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迷える手 Ep.3/ナチョスの短編

大学を卒業した男は、バイト先にそのまま整体師として働くことになった。

内向的な性格は性格は変わらず、お客からは無愛想で評判はイマイチだった。

医院長にもクレームが入ることはないでもなかったが、腕は文句のつけようがなかったので目を瞑っていた。

実際、無駄なコミュニケーションがなくていいという声もあった。

彼の欲求は仕事で満たされるはずだった。

しかし、彼の中で大学の時の一度きりの犯行の快感が忘れられなかった。

また見知らぬ人間を治療したい。

彼は自分よりもはるか上の階級の人間を治療してみたかった。

彼のことを蔑み、近づこうとすれば過度に反応し、汚らしく扱う人間が押し倒され悲鳴を上げる姿。

その歪んだ顔が徐々にほぐされていく表情。

それを想像するとたまらなかった。

そして彼はお金持ちが集まる場所での犯行を計画した。

ある日、彼が働く場所では珍しくわかりやすい金持ちそうな男がやってきた。

その男は実際社長で、どうやら長年の腰痛に悩まされてきたらしく、「どこでもいいから、いくらかかってもいいから腰痛を治せる人間を探してこい」という注文を秘書にしたらしく、探していたところに彼が働いていた店のレビューで「ゴッドハンド」のワードを見つけ、ダメ元で連れてきたのだった。

彼にとってこれは格好の機会だった。

自分と結びつかない世界の人間が、向こうからやってきたのだ。

「うつ伏せになってください。」

無愛想な彼の言い方に社長の男は訝しんだが、彼にとっては慣れていた、フリのような反応だった。

痛みを伴うが、気づけば痛みが消えている。

痛かったという事実が嘘だった思えるほどに。

施術が終わり、彼の方を向いた社長は手を差し出した。

「信じられないよ。こんな人がここで働いていることが。私が腰痛を持っていたことさえも。」

握手など最後にしたことがいつだったのか思い出せなかったが、彼もゆっくりと差し出した。

「これが、ゴッドハンドか。はは。分厚い手だ。」

「社長、お電話です。」

秘書から携帯を渡された社長の男が、パーティーがどうのこうの、港区がどうのこうの、という話をしている。

彼は最大限に耳を凝らした。

日時も聞き逃さなかった。

電話を切った後男が言った。

「ひとつ聞きたいんだけど、出張で診たりはしてないのかな。仲間内で慢性的な痛みに悩んでる奴が多くてね。お金はたくさんだせるけど、どうかな。」

「すいません。そういうのはちょっと。」

約束されたものに彼は興味を示さなかった。

それじゃあスリルがない。

意味がない。

男は少し残念だったが、仲間に店を紹介するよ、と言って黒塗りの車に乗って消えていった。

彼は忘れないうちに、パーティの日時と場所をメモした。

思わず笑みが溢れた。





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