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<ほのかな秋の香りの中にも漂う「志村正彦」という存在>フジファブリック「赤黄色の金木犀」に包まれて感傷に浸りたい

※2019年10月11日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

ほんの4、5日前まで確かにほのかに甘い香りが漂っていたはずなのに、いつの間にか消えてしまった。この曲を聞きながら、あの香りをもう一度だけ嗅いでおきたい。香りの記憶を残しておきたい。

秋の週末、私は金木犀探しの旅に出た。まずは行動範囲内で一番広いと思われる自宅から南に120km離れた公園へ向かった。あれだけ広い公園なんだから、一本くらい金木犀の木が植えられていてもおかしくはないだろうと夕暮れ時、小高い山に隣接している公園の遊歩道を散策した。金木犀なら薄暗くて見えなくても香りで気付くことができるはずと、嗅覚を頼りにゆっくり歩き出した。まもなく秋の虫の声に圧倒された。いくら山の中だからと言って、こんなに多くの虫の声を聞いたことはなかった。秋の虫たちの合唱に飲み込まれそうになった。虫たちに生気を吸い取られそうになって、少しの恐怖心さえ覚えた。嗅覚どころか聴覚の方が敏感になってしまって、金木犀探しどころではなくなってしまった。どんどん暗くなる一方だし、道から外れたら迷子にもなってしまいそうだった。私は20分ほど探すと、ここにはなさそうだと溜め息をつき、ひとまず街へ戻った。

翌日、諦めきれない私は金木犀スポットをネットで検索した。どうやら仙台の繁華街の街路樹として多く植えられているらしい。すぐに向かった。確かに金木犀の木はたくさん植えられていた。ちょうどその日は何組ものグループがアカペラで歌を披露しており、その通りはいつも以上に賑わっていたけれど、私は歌には目もくれず、金木犀の花ばかり探して歩いた。こんな時、フジファブリック「赤黄色の金木犀」を誰かが歌ってくれたら立ち止まって聞くのにと思いつつ、金木犀の木を見上げながら、花と香りを探した。わずかに残っていた花はほとんどが枯れていた。

時期が遅かったかと諦めて、最寄の地下鉄駅へ向かった。降りた駅では駅構内にピアノなど楽器が置かれ、優雅なクラシック演奏会が開催されていた。ふと外に目をやると、金木犀の花が見えた。やっとみつけたと思い、急いでその木を目指した。大きな木で、花はたくさん残っていた。残っているのに、まったく香りはしなかった。香り目当てで、金木犀を探していたのに。仕方なく、花の写真だけ取り続けた。駅からはクラシック音楽が聞こえてくる。金木犀の木が植えられていた所は広場になっていて、たくさんの親子連れが遊んでいた。のどかな日曜の昼下がり。ここに金木犀の香りも残っていれば、完璧な休日なのにと少し物足りない気持ちで撮影していると、小さな女の子が駆け寄って来て、興味深そうに金木犀の花を眺め始めた。「小さくてかわいいお花だね」と後から駆けつけた父親が呟いた。お互いに挨拶するわけでもなく、ただ同じ金木犀の花を見つめていた。

小雨が降って来て、帰ることにした。とりあえず花だけでも見られたんだから、まぁいいかと自分をなだめつつも、どうにも諦められなかった。私は焦燥感に駆られて、帰り道の神社にも立ち寄ってみた。立派な紅葉や桜の木など自然に囲まれた神社だから、もしかしたら金木犀の木もあるかもしれない。何しろ以前、リスを見かけたくらいの神社だもの。自然に関するものなら何でもありそうだ。そこでも何やらお祭りが開催されていて、金木犀どころか人だらけでやはり見つけることができなかった。引いたおみくじは大吉だったのに。

自宅に帰る途中もよそ見運転にならない程度に探しながら帰った。一本も見つけることができなかった。帰るついでに地元の田舎にある広い沼の公園にも行ってみた。けれど、とうとう発見できなかった。金木犀って意外と少ないのかな。香りがする時は案外どこにでも植えられている感覚がするのに。少し山道に入ったら、地元なのに方向音痴すぎて迷子になりそうになった。2日間探し続けて疲れたため、とうとう自宅に帰ることにした。

最後の最後に行ってみたホームセンターでは金木犀の木が売られていたけれど、やはり花は枯れてしまっていた。
「赤黄色の金木犀」を聞きながら、2日間探し回ってみたものの、今年の開花時期は逃してしまったらしい。少しだけ感傷的になった。

なぜこんなに金木犀にこだわったのかと言うと、「若者のすべて」目当てで聞いていたフジファブリックのアルバム『FAB LIST 1』において「赤黄色の金木犀」に心惹かれてしまったからである。

普通、金木犀の花の色を表現しようとしたら、オレンジ色とか橙色とか、山吹色で済む気がする。けれど、この楽曲を作った志村正彦は金木犀の花の色を赤黄色と表現した。「茜色の夕日」と比べて、最初はその色の表現に違和感があったけれど、何度も聞いているうちに、たしかに金木犀の花は赤黄色だと思えるようになった。果実のオレンジでも橙でもなく、花の山吹でもなく、金木犀の花であり、赤黄色だから。私にとっての赤黄色のイメージは金木犀色になった。

色の表現力以外に惹かれた点として、
<僕は残りの月にする事を 決めて歩くスピードを上げた>
という部分から、まるで歌詞に合わせるように、曲のテンポが速くなることが挙げられる。さりげないテクニックなのに、<冷夏が続いた>夏らしさを感じる間もなく短い夏が過ぎ去って、そんな夏と同じくらい短い秋が始まって、生き急ぐ気持ちが見事に表現された場面であると思う。
冬に向けて急ぎたいわけではないと思う。夏と共に<過ぎ去りしあなた>のことを早く忘れたいわけでもないと思う。でも過ぎ去った恋は忘れないとつらい出来事でもあるから、仕方なく自分の心のテンポを上げないといけない。<残りの月にする事>だって、別に急いでやらなきゃいけないことでもないのに、<あなた>を忘れたくて、あえてやるべきことを探して、急ぐフリをするのだろう。けれど、金木犀の香りは<あなた>を簡単には忘れさせてはくれない。<あなた>と過ごした時間を金木犀の香りが思い起こさせて、また<歩くスピード>が少し遅くなってしまう。花の香りには人の心を立ち止まらせてしまう力があるのだ。
<赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道>
4、5日前に嗅いだ金木犀の香りも確かに私の足を止めた。その香りに気付くと足を止めずにはいられなかった。けれど、いろいろやるべきことがあるから、金木犀の花を探すことはせず、香りだけ記憶に留めて、<歩くスピードを上げた>

金木犀はきっと目で花を愛でるよりは、鼻で香りを楽しむ花なのだと思う。見えなくても香りだけで存在感があり、感傷のような胸騒ぎさえ呼び起こす。失恋した時、<期待外れな程 感傷的にはなりきれず>という場合があったりする。失恋に酔って泣きたい時、つらいはずなのに感傷的になりきれない時、花の香りが効果を発揮する。金木犀はそういう花の性質を担っていて、人の心に感傷をもたらしてくれる。ちょっとセンチメンタルな気分に浸りたい時、泣きたいのに泣けない時、花の香りを頼りたくなる。私が2日間、何かに憑りつかれたように金木犀の香り探しをしたのだって、センチメンタルな気分になりたかったからかもしれない。けれど旬の終わった花しか見つけられず、香りは堪能できなかったから、<期待外れな程 感傷的には>なりきれなかった。

見つけられなかったという違う意味での感傷には浸れたけれど、私が欲していた感傷とは違う。でも今ずっと聞いている「赤黄色の金木犀」という楽曲が、感傷的な気持ちにさせてくれる。どうしてこんなに繰り返し聞いてしまうのかと考えたら、それは短い秋のこの瞬間、センチメンタルな気分を味わわせてくれるまさに金木犀の香りのような楽曲だからだと気付いた。別に失恋していなくても、感傷に浸りたい時ってある。そんな時、「赤黄色の金木犀」を聞けば思い切りセンチメンタルな気分になれて、たまらなくなる。
<いつの間にか地面に映った 影>という伸びた影をみつけるだけで、感傷的になれる。秋ってそういう季節なのだと思う。そんな秋にまさにぴったりの音楽がこの楽曲だ。

調べた所、金木犀にはたくさんの花言葉があって、「謙虚、陶酔、初恋、変わらぬ魅力、高貴、真実の愛」などが挙げられる。「赤黄色の金木犀」はその花言葉すべてをひっくるめたような名曲だ。
<もしも 過ぎ去りしあなたに 全て 伝えられるのならば それは 叶えられないとしても 心の中 準備をしていた>
というフレーズからは初恋の謙虚さが見える。
<赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道>
というフレーズには香りに陶酔している様子がうかがえる。
この楽曲は2004年にリリースされたもので、すでに15年も経過しているというのに、志村が描いた、叶わなかった真実の愛に変わらぬ魅力が備わっている。謙虚と高貴は一見すると相反する言葉なのに、志村正彦という人間には謙虚さと高貴が混在しているような気もする。まっすぐな瞳には人を寄せ付けない高貴のようなものが感じられるし、分かりやすい言葉で紡がれる素朴な歌詞からは謙虚さが読み取れる。不思議な魅力を持った人間だ。

この楽曲を知って、志村自身が金木犀のような存在だと思えた。残念ながら、今はもう目に見える形ではこの世に存在しない人だけれど、「赤黄色の金木犀」のように何年経っても変わらぬ魅力を感じさせる数々の名曲を残してくれたおかげで、時々ふと彼の存在を感じることができる。金木犀の香りに気付いて、どこに咲いているんだろうと花を探したくなるように、志村が残してくれた楽曲を聞くと、彼が近くにいてくれる気がして、彼を探したくなる。

私はきっと2日間、金木犀だけを探していたわけじゃなかった。志村正彦という存在を近くに感じたくて、見つけたくてあちこち探し回ったのだと今、気付いた。彼はきっと時々出現してくれている。春「桜の季節」を聞けば、桜の花びらと共に舞い、夏「陽炎」を聞けば彼の残像がぼんやり見える。秋「赤黄色の金木犀」を聞けば、彼の香りがしてたまらなくなり、冬「銀河」を聞けば真夜中の夜空でU.F.Oの軌道に乗っている彼が見えるかもしれない。楽曲を聞いていれば、そうやって、彼の存在を感じられるから、私たち聞き手は何年経っても聞かずにはいられないのだろう。

金木犀の花の季節が過ぎ去ってしまった今、少しだけ考えていることがある。ホームセンターで見つけた金木犀の苗を買って、庭に植えてみようかなと。うまく育てないと枯れてしまうし、根付いたとしても花が咲くまで何年もかかるかもしれない。けれど、金木犀の香りが漂う庭を作ることができたなら、彼を感じられる場所が増えることになる。いつか立派な木に育ってくれたら、その木の下で志村正彦が残してくれた数々の楽曲に身を委ねたい。最初に聞く曲はもちろん「赤黄色の金木犀」にしたい。それは叶えられる気がする。音楽のおかげでまたひとつ夢をみつけることができた。庭に木を植えて育てるなんて小さな夢にすぎないけれど、志村を感じられる場所を増やして、「赤黄色の金木犀」という楽曲に恋い焦がれた秋の思い出を作りたい。

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