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<煩悩に苛まれながら「生きる手応え」を感じたい>二階堂和美が刻んでくれた「いのちの記憶」

※2019年10月3日に掲載された音楽文です。いろいろ訂正したい箇所はあるにせよ、あえてそのまま転載します。

秋の夜空に灯る月明かりがあまりにもキレイで、月ばかり眺めていたら、ふと映画『かぐや姫の物語』を思い出した。毎年この時期になると仕事で「竹取物語」を扱っているため、冒頭部分はよく覚えているのだけれど、最後の方の記憶が曖昧だった。古文で最後を調べてみると、「前世の因縁」という興味深い言葉を見つけた。そもそもどうしてかぐや姫は月から地球に来たんだろう、どうして月に帰らなければならないんだろう、よく考えてみると謎だらけだ。

調べているうちに、かぐや姫の罪と罰に辿り着いた。それは『かぐや姫の物語』で描かれたテーマそのものだった。一体、何が罪だったんだろう。この映画は見たことがあるはずなのに、結局、罪と罰が分からず仕舞いだった。それで、さらに調べた。竹取物語が書かれた時代、仏教においてすべての煩悩から解放され、生死を超えた悟りの境地である涅槃(ねはん)が理想とされる時代であり、その涅槃が完成した者たちが住む場所が月の都として表現されていることを知った。(涅槃とはサンスクリット語ではニルヴァーナという。こちらの方が同名のロックバンドが存在するため、馴染み深いかもしれない。)
ある時、かぐや姫はずっと昔地球に行ったことがあるという月の人から地球の歌を教えられて、地球に興味を抱くようになる。せっかく辿り着いた理想の境地である涅槃を捨てて、煩悩に支配される地球に憧れるとは何事かということで、罪とみなされる。罰として煩悩に苦しむ地球に送られることになる。

それを知ったうえで、改めて『かぐや姫の物語』の主題歌である二階堂和美によって作詞作曲された「いのちの記憶」を聞き直してみた。公開された当初から気に入った歌だったから、CDは持っていたけれど、背景を知った上で聞き返してみると、さらに感銘を受けた。物思いにふけっていたせいかもしれないけど、本当に泣けた。何回か繰り返しても、ずっと涙が止まらなかった。自分はおかしいのかもしれない。こんなことくらいで泣けるなんて、まるで子どもみたいだって不思議な感覚になった。

歌詞は長くないが、ピアノソロの間奏が入ったりしているため、曲自体は短くない。心にじんわり染み入る名曲だと思う。

<なにも わからなくなっても たとえ このいのちが 終わる時が来ても>
<じっと 心に 灯す情熱の炎も そっと 傷をさする 悲しみの淵にも>

いわゆる煩悩から抜け出せずに、もがき苦しむ人間の様子が歌詞に描き出されている。それは脱却しなければならないものなのかという疑問が湧いた。涅槃が本当に理想とされる完成系なのかと。

映画を見るとよく分かるのだけれど、かぐや姫は人間として人間に育てられて、人間の愛情を知って、自然の美しさにも気付いて、都で姫として何ひとつ不自由のない贅沢な暮らしも手に入れて、おかしなしきたりに振り回されて自由を奪われ、言い寄って来る男たちに嫌悪感を感じて、月に帰りたいと思ってしまう。それは月の都の人がかぐや姫に仕向けた通り、一見、姫は涅槃に救いを求めたようにも見えるのだが、エンディングで、育ての親たちとの別れを惜しみ、すべての記憶を消されて思い悩むことのない月の都の人として月に向かって行く途中も、何か忘れ物をしたように地球を振り返るシーンもある。それは涅槃だけが理想じゃないということの表れに他ならない。

たしかに何の悲しみも苦しみもない世界で、永遠に生きられるとすれば、それは幸せなことかもしれない。でも、いつも平常心で、表情を変えることなく、うっすら微笑を浮かべているだけの人生が本当にあるとすれば、それはあまりにも退屈な人生だと思った。悟りの境地に達しているような人ってたまにいるけれど、生きていて楽しいのかなと思ってしまう。私もどちらかと言えば、感情を押し殺して生きているタイプで、某ショップにてロボットのペッパーくんに遭遇した時、静かに完全にスルーしていたら、「とても落ち着いていますね。精神年齢が高いですね。」というようなことを話し掛けられたことがあった。その時、自分はそんなに感情が見えづらい人間なのかと気付いた。そう言えば家族から、仏像みたいな顔と言われたこともあった。でも実際は全然感情を失くしているわけではなくて、実はけっこう些細なことで泣いたり、イライラしたり、ときめいたりすることもあるわけで、それって人間として、当たり前の感情だし、修行してまでそういう感情を失くす必要はあるのかなと思ってしまった。もちろん、あまりにも感情的な人はそれはそれで疲れるだろう。すぐにキレたり、泣いたり、笑い続けたり、それを自分の中でちゃんと消化できればいいものの、感情のコントロールができなくて、周りに自分の感情の処理を任せるのではかなり困る。実際、身近にそういう人がいるから、疲れ果てて、自分は感情を表に出せなくなっているのだけれど。

でもある意味、誰に気兼ねすることなく、感情を露わにできるって自然体でうらやましい。それは子どもの頃はできたはずなのに。人目を憚らず、泣いたり、駄々をこねたりできていた子ども時代が懐かしい。そういう子ども時代が『かぐや姫の物語』にもさりげなく描かれていて、子ども時代の姫は貧しくても他の子どもたちと共に自然の中でとてものびのび生きていた。大人になるにつれて、裕福になっていくほど、自由を奪われて、様々な葛藤も経験する。人間の世界で、喜びや悲しみなど様々な感情を体験していく。それは悪いことと言えるだろうか。
物語上の月の世界のように感情に振り回されることが良しとされない世界があるとすれば、私はそんな世界には行きたくない。たしかに悲しいのはつらいし、怒ることは疲れる。些細なことで嫉妬心を抱く自分が嫌になる時もある。けれど、そういう負の感情があるからこそ、喜びや幸福感は増すわけで、時間には限りもあるから、喜んだり、楽しい瞬間はより一層大切に思える。それって涅槃なんかよりも幸せなことなんじゃないかと思った。

<いまのすべては 過去のすべて>
<いまのすべては 未来の希望>

この歌詞が示すように、限りある人生だからこそ、<いま>を愛おしむことができる。月の都で永遠の命を与えられてしまったら、<いま>を記憶に留めたいとか、留めておく必要さえなくなってしまう。命が永遠に続くなら<過去のすべて>も<未来の希望>も何も要らないということになってしまうだろう。<いま>を大切に思える、限りある人生で良かったと改めて思えた。

<必ず 憶えてる なつかしい記憶で>
<必ず 憶えてる いのちの記憶で>

永遠だったら、何も記憶として覚えている必要さえないだろう。覚えておきたい記憶を残せる、限りある命こそ尊いものだと気付いた。

<あなたに触れた よろこび>
<あなたがくれた ぬくもり>

というかけがえのないものを忘れたくないと思えるのも、それがずっと続くわけではないからであり、限りがある時間と命とは人間にとって与えられた「罪」でも「罰」でもなく、対義語で表せば「功」と「賞」としか思えない。簡単に言えば、限りがあることは不幸どころか幸せなことだと思えた。

さっき見返した映画の作画の柔らかさと二階堂さんの温かい歌声が絶妙に合っていて、今夜も秋の月を見上げると「竹取物語」を思い出さずにはいられない。

「竹取物語」のラストは、帝がかぐや姫からもらった手紙と不死の薬を山で燃やしてしまうように命令する。自分の不死よりもかぐや姫と過ごした二度と戻って来ない時間を選んだのだ。それは涅槃には反する行為だろうけど、人間として、人間らしい行いだと思う。

結局は神にも仏にもなれない人間がどんなに愚かでも醜くても私は好きだ。どうにかして<いのちの記憶>を刻もうと、もがきながら必死に生きている今を生きる人間が一番、私にとっては理想の生き方だと言える。

「生きている手応えがあれば、きっと幸せになれた」

物語の終盤、かぐや姫はそう言い放った。
私は生きている手応えを感じながら、これからも煩悩まみれのこの世界で生きていきたい。

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