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頼りの娘から「死んでもいいよ」と言われた日

岸田ひろ実と申します。

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車いすに乗って暮らしています。

もしかしたら「あ、かわいそうだな」「大変そうだな」「何かしてあげないといけないかな」と、そんなふうに思われた人もいるかもしれません。

11年前まで、私は普通に歩いていました。

歩いていたときの私も、きっとそういうふうに思っていたと思います。
「かわいそうだな」とか、「不幸せそうだな」とか、マイナスのイメージがありました。

でも私は、実は今までの人生の中で一番幸せだと思っています。

歩いていたときより、今のほうが楽しいです。
幸せです。
夢もたくさんあります。
希望もたくさんあります。
毎日ワクワクして生きています。

歩けなくなった日のことです。
私は突然、大動脈解離という病気に襲われました。

心臓から出る大きな血管が裂けていく病気です。
これが裂け切ったらもう即死という状態でした。
緊急搬送された病院で宣告されたのは、9割の確率で命を落とすでしょうということでした。

緊急オペに入りました。
10時間のオペを経験したあと、幸いにも一命を取りとめることができました。そして麻酔から覚めた私は、まったく足が動かなくなっていました。

胸から下が麻痺をしてしまったのです。

その日から、私は日常普通にできていること、当たり前のこと、すべてを失ってしまいました。絶望と向き合う日が始まってしまいました。

私には家族がいます。

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長女と、そしてダウン症と知的障害がある長男。3人家族です。
夫は病気で突然、亡くなってしまいました。

私にとって頼れる存在であるのは、たった1人の長女でした。
そんな長女は歩けなくなった私を毎日毎日励ましてくれました。

「ママ、大丈夫だから。何とかなるから、一緒に頑張ろう」
本当に、一生懸命励ましてくれました。

しかし、そんな励ましは私にとってまったく響かなかったです。心に届かなかったです。

それはどうしてかというと、今まで普通にできていたことがまったくできなくなったからです。

たとえば、寝返りをうつことも1人でできません。ベッドから起き上がることもできません。もちろん車椅子に乗り移ることも無理でした。お風呂も1人では無理。トイレも1人では無理。無理なことばっかりです。

そんな私に「大丈夫だよ」って言われても、何が大丈夫なのか。

毎日毎日ベッドで泣いていました。しかし娘がくると、娘にはこれ以上苦労をかけたくない、落ち込んでいる私の姿を見せたくないという私の意地があったので、いつもいつも笑ってやり過ごしていました。

大丈夫、大丈夫、私は大丈夫だよ。
そういうふうに、やり過ごしていました。

ある日、大きな転機がやってきました。何となく自分で動けるようになってきた頃、病院から外出許可が出ました。

娘は私に言いました。

「ママ、三宮の街に行こう。歩いてるときと一緒のように、また三宮に買い物に行ってご飯食べに行こうよ」と言ってくれました。

入院してからもう半年以上あったので、久しぶりに外出できるのがとてもうれしかったです。

たとえ車椅子でも、また前みたいに楽しめるかもしれない。そんな思いを持って、娘と2人で三宮の街に出かけました。

しかし、そんな気持ちもたったの1時間も経たないうちに崩れ落ちていきました。

いつもなら、ここからそこに行くのに数10秒です。しかしそこには越えられない段差がありました。階段がありました。

行けない、どうやって行けるんだろう?誰も教えてくれませんでした。

お手洗いに行きたいっていっても、普通のトイレには行けません。車椅子トイレどこにあるんだろう、と探す必要がありました。

いちいち何をするにも大変です。

そして混雑している道路を通るには、車椅子には幅があります。なので「すいません、ごめんなさい、通らせてください」謝ってばかりいました。

そうして、落ち込んだ気持ちを持ったままようやくたどり着いた夕食のお店。パスタを食べようということになって、パスタ屋さんに入りました。やっと入れるお店を見つけました。

そしてそのお店、通路が狭かったです。「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながらやっと通らせてもらって、テーブルに着くことができました。

その時、気持ちが溢れました。

「もう無理じゃん、車椅子でも大丈夫って言われたけど、結局車椅子でも外に出るとこんなにつらいことがいっぱいある。もう無理だ」

気持ちは限界になっていました。

そしてとうとう娘に言ってしまいました。

「もう、なんでママ生きてるんだろう。死んだほうがましだった、死にたい」

そんなふうに言ってしまいました。
私は娘の顔を見ることができませんでした。

きっと泣いて「ママ死なないで、何でそんなこと言うの?」というと思っていたんですね。

恐る恐る娘の顔を覗いてみました。「しまった、言ってしまった」と思いながらです。

そうすると娘は……パスタをパクパク食べていました。
えっ、今それ食べる!?とびっくりしてしまいました。

娘は私に言いました。

「うん、知ってるよ。きっとそう思ってると思ってた。だから死にたいなら死んでもいいよ」と言いました。

「きっと死んだほうが楽なくらい、ママが苦労してしんどいの知ってるから、死んでもいいよ。でも私にとってママはママだから。歩いてても歩いてなくてもママはママで、変わらず私を支えてくれてるから、私にとったら何にも変わらない。だから大丈夫。大丈夫大丈夫、2億%大丈夫だから」と言ってくれました。

言ってくれた私のほうがびっくりしてしまいました。「え? 死んでもいい? そこは死なないでって言うところじゃないのかな?」と思ったんですが、死んでもいいという選択肢を与えてもらったら、私は一体何にこんなに落ち込んでるんだろう、とも思いました。

そして、2億%大丈夫というような、聞いたこともない大丈夫という確率に「じゃあ、娘を1回信じてみよう」と思いました。もう、歩けてても歩けてなくてもどうでもいいやと思いました。

娘に本当の気持ちを話したということだけで、私はすごく気持ちが楽になりました。

歩けてても歩けてなくても、生きてるだけで娘の役に立ってることがあるかもしれない。
そうすれば私もこれからまた何かできるかもしれない。
歩けないことばっかり悔やんでても、落ち込んでるばっかりでも何も楽しくない。

そしたら「歩けなくてもできること、車椅子の私しかできないこと何だ? 何かないかな?」
そんなことを思い始めるようになりました。

そうすると不思議です。
なんだか外に出たくなります。
何かやってみようと思いました。そして何とかリハビリ生活を乗り越えて、私はある程度自分で動けるようになって、病院を退院することになりました。

そうしているうちにも、どんどん外に出るようになりました。
たくさんの人と知り合うようになりました。
街へ出ると、今まで気づかなかったことにたくさん気づくようになりました。

どうしてここからそこに行くのに行けないんだろう、どうしてこの物を使いたいのに使えないんだろう。

そうしたら「行けないところを行けるようにしたらいいんじゃないか? 使えないものを使えるようにしたらいいんじゃないか?」

そんなことをいつもいつも考えるようになりました。

今、私は、娘が先輩たちと創業した、株式会社ミライロという会社で働いています。

ユニバーサルデザインのコンサルタントとして、車いすの私の視点から、気づくこと、わかることを、伝えています。

noteではそんな私と、娘と、息子の日常を綴りたいと思います。

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