えてくれた「なないろ」~

※2021年5月26日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

親愛なる「なないろの君」さま

君がNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』の主題歌であると知った3月から、君に会える日をどんなに待ち焦がれたことでしょうか。
どんなメロディーだろう、どんな歌詞だろうと、わくわくそわそわし始めた私は君のことを想像して、「なないろちゃん」という架空のキャラクターを落書きしてみたり、「なないろ」からイメージした詩を綴ってみたり、君のことで頭がいっぱいになっていました。

宮城県内に住んでいる私は4月になると、モネのロケ地にもなった風車のある登米市の公園へ赴き、風車や桜の写真を撮りました。
その頃、空ばかり眺めていたものですから、意外と日暈(太陽の周りに現れる七色の輪)は頻繁に現れるものだということを知りました。
強風が吹き荒れる黄砂の夕暮れ時、雲間からまっすぐ太陽の光が射し込む天使の梯子も見かけて、もうすぐきっと良いことが起きるだろうと期待に胸を弾ませていました。

放送開始まで二週間を切った5月5日『もうすぐ!おかえりモネ』という番組が放送され、番組内で君がちらっと顔を覗かせてくれるのではないかと期待していましたが、残念ながら初解禁とはなりませんでした。
「なないろ」に飢えていた私は、七色モチーフの小物に目がいくようになり、虹色オブジェや虹色カーネーションなどを買うようになりました。

そしてついに5月17日『おかえりモネ』放送開始当日を迎えました。
まるでライブ開演直前ほど気持ちが高ぶっていた私は前夜、なかなか寝付くことができず、寝不足のまま、君と初対面することになりました。
一足先にBSで7時半から見ようと目覚ましをかけたはずなのに、その頃になってうとうとしてしまい、結局8時から見始めました。

森や海の美しい自然風景、ヒロイン・永浦百音を演じる清原果耶さんの波や風のように流れる透き通った横顔や手の動き、なびく髪の毛を魅力的に演出するオーロラみたいな色合いのシルクオーガンジーの布が印象的な映像と共に、私は君のメロディーと歌詞に釘付けになっていました。このオープニングは「Aurora」、「流れ星の正体」、「Gravity」のMVでもおなじみの林響太朗さんによって作られたそうですね。

一度では覚えられず、これから毎日聞いて少しずつ覚えようと君を初めて聞いて満足していた直後、当日までこれだけじらされたというのに、NHKのラジオ番組のコーナー『らじるラボ』内であっという間に初フルオンエアされ、感動してしまいました。『おかえりモネ』のオープニングはもちろん素敵だけれど、純粋に音楽を聞くという観点から考えれば、映像など視覚情報は一切なく、聴覚だけで聞ける音楽はよりじっくり味わうことができるし、想像力がますます掻き立てられるものです。

気付けば私は歌詞起こしを始めていました。
「やみくもりでもしんじたよ きちんとまえにすすんでるって よくはれたあさにはときどき ひとりぼっちになれちゃうから」
と結局出だしから聞き間違えた歌詞のまま、自分でみつけた言葉はきっと“正しい”と信じてその日はずっと繰り返し聞いていたのです。

その日の夕方、奇跡が起きました。1年に一度、見られるかどうかというほど、見事な七色のダブルレインボーがモネの森舞台、登米町方面に架かったのです。(私は隣町から見ていました。)
君が初解禁された日、こんな魔法みたいにキレイな虹が見られるなんて信じられないと、日が暮れるまでずっと空の写真を撮っていました。

そしてくたくたになった夜、午前0時になると早くも配信リリース、MVまで公開され、眠いなんて言ってはおられず、寝る間も惜しんで君のメロディーと歌詞を追いかけ、モネのオープニングとはまた一味違った、同じく林響太朗さんによって作られたMVをじっくり鑑賞し始めました。

《闇雲にでも信じたよ きちんと前に進んでいるって よく晴れた朝には時々 一人ぼっちにされちゃうから》

「やみくもり」ではなく「やみくもに」だし、「なれちゃう」のではなく「されちゃう」だし、自分が“正しい”と信じていた歌詞はけっこう間違えていたけれど、でも

《それでもいい これは僕の旅》

と思えたのです。初めて君と出会えて、自分の耳で追ったメロディーと歌詞を頼りに今日という1日、素晴らしい旅ができたことに間違いはないと思えたから…。

「なないろ」という君への手紙はひとまずここまでとし、以下、BUMP OF CHICKEN「なないろ」について考察していくことにする。

《ヤジロベエみたいな正しさだ》

この“ヤジロベエ”というモチーフが「なないろ」という楽曲の世界観を端的に表現していると思う。

ヤジロベエは子どもの頃に作って、遊んだ経験のある人が多いと思う。真ん中の人形が左右の重りで絶妙なバランスをとり、つま先立ちほどわずかな面積の中心部分で不思議なことに転ぶことなく、立ち続ける。力学的に言えば、立っているように見えるだけで、重心が支点より低く、重力と抗力がつりあって静止し続けるということらしい。つまりぶら下がっているだけで、少しでもずれたら倒れてしまう。いつ転んでもおかしくない、不安定な安定感の元でかろうじて存在できるのが、ヤジロベエである。
ヤジロベエは揺るぎないもののように見えて、実際は足場が少しでもズレたら傾いてしまうため、その正しさは絶対的な正しさではなく、曖昧でもろく優柔不断とも言えるような正しさである。

「なないろ」でヤジロベエをモチーフに選んだ、藤原基央は以前から、絶対的ではない“正しさ”を歌っている。

《選んできた道のりの 正しさを 祈った》
《不器用な 旅路の果てに 正しさを祈りながら》

「ロストマン」において“正しさ”は最初から答えのある、誰にでも共通のものでもなく、歩みを進めるうちに自分の力で見つけ、最終的には間違っているかもしれないけれど、信じ、祈るものという曖昧な“正しさ”を歌詞の中で定義している。

《僕の正しさなんか僕だけのもの どんな歩き方だって会いに行くよ》

「月虹」においても、“正しさ”は誰と共通するものでもなく、この世にひとつしか存在しないわけでもなく、自分で選び、信じ、つかみ取るものと歌っている。

今回、「なないろ」で描かれた“正しさ”も一見、絶対的な正しさに見えて、実は《僕》という自分の立ち位置を決めてくれる重心はこの広い地球上のどこにだって存在し、どこでだって生きることができるという、かなりふり幅のある“正しさ”だ。
実際、ヤジロベエは左右に吊るした重りの重量が同じである必要はなく、もしも左右で違った重さのものを吊るしたければ、人形と重りの間をつなぐ軸の距離を非対称に変えればいいだけで、安定感をキープするのは難しいように見えて、意外と柔軟性もある。
逆に言えば、左右に何かしら重りさえあれば、必ずつり合いを取れる、立っていられる場所がヤジロベエには存在するのである。

ヤジロベエは『おかえりモネ』を象徴するものとも言える。百音(愛称・モネ)は海の町・気仙沼で生まれ、森の町・登米で過ごし、気象予報士という夢をみつけて東京へ赴く。モネがヤジロベエの人形だとすれば、東京という遠く知らぬ土地で過ごすことになっても、左右に二つの故郷である海と森があるから、どこでだって立って息をすることができるのである。

ヤジロベエの中心はモネに限らず、何でも置き換えることができる。例えば空。真ん中が空だとすれば、左右に海と森(山)。真ん中が今日(今)だとすれば、左右は昨日(過去)と明日(未来)。真ん中が昼だとすれば、左右は朝と夜。真ん中が虹だとすれば左右は太陽と雨など…。

色や光に3原色があるように、『おかえりモネ』のロゴカラーも山、空、海を表現したというオレンジ色、緑色、水色の3色で表されている。つまり自然は三つの色から成り立っており、世界はたいてい三つのことで成立する場合が多いと思う。故に三つのモノがつながることで存在できるヤジロベエというモチーフはこのドラマにぴったりだ。
点と点が結ばれて、線になり、それが循環しながら続いていく日々が、“ヤジロベエ”をモチーフにした「なないろ」という楽曲から読み解くことができるのである。

ヤジロベエはまるで案山子みたいに一人ぼっちで立っているように見えるけが、左右の何者かと必ずつながっている。一人きりで生きているわけではなく、誰か、何かがヤジロベエみたいな《僕》を支えてくれていて、ようやく生きている。誰も孤独ではないと、両手に抱えている重りの温もりを教えてくれる楽曲だと思った。

《躓いて転んだ時は 教えるよ 起き方を知っている事》

この部分、私は《置き方》と勘違いしていた。「花の名」で《僕がここに置く唄は あなたと置いた証拠で》と歌われたように、ヤジロベエの置き方を教えてくれるのかとまだ歌詞を知らずラジオ音源のみを聞いた時はそう考えてしまった。
しかし誰かに頼って置いてもらうのではなく、主体的に《起き方》を知っていてこそ、長年、藤原基央が歌い続けている《僕》らしい。

「なないろ」では《僕》が何度も登場する。しかもたくさんの種類の《僕》が。

《僕は昨日からやってきたよ》
《手探りで今日を歩く今日の僕が》
《相変わらずの猫背でもいいよ 僕が僕を笑えるから》
《あの日見た虹を探す今日の僕を》

《僕》は同一人物の一人ではなく、何人も存在しているような描かれ方だ。昨日の僕、今日の僕、明日の僕それぞれの僕は毎日、過去の僕を違う一人の人間として、客観的に見つめているように見える。
《僕》がたくさん登場するわりに、《君》は一度きりしか登場しない。

《胸の奥 君がいる場所 ここでしか会えない瞳》

《君》と言えば、通常は《僕》以外の他者と捉えられるが、藤原基央が歌詞の中で使うと《君》さえ、過去または未来の《僕》自身、《僕》の化身であるように捉えられる。

《ずっと変わらないままだから ほっとしたり たまに目を逸らしたり》

変わらない自分自身に安心したり、変われない自分に嫌気がさしたりしている心情を描いているようにも読み取れる。
《あの日見た虹を探す》、《あの時の心の色》という歌詞があるように、《ここでしか会えない瞳》部分の瞳は自分自身の“僕の瞳”と考えられる。虹を見た《失くせない記憶》は鞄の中で出番を待っていて、《疑ってしまう》今の僕の瞳はまるで他人の瞳みたいだから、過去の自分の瞳は《君》と表現しているのだろうと考えた。

「なないろ」は《僕》が連呼され、《君》さえも自分自身かも知れず、とても内省的で《僕の旅》のことしか歌っていないように見える。

《歯磨きして顔洗って着替えたら いつもと同じ足で出かけようぜ》

なんて、屋内にいる一人の人間の他愛ない日常が描かれている。
けれど、「なないろ」内の内省的でヤジロベエみたいな《僕》は、《高く遠く広すぎる空の下》、《散らばる銀河の中》というように、外を見ることも忘れてはいない。
《鞄の中》の《失くせない記憶》や《胸の奥》の《君がいる場所》など、後ろ向きで、過去ばかりこだわっているように見えて、《空》や《銀河》に思いを馳せるということは未来を見据える前向きな姿も想像できる。

狭い空間からと広い空間を自在に行き来する藤原基央の歌詞もバンプの醍醐味と言える。
非日常的な宇宙や星をモチーフにした唄を歌うことが多いのに、身近な日常の場面も決して忘れない。「話がしたいよ」なんてポケットにおさまる《ガム》というすぐに捨てられてしまうようなちっぽけな存在から、どんなに手を伸ばしても届かない遠い《太陽系外》まで話が飛躍する。一曲の中で、突拍子もなくシーンが切り替わると普通は別の曲が始まったのかと思ってしまうものだが、バンプの曲の場合は、そのシーンの切り替えこそ、楽曲の世界観そのものを広げることにつながり、不思議とまとまりある名曲が誕生してしまう。
今回も《やじろべえ》という手のひらにおさまってしまうようなちっぽけな存在が、空を眺めて、虹を探して、見えない《昼間の星》にまで発想を飛ばしており、地上からはるか宇宙の彼方まで、移動距離は果てしないのに、それが《僕の旅》、人生の旅を端的に表現していて、まとまり具合の良い楽曲に仕上がっている。

見えない《昼間の星》と言えば、バンプは「天体観測」に代表されるように、《見えないモノを見ようと》する傾向がある。そのことが「なないろ」でもちゃんと継承されている。
《昼間の星》以外にも、《昨夜の雨》、《失くせない記憶》、《あの日見た虹》、《あの時の心の色》、《君がいる場所》、《治らない古い傷》、《乾いて消える水たまり》、《戻れないあの日の 七色》など、今となっては見えないモノが多く登場する。

“見えないモノ”こそ自分の“正しさ”を導き出し、“正しさ”を信じさせてくれるものである。
今、目の前に見えている《景色の全て》や《お日様》ばかりが前に進むための正しさを導いてくれるわけではなく、鞄の中で出番を待っている傘や、過去の記憶、昼間の星など今となっては“見えないモノ”の方が実は歩き方を教えてくれたり、転んだ時の《起き方》を教えてくれたりする。信じた道に霧がかかって、立ち止まってしまった時、歩んできた道のりの足音や、遠くに見える幻かもしれない灯火が前に進む勇気をくれるように、鞄の中に忍ばせているモノ、失くせない記憶といった見えないモノが“正しさ”を導き、進むべき道を照らしてくれたりする。《闇雲にでも信じたよ》という歌い出しがまさにそのことを物語っている。見えなくてもいいから、やみくもに信じることが“正しさ”の道標になると。
ヤジロベエの正しさは、左右の重りに頼るだけでなく、重心はここだと信じることから始まっているのかもしれない。ここに立っていたければ、ここにいたければ、それに見合った重りを両手に持てばいい。そうすればどこでだって呼吸できると。

バンプの楽曲では“見えないモノ”と同じく“映し出すモノ”も重要アイテムとなっている。例えば《鏡》や《ショーウィンドウ》は度々登場する。「なないろ」では《水たまり》が“映し出すモノ”の役割を担っている。

水たまりがお日様を映す様子を《キラキラ キラキラ 息をしている》と表現している。雨によってできる水たまりは晴れると過去の産物であり、ある意味どうでもいい、忘れられがちな存在、または歩く上で邪魔な存在だったりする。しかし、藤原基央は水たまりを今の輝き、太陽の輝きを映し出す水鏡として、大切に見つめ、その鏡によって自分自身を振り返り、今いる位置の正しさを信じるためのアイテムにしているように見える。位置の正しさを把握するという意味で、映し出すモノはコンパスと同じだ。

そんな大事な水たまりも乾けば消えてしまい、“見えないモノ”に変わる。今、見えているモノはたいてい、いつかは見えないモノに変わる。つまり見えているモノは“正しさ”の当てにはならない。見えているうちは“映し出すモノ”として今という時間を確認する役割を果たしてくれるけれど、映し出すモノは永久不滅のモノではないから、いずれ“見えないモノ”に変わる。だから、見えないモノもまたコンパスのように、正しい方向を教えてくれるのだろう。

「天体観測」において《見えないモノを見ようとして》、「ロストマン」では《動かないコンパス 片手に乗せて》正しさを祈っていた《僕》だが、「なないろ」では消えてしまう《水たまり》をコンパス代わりにして、《ヤジロベエ》が正しいと信じた道を進んでいる情景が思い浮かんだ。ヤジロベエそのものは《動き出すコンパス》のようでもある。
正しさを祈っていたロストマンがヤジロベエになって帰ってきた物語が「なないろ」という楽曲ではないかと考えた。ロストマンの旅の続きが「なないろ」で描かれている気がする。

いつか見た七色の虹をまた見られると信じて、ヤジロベエみたいに木偶の坊な僕が旅し続ける物語は、当然のことながら、『おかえりモネ』のヒロイン・百音の成長物語を彷彿させる。モネは漠然と「誰かの役に立ちたい」と思っていた。山と海はつながっていると知り、双方に役立つ空を読む仕事、気象予報士を目指し始める。モネはいつか見た彩雲が忘れられず、また見たいと願う。気象キャスターの朝岡が、彩雲が見える方角をモネに教えた。彩雲は見ると良いことがあると信じるモネに対して、朝岡は迷信だという。でも空を見て雲がキレイだと思えた時点でその人は前向きになれているから、良いことが起きる前兆と言えると朝岡が言っていたように、空を見上げる場面を多く歌ってくれるバンプは、そんなバンプの曲は、聞くだけで良いことが訪れる気がするし、幸運の象徴だと信じられる。
「流れ星の正体」の一節にあるように、前なんか見たくないと《逃げ込んだ毛布の内側に》いたとしても、バンプの曲はどれも聞くだけで、空を眺めるのと同じくらい、晴れやかな気分にさせてくれて、躓きながらも未来に向かって進める勇気を与えてくれる。バンプは彩雲や虹を音楽を通して見せてくれるバンドなのである。

躓くと言えば、「なないろ」でAメロ、Bメロ部分には休符がたくさん使われている。「車輪の唄」に近く、一歩一歩手探りで進むような規則的かつ単調なリズムが続くが、休符によって躓き立ち止まる様がイメージできる。風の力で規則的に揺れるヤジロベエのように、決して派手ではない淡々としたメロディーが続くかと思いきや、サビになるとまるでヤジロベエに羽が生えて空に向かって飛んだのかと思うほど伸びやかで、藤原基央の歌声は裏声になるほどの高音も登場する。頻繁に登場していた休符もサビではなくなる。躓くどころか、空に羽ばたいてしまう。サビで迷いなく軽やかに突き抜ける感じがとても心地いい。

間奏部分ではトランペットやフルートなど管楽器も登場し、それらがストリングスの音に加わることで、よりしなやかで聞き応えのあるサウンドにまとまっている気がする。
「なないろ」は是非、吹奏楽アレンジでも聞いてみたい。全国各地の吹奏楽部、マーチングバンドなどがこの楽曲を演奏してくれたら最高だ。バトンやフラッグなどを使った、動きのある演奏も見てみたい。バトンの代わりに傘を使うのもいいかもしれない。
静止しているより、自然と動き出したくなる曲なので、行進曲としても使えるだろう。さすが朝ドラの主題歌だけあって、今まで以上に楽曲を使用できる機会が増えそうだ。

朝ドラでバンプを初めて聞いた人たちにとって、印象に残りやすいフレーズはサビや《キラキラ キラキラ》の部分だと思う。実際、バンプを知らない私の母は《キラキラ キラキラ》の部分だけは覚えてくれた。きっと子どもや高齢者が覚えやすい言葉を意図的に盛り込んでくれたのだろう。バンプは特に歌詞が魅力的で、長年のリスナーはついつい藤原基央の哲学的な歌詞を考察したくなるが、初めて聞く人たちにとっては哲学はさておき、印象的な言葉を覚えることがバンプ入門の第一歩になる。
《おはよう》や《高く遠く広すぎる空の下》あたりもバンプ初心者向けにあえて分かりやすくそのままの意味で捉えられる言葉を使用したのではないだろうか。
そして朝ドラのおかげでバンプにはまった初心者がいたとすれば、次の段階で、

《思い出すと寂しいけど 思い出せないと寂しい事》
《疲れた靴でどこまでだっていける 躓いて転んだ時は 教えるよ 起き方を知っている事》

あたりのじっくり聞くと深いと分かる歌詞が気になり出すのではないか。
思い出せないことの方が寂しい、寂しいことは寂しくない、《ちゃんと寂しくなれたから》「ray」を聞きたくなるかもしれないし、《体は本気で応えている 擦りむく程度はもう慣れっこ》「GO」を聞くもいいかもしれない。
藤原基央が感情や情景を表現するために選んだ言葉は単語で見れば、決して難しい言葉ではない。しかし言葉遣いのニュアンス、文章の表現力が絶妙で、何度も聞いているうちに違う意味や世界が見えてくる奥深い歌詞のからくりにはまってしまう。

地元宮城の夕方のテレビ番組『てれまさむね』内では、モネの放送が始まると『モネ紀行』というコーナーが作られ、数日間放送されていたのだが、例えば子どもたちがはしゃぎながら田植えをする場面、満開のツツジが咲く山の映像と共に、「なないろ」が流れた。モネには直接関係のない風景であっても、どんなささやかな景色にも、この楽曲はすっと馴染んでいた。子どもたちの笑顔や笑い声、水田の蛙が跳ねるシーン、ツツジを空から見下ろすシーンなど、どの場面にも、「なないろ」が寄り添ってくれていた。どんな風景を切り取っても、「なないろ」のMVになり得ると思った。日常の中に、すでに「なないろ」という楽曲が浸透しているようで、感慨深い気持ちになった。「なないろ」は『おかえりモネ』だけでなく、すべての人たちの日常に当然のように溶け込める可能性を秘めている楽曲なのである。

最後に「なないろの君」へ追伸。

以上のように、君と出会って以来、私は朝も昼も夜も毎日、君のメロディーや歌詞のことばかりずっと考えています。
歌詞はラジオで初めて聞いた時は所々間違ってしまいましたが、“正しさ”はそれぞれ違うものだとヤジロベエから教えられたので、ご容赦ください。
ある意味、毎日、君がもう一人の主役とも言える『おかえりモネ』フェス、ライブに参戦している気分です。おかげで夢に虹やバンプが登場するほどになりました。
部屋には『おかえりモネ』グッズと『aurora ark』ツアーグッズを一緒に飾っています。
消しゴムを使って、バンプのキャラクター・ニコルを描いたヤジロベエもどきも作りました。
それを作る際、緑色のペンがなかったので、山吹色と水色の蛍光ペンを混ぜて、緑色を作りました。その時、気付きました。真ん中の色が他の二色のおかげで作られるとすれば、ヤジロベエの真ん中も実は実体はないのかもしれないと。きっと左右の重りが、今を人形を《僕》を象ってくれるのですね。からっぽの自分に《心の色》を与えてくれるのですね。

まだ聞き始めて一週間。あまりにも《キラキラ キラキラ》していて、曲そのものが七色だと思いました。聞き続けていれば、色が変化して、曲自体の表情も変わって聞こえるかもしれないと思うと楽しみです。

ところで鞄の中の傘を広げたら、ヤジロベエが空を飛ぶ時、バランスをとるのに好都合かもしれません。
私は体も心もバランスの良い方ではありません。躓きやすい足、後ろ向きになりやすい心でどうやって生きているのかというと、君を生み出したBUMP OF CHICKENの楽曲を始めとする音楽たちをたくさん両手の重りとして抱えて、支えにして何とか平常心を保って呼吸をしているのです。

雨降りの日はバンプの「ウェザーリポート」を聞きながら、傘をさしています。心が軽くなります。
眠気がとれない朝は君を目覚ましにします。朝は苦手ですが、藤くんの「おはよう」が聞ける君を半年間も自動的に『おかえりモネ』から流れると思うと、眠気も吹き飛びそうです。
モネが始まった当日の夕方に見た、あの奇跡みたいな七色の虹をまたいつか見られると信じて、自分が正しいと思う道を進み続けてみます。
モネが始まった日だけでなく、君に会うまでの2ヶ月以上、悲しいことや寂しいこと、つらいこともたくさんあったけれど、もうすぐ君に会えると思うと、がんばれました。それら過ぎ去りし日々はまるで青春のようで、もう《戻れないあの日》になってしまいましたが、《思い出すと寂しいけど》、《失くせない記憶》になりました。

こんな私ですが、バンプのおかげで、君のおかげで、以前より元気に暮らしています。宮城で生きています。私は君のおかげで今日もここにいます。君が生きがいであり、生きる糧です。ありがとう、なないろの君へ。

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