短編『MV』
「お兄さん、悪いんだけどさ」
若い女の子だった。夕日に照らされる路地裏の壁に寄りかかって座り、脱力している。身軽そうなタンクトップに、ダメージの入った太腿の覗くスキニーパンツ。短く切りそろえられた金髪は、汗で額に張り付いている。
「救急車、呼んでもらってもいいかな?」
腹部に歪んだ円形の血染みができている。段々と大きくなっていく道路の血だまりの中心に、ストラップのついた一眼レフのカメラが沈んでいる。
この子は刺されたのだ、と理解したとき、向かい側から細身の女性が走ってくるのが見えた。
黒髪を振り乱して近づいてくる彼女の手は、真っ赤に濡れていた。
刃物を持っていない代わりに、大きな石のブロックを持っている。
真横で男が見ているというのに、彼女はなりふり構わずブロックを高く振り上げて、冷や汗をかいている金髪の彼女にぶつけようとする。
思わず手を伸ばして黒髪の女性を止めると、開ききった瞳孔が一瞬にして締まり、手を振り払われて逃げられた。
彼女はたった今、自分のしたことの重大さに気付いたようだった。追いかけようと身体の方向を変えたとき、「うっ」といううめき声が聞こえた。
金髪の彼女が、血みどろの一眼レフを僕に差し出している。
「お願い、撮って」
レンズカバーが外れて落ちると、彼女は気を失った。
◇
朝方の病院の静けさの中、こもった音で聞こえてくるテレビの会話だけが鳴り響いている。
画面の中のジャーナリストは、事件について語り続ける。
「こうした倫理観の欠如が事件を引き起こすのでしょうね」
僕が撮った金髪の彼女の写真は、ネット中に広まっていた。
当の彼女はと言えば、「何が倫理観だ、ばーか」とテレビに向かって舌を出している。
彼女は、僕に向かって「ありがとね」と微笑む。
僕は昨日、写真を撮った直後、救急車に電話をかけながら気を失った。最近のスマートフォンのGPS機能は発達しているから、僕自身が住所を告げなくても迎えはきた。
僕も救急車で運ばれ、起きてすぐ、彼女に頼みごとをされた。
テレビカードを買ってきて、と言われ、白んだ朝日の射し込む消毒液の匂いの廊下を歩き、古びた自販機でテレビカードを買った。
カードを持ち帰り、彼女のいる病室に着くと、彼女は歯を見せて笑い、喋り始めた。
僕はベッド脇のパイプ椅子に座って、呆然と感謝を受ける。
今、どうしてこんなことをしているのか、なんであの時に冷静に写真を撮ったのか、考えようとしては風船から空気が抜けるように思考が遠のく。
浮かんでくるのは、あの黒髪の女性のおぞましい形相と、痛みに顔を歪ませるこの女の子の表情だけだ。
おそらく脳が、あまりにも大きなショックから逃げようとしているのだろう。それ以外思い出せない。
僕は昔から血も傷も、争いごとも苦手だ。
「お兄さんって優しいんだね。私が怪我してるの見て倒れちゃうなんてさ」
快活にそう言った彼女は、僕に名刺を差し出した。
〈崎山伊織(さきやまいおり)〉
十九歳。カメラマン助手。
高校を卒業して、すぐに社会人になったのだろう。東京では珍しいが、年齢以上に落ち着いて見えるので納得できる。
僕の勤務する映像制作会社にも、叩き上げでやっていこうとする十八、九の子がたまに入ってくる。
専門学校を卒業して一年目の僕は、年齢は違えど彼、彼女らと同僚なので、立場は同じだ。そういう生活に慣れているから、目の前の彼女にもあまり年齢差を感じない。
「これであの子、報われるといいんだけどねぇ」
ため息をつく崎山さんは、スマートフォンで自分の刺された姿を覗いている。あの子、とは、黒髪のあの女性のことだろうか。
「どういう意味?」
初めて喋った僕に、崎山さんは驚いてから、嬉しそうに目を細める。
「お兄さん、ちょっとは落ち着いてきた? ごめんね、あんな光景見せちゃって。びっくりして喋れなくなっちゃうよね」
僕は首を振る。別に、謝らせたいわけではなかった。彼女は被害者だ。
「お兄さん、日比谷誠さんだよね?」
今度は僕が驚いた。僕はついさっきまで気を失っていて、今やっと一言目を発したところだ。自己紹介はしていない。
彼女に僕の荷物を見たり、病院の人間と話す余裕があったりしたとも思えない。結局、僕は一人になるのが怖くて、自販機に向かったあの時以外はずっと彼女のそばにいたのだ。
彼女はケラケラと笑う。
「ま、そういうことよ。私、こうみえて情報通なの。流すのも得意」
崎山さんはそう言いながら、あのとき逃げた黒髪の女性の写真を僕に見せた。
あの時とは打って変わった穏やかな表情にはもちろんだが、その背景も意外に思える。
写真の背景はライブハウスだ。
薄暗いステージが写っていて、左右にスピーカーが置いてある。
中央にいる黒髪の彼女はカメラに向かってピースサインをしていて、その手首にロゴ入りのラバーバンドをしている。
「申し訳ないことしちゃったなぁ」
崎山さんは画面をスワイプして違う画像を見せる。
「これが原因」
ギターを弾いている男。バンドマンだろう。簡素な黒いTシャツを着て、青紫色のスポットライトに照らされている。
そこで、それが見覚えのある写真だと気付いた。
僕はこういった奥まったライブハウスには行ったことがないし、興味もないが、覚えているのだ。
「先週のニュース見た?」
崎山さんの言葉で思い出す。
そうだ。このバンドマンが起こした騒動がニュースで流れた先週、会社の女性たちが、複数人同時に体調不良を訴えて会社を休んだ。
僕は多大な迷惑を被ったのだ。彼のせいというよりは、ショックで会社を休む彼女たちに疑問を覚えるべきなのだろうが、それでもあれだけ人気がある彼が、わざわざ自死を選ぶ理由がわからなかった。
そう、彼は死んでしまっている。この写真の中の彼は。
「『俺は憧れた』……でしたっけ。遺書。ニュース、見ました」僕は言う。
「そう! 知ってるなら話が早い」
崎山さんは、目を糸のように細めて白い歯を見せた。そんなに、笑顔で話す内容だろうか。
思えば、黒髪のあの女性はやせ細っていた。あのバンドマンのファンなら、精神的なショックでやつれたのかもしれない。異常な形相に見えたのは、目が腫れていたせいもあるのだろうか。
僕が黙り込んでいると、崎山さんがベッドから降りようとする。
「ちょっと」
道路に広がった血だまりの大きさを思い出して、僕は彼女を止めた。けれど彼女は「大丈夫」と言って、窓際まで歩いていく。
「ここじゃ、ちょっとな」
崎山さんはそう言って、両手をくっつけ、僕に<お願い>をした。
「連れて行ってほしいところがあるの」
僕はこのとき、彼女の目の奥に、狂気的な光を見た。情報通の彼女は、スマートフォンを片手に首を傾げていた。
◇
探偵ごっこのように、彼女に長髪のウィッグを被せて病院を抜け出させる今の僕は、なんて滑稽なのだろう。
薄給の新人ADの貯金を、こんな形で使わされるなんて思いもしない。気が弱く声も小さい僕が、コスプレショップで女性用のウィッグを購入する姿は、そういった趣味をもつ特殊なオタクにしか見えなかったはずだ。
「ごめんねぇ、君にこんなこと頼んじゃってさ」
謝るならやめてくれ、と崎山さんを睨みつける。目が合ったとき、彼女の瞳孔が開ききっていて、ぞっとする。
彼女は何を企んでいるのだろう。
「高層ビルの屋上に行きたいの。高ければ高いほどいいんだ。どこか良いところある?」
僕は答える。
「高いところは沢山あるけど、この辺りはオフィスビルばっかりで……。多分、入れないよ」
僕が率直な意見を述べると、崎山さんは「なるほど」と頷く。
病院を抜け出した先のオフィス街は、彼女の狂気と僕の焦燥など知らない。
いつも通りの、無機質な風景を紡ぐ。スーツばかりの面白みのない色彩。コンクリート。疲れ切った表情。
崎山さんはパタパタと手で顔を仰いだ。ガードパイプに腰掛け、すれ違うサラリーマンたちを横目に見送り、ショートパンツのポケットに手を入れる。
「そうだなぁ。交渉してみようか」
崎山さんがスマートフォンを触りだして、画面を素早く叩いてみせる。
五分ほど話もせず、その場で二人で佇んでいると、背後から肩を叩かれた。
僕は振り向く。背の高いスーツ姿の男がぼうっと立っている。
くっきりと目の下にクマができていて、ひどく老けて見えたが、肌や髪の感じからして若いのかもしれないと思った。もしかしたら僕と同じ歳くらいかもしれない。
「君が、日比谷誠さん?」
彼は想像していたよりも若く、しかし疲れた声で言った。
思わず隣の崎山さんを見る。僕はそんなに有名人じゃない。崎山さんは良い笑顔を見せて、こくこくと頷いている。
スーツ姿の男は僕の反応を待たずに、首にかけていたストラップ付きのカードホルダーを外した。
「頼む」
男はそう言って僕にカードホルダーを握らせると、背を向けて去って行く。彼は最近までスポーツでもしていたのだろうか。使い込まれた厚い皮膚の感触と、温かさが僕の手に残った。
夏のスーツは暑いよな、などと、無駄な同情をしてしまう。
「次、あの子だよ」
崎山さんが指差した場所、十五メートルほど先の歩道に、同じくスーツ姿の女性が立っていた。
右手には手持ちの小さなバッグ、左手には茶色のビニール袋。
形状からして、中身は弁当だ。彼女は僕たちに近づいてくると、「行きましょう」と頷く。
「おっけい」
崎山さんが返事をして、僕の背をぐいぐいと押した。
歩かざるを得ない状況に、僕は抵抗できず、ただ歩いた。
◇
スーツ姿の女性は、オフィスビルの入り口で崎山さんにカードを渡した。
案内された場所は、相当な高層ビルだ。
崎山さんが望んでいたとおりの場所だろう。
オフィスビルの自動ドアを抜けると、弁当をぶら下げたスーツ姿の女性が言う。
「五二階で、私の同僚が待っています。彼女に案内してもらってください」
崎山さんは、やつれた彼女からカードを受け取って、うなずく。
僕の手を引いて、歩きはじめる。
僕たちはカードを機械に押し付けて、目の前のエレベーターに乗った。
男から渡されたカードと、たった今、彼女から渡されたカードを使った。
不法侵入の手助けをしたスーツ姿の彼女は、別れるときに控えめに手をふってくれたが、僕はどう返していいのかわからず、結果的に無視をしてしまった。
耳の奥が詰まるスピードで、エレベーターは登っていく。
僕の逃げ場が消えていく、と思った。僕はどこまで連れて行かれて、何をさせられるのだろう。
崎山さんを見ると、真っ青な顔でスマートフォンを覗いていた。
「……大丈夫?」
崎山さんが怪我人だったのを思い出した。
もし、崎山さんがここで死んでしまって、この場で解放されたと思ったら、夢から醒める、みたいなストーリーだったらどうしよう。
そんな想像をしたが、どうやら目の前の光景は夢ではない。
彼女は少しだけ呻いて腹をおさえた。
当たり前だ。怪我をしているのだ。痛いに決まっている。
僕が彼女を病院から逃すときに買ってきた服に、血が滲んでいた。
自分の手の甲をつねってみる。当然痛い。たったこれだけで、痛い。
僕は自分のことばかり考えて、彼女の傷のことなどすっかり忘れていた。
いや、僕は彼女に脅されているのだから、彼女を気遣う必要なんてあるのだろうか。
あるだろう、と思った。彼女が死んで解放される、なんて想像するのは、あまりにも倫理に欠けている。
病院で見た、あのジャーナリストが言ったみたいに。
「刺されるって、こんな痛いもんなんだね。笑えないわ」
崎山さんはそう言って、「やば」とつぶやきながら、エレベーターが上がりきるまでうずくまっていた。
僕はどうしたらいいのかわからなかった。今しているのは不法侵入で、救急車を呼ぶこともできない、と黙って見ていた。
結局、何も出来ずにエレベーターは五二階についた。
僕は何もしなかった。
「あなたは、日比谷誠さんでお間違いないですか? ……こちらです」
新たな女性が扉の前で待っていた。
僕の名前がまた呼ばれた。
女性は真っ青な崎山さんを見て一瞬動揺したが、ぎゅっと拳を握って、彼女の腕を肩にかけて起こし、歩かせた。
彼らには何か目的があるのだろうか。僕は何をしたらいいのだろうか。
思い切って、口を開く。
「あの。……一体何をしようっていうんですか」
女性と崎山さんが振り向いた。崎山さんが冷や汗をかいた顔で、笑う。
女性も笑う。
いや、笑うというよりは、優しく微笑んだ。
「抵抗ですよ」
彼女は一言そう言った。
崎山さんが喋りはじめる。
「君はさ、憧れってなんだと思う?」
直感的に、あのバンドマンの話だ、と思った。
死んでしまった彼は、何かに憧れていた。
憧れとはなんだろう。
手の届かない何か、だろうか。
「遠いから良い、とか、触れられないから惹かれるとか」
崎山さんはそう言って、ふふ、と鼻で笑った。
「悔しくならない? 触れられないものなんか何にもないって思えばいいじゃん。何回でも手を伸ばして、手に入れりゃいいのに」
僕たちは一段一段、非常用階段を登っていく。
知らない会社のこんなところに、初めて入った。
ヘリポートに続く道。
屋上に続く両開きの扉が、強い風の抵抗を受けながら開かれる。
崎山さんは「後はよろしく」と、笑顔でピースサインを送った。
◇
僕は崎山さんを置いて、高層ビルの一階まで降りて来ていた。
崎山さんの一眼レフだけを持って、呆然と立ち尽くしている。
崎山さんは僕の個人情報や今までの経歴を、全て知っていた。崎山さんはその情報を振りかざして、僕に最後の<お願い>をした。
僕はまた、見知らぬスーツ姿の男性に声をかけられて、別のオフィスビルに入る。
同じような手順でカードを押し付け、捕まることも止められることもなく目的地にたどり着く。
三十階の大きな窓の前に、借り物の三脚を立てた。
一眼レフの画角を決めて、明瞭に隣のビルを写す。
就職する前は、カメラが好きだった。
そんな趣味はなんの役にも立たないと知ってから、触ることも考えることもやめた。
ビルの大きな窓は、薄青い空を透かしている。
雲ひとつない空。
何もなくて、淡いだけの空。
僕は崎山さんが、空から落ちてくるのを写した。
金色の髪をなびかせながら彼女はただ落ちた。細い体は、まるで空に沈んでいくように。落ちているのに、天国へ向かっているような、淡い、淡い光景だった。何もない空に、希望を獲りにいくように。何度でも手を伸ばして、手に入れられる物語のように。
綺麗な画だった。僕は、ただ彼女を撮った。
撮り終えると、僕は真っ直ぐ家に帰った。
一眼レフのデータをパソコンに移行して、動画の編集ソフトを開いて、ネット中にばらまかれた崎山さんの画像と、そこから繋がる掲示板から拾った画像をつなぎ合わせる。
一眼レフのデータに入っている人間は全て崎山さんだったが、撮影者は全員不明で、一切のことがわからなかった。
掲示板の人間も全員が無記名で、何もかもが隠されていた。
ほとんど飲まず食わずで三日が経ち、荒っぽくはあるが、動画は完成した。
僕が持っている動画編集の技術や、過去に蓄えた写真の技術、音声編集の技術、全てが役に経った。
風呂にも入らず、電気もつけないまま過ごしていた僕の頭に、やっと崎山さん以外の姿が入ってくる。
ニュース番組で、ジャーナリストが話している。
「最近の若者は、ちょっと狂気的ですよね。死のうっていったって、どうしてわざわざ都心のオフィスビルから飛び降りるのか? 誰かに見られたかったんでしょうか。匿名で話せるネットが普及して、最近の若者の感覚は変わってきているのかもしれませんよね。自分の行動には責任を持つべきだ。私たちは、倫理教育について考え直さなくてはいけないかもしれません。匿名で放り投げるのではなく、自分の行動は、自分で処理しなくてはならないんですよ」
僕は出来上がった動画を、崎山さんに紹介されたサイトに投稿した。
受け取った彼らは、それぞれが無記名で感謝を述べながら、驚異的な速度で拡散した。
僕は一般的な教育を受けて、それなりに夢を見て、端の方だとしても両親や社会に求められた道を歩んで来たはずだった。僕は僕らしく生きてきたはずだった。
そう思いながら、ジャーナリストの浅いため息を聞いた。
次のニュースで、崎山さんを刺した黒髪の女性が逮捕される様子が放映された。
彼女は自首したらしい。
人気のバンドマンが死んだことによる悲しみに、同バンドのファンの女性から挑発を受けて、思わずやってしまったと説明した。ある女性を刺したのだと。
オフィスビルから飛び降りた崎山さんの体には刺し傷があり、黒髪の女性の罪は認められた。
女性はその後、警察に向かって泣きながら、あのバンドに強く思い入れた理由を語ったらしい。
「彼の曲を聴くと、全てを諦められる」
僕は、パソコンの中に残っていた大量の写真と、死んだバンドマンが描いた絵コンテを削除した。
幾度も力尽きる金髪の女性が、画面から消えた。
後日、ある一曲が馬鹿みたいに売れた。何年も前の曲だ。
素人が作ったMVがネットに流れているとして、そこら中に注意喚起が出された。その動画は、どこまで規制されようが広まり、若いファンを中心に何度も再生された。
とある人間の死に様が映ったそのMVを、匿名の誰かが「責任ある行為」だと言った。掲示板には、賛同する声が多く上がった。これは自殺じゃない。
これは責任なんだ。自身の言葉に対しての。
彼女は自分で、選んだのだから。
会社帰りに通りがかった道路上で、ギターを抱えた青年たちが、明日の生活を嘆いている。背後のビルの広告で、あの曲が流れている。
僕は、彼らが誰かの曲を真似して演奏するのを聞いて、立ち尽くしていた。あのMVは崎山さんの責任で、僕の責任じゃない。
これで、良かったのだろうか。
<了>
*
昔かいた作品を推敲しました。当時もらった感想は「なぜこれを書いたのかわからない」「MVと言われれば納得できる」「米津玄師感」などです。最後の「米津玄師感」は喜んでいいのかわかりません。謝るべきでしょうか。申し訳ありません。米津玄師さんいいですよね。
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