『もうたたかうのやめたい、という話』2019.12.12



たまに、自分を嫌うことさえ否定されるならどうしたら良いんだろう、と思うことがある。
インターネット上で、および匿名で意見を言える場所ならどこでも、「自分(*1)と立場が違う人を責める人を肯定する人」がいる。
これはどうしようもない、と私は思う。否定意見を持つのが悪いというのではない。個人である以上、他人と違う意見を持つのは当然で、それは肯定すべきであるとさえ思う。
どうしようもないと思うのは、意見が二段階を踏むときだ。中でも肯定意見を肯定する、あるいは否定意見を否定する、この二パターンが怖い、と思う。
余りのパターンは、肯定意見を否定する、否定意見を肯定する、だが、これらはそこまで怖くない。なぜなら意見が対立すれば、その場で書き手と読み手の論争になるからだ。書き手が参考にした意見は、読み手にとっては肯定したい意見、あるいは無関心なのだから遡る必要がない。
しかし、読み手が誰かの書いた他者の意見への否定を否定、あるいは肯定を肯定したいとき、その場で書き手の意見と対立しないために、書き手が参考にした元意見まで遡って否定してしまうケースがある。
例えば「自分を責める人」に対し「自分を責めるなんて甘えだ(自分を責めているふりして本当は自分が好きなんでしょう等、他のパターンもある)と責める人」を「肯定する」ケースがある。
これは「自分を責める」意見(元となる意見)から二段階を踏むことになる。そして、一段階目(自分を責める意見に対する否定意見の書き手)と二段階目(読み手)の意見が一致するために、元意見まで遡って否定をする。
このとき、インターネットでは「いいね機能」など、元意見の主張者まで届く否定方法がある、というのが恐ろしい。そこまで強く否定するつもりがなくても、伝える気がなくても、離れた場所から強い否定をしてしまう可能性がある。
仮にバズりツイートのように、1万件以上のいいねがついた場合、否定意見は強化される。元意見の書き手まで届いてしまった場合、数で迫られた経験のない一般人に、大きな否定が波のように押し寄せることになる。
バズるというのは、基本的に大衆化された意見にしか起きない。大衆化されるほどの否定が存在する意見というのはつまり、大衆化された意見であって、肯定者もそれだけ多く存在するはずだ。にも関わらず、元となる意見の主張は一人(または少数グループ)に限られる(*2)。よって、一人が袋叩きにされる事態になる。
この元意見が、例えば何かしらの研究成果など、対象が人間そのもの(人格)でなければ、否定に対し「私そのものが否定されたのではなく意見が否定された」と逃げることが出来る。
しかし元意見が「自分が嫌い」だった場合、すなわち「自分への人格否定」だった場合、逃げ場のない状態で、大量の否定意見から人格を袋叩きにされてしまう。そんなことをされたら、常人なら立ち直れない。
しかし、そもそも自己否定などしなければいい、という話でもない。一度も自己否定したことのない人間なんて存在しないはずだ。存在するなら、生まれてこの方一度も他人の気を悪くさせた経験がないか、認めた経験がないか、あるいは誰にも会わずに全てを大自然のせいにでもしてきた人間だと思う。
こんなことを突然思ったのは、宗教学に触れたからだ。
話は脱線するが、私は個人的に、宗教は幸せをもたらすものだと思っている。私自身は日本人に多いように、故人の埋葬方法等は仏教で、心理的には無宗教、という立場をとっている。けれど、信じられるなら神は信じるべきだと思う。
神とは、すなわち正解である。神の言う通りに動けば(死後になるとしても)必ず幸福が訪れる。つまり神が存在するなら神の言う通りに動いたほうが良い。最も効率的に幸福になれる。
しかし、私のように子供の頃から無宗教に慣れていると、死とは分子やら原子やらの身体と意識の組成が崩れ拡散し、同じ状態に戻れなくなることだろう、などと考えてしまう。
私は、死は無であるという考えを持っている。分子やら原子やらの拡散に失敗し、ある程度集合して残ってしまった場合に、幽霊や来世として残る可能性もないではないが、個人的にはあまり嬉しくないので、そう考えたくはない。
すなわち、宗教を信じない限り、生き方に正解はない。自分が神だ、という場合はそれで正解かもしれないが、私個人としては、宇宙のどこかに人間には一生理解できない原理とかありそうだし、自分が神で下した判断が全て正解で最も効率的に幸福に近づく生き方である、とは思えない。宇宙の原理がいずれ理解できるとしても、今存在している人が死ぬまでに解明できるとは思えない。
宗教がわからない私としては、宗教を心の底から信じられる方が幸せになれそうだ、と思う。宗教の形は問わない。ので、どんな宗教を信じていても、その人がそれで幸せならそれでいいと思う、と考える(強引な勧誘等は話が別)。
それぞれが幸福に近づけそうな手段を取ればいいし、それぞれが好きな信仰を持てば良いので、どんな意見を持つかも自由だと思う。誰かが自分を否定したいときには、私は、あなたが否定されるような人だとは思わない、と意見するかもしれないが、否定したいという気持ちまで否定する気はない。
一言でまとめると、みんななかよくできたらいいのに、と思う。たたかうのやめようよーと思う。
こういう意見も、二段階踏んだ否定である可能性があるので、ブーメランなのかもしれない。だからといって黙っているわけにもいかないので、話は飛躍するが、だから戦争はなくならないのだろうなぁ、思う。
黙っているだけだと、当然言った者勝ちになるわけだから、権利も何もかも奪われる。そんなに良い人だけでこの世が構成されているとは思えない。何段階目だろうが、誰を否定することになろうが、言わなきゃいけないときはあるし、守らなきゃ奪われる。
が、同時に、そこまで殺伐とした時代でもないだろう、とも思う。もうちょっとゆっくり、「あぁ、この人はこう思うんだな。私は違うけど、でもわざわざ否定するほど近い距離にいないな」とか考える余裕を持っていられたらいいのに、と思う。
誰でも間違えるときがあるし、自分が思っていることと逆のことを言ってしまうときだってあるし、「そうなんだねぇ。じゃあお互い侵略せずにいこうねぇ」みたいな、所謂冷戦状態くらいには持ち込めないのかな、と思う。
これは私がとてつもなく恵まれた人間だからで、既に奪われた人、今何も持っていない人は、今のままでは困るから無理だ、と思うのだろう。
私だって今、とてつもなく幸福かと聞かれたら、「いや、もっとまともな人間になって、お金も稼げるようになって、頭も良くなって、もう少し幸福になりたいです」と答える。
でも、こうやって小難しく考えてるととても疲れるし、やめた方がいいんじゃないのかな、わりと無駄じゃないかな、と、思う。
ぼんやりしているうちに、なんかうまく世界中が幸せになったらいいのになぁ。



*1 「自分」は書き手でも読み手でも主な意味は同じになる。読み手が「自分」と同じ立場から生じた書き手の他者意見への否定を肯定する。あるいは書き手が「自分」と同じ立場から書いた否定意見を、読み手が肯定する場合。
*2 個人または少数グループでない限りわざわざ主張する必要性がない。周知の事実に対して否定してもバズりは起きないと思う。





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