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石川へ度々。番外編:東京田舎なし娘、福井の田園に故郷を発見する

前回、友人に会うために福井と小松に行った話。世界中を旅していた彼女が福井に戻ったら自分も行くと決めていたのは、母方の祖父の故郷を見てみたかったから。実はこれが私にとって2回目の福井であった。

うちの爺さんとは母親が離婚して実家に戻ったのを機に数年間、一つ屋根の下に暮らした。私が小学校に入学して間もなくこの世を去ったのであまり記憶はない。ただ、遊び方がうまくて、盆栽が好きで部屋に硯や筆があり、文化の香りがしていたのが印象的だった。

爺ちゃん、その名も末五郎、はよく福井に山菜を取りに帰っていた。最後も福井の故郷に帰り、禊をし(風呂に入り)仏壇の前でご臨終したとか。なかなかアンテナの張っている方だ。
爺ちゃんは明治40年(1907)の生まれ。親も私も末っ子だから随分歳が離れている。

実のところ、私が20歳そこそこで旅に出るようになってから、だんだんとルーツや爺ちゃんのことも思い出すようになっていた。(なのでイギリスのヒーラーに爺さんが後ろについている、と言われた時は納得感があった)
福井の農家に育った爺ちゃんが東京に出たのは、俳優になるためだった。大した役はもらえず、大根役者で終わったという句が墓標に刻まれている。なので実家は日活のある、映画のまち調布だった。(昭和3年、1928年に日活入社)その家はもう跡形もないけれど、爺ちゃんが晩年に綴っていた自伝作文があることを大人になってから知った。

あまりにも波乱の多い人生を省みて綴ったという人生の回想録。

旅をするようになってから、とりわけ自分のルーツや田舎がない(オヤジに関してはいない前提)ことに怒りを覚えていた私にとってはお宝発見であった。

明治四十年、北陸地方の田舎町から数キロ離れた草深い農家の四男に生まれる。・・・明治の初期断髪令が布告されたのだが、寒村僻地の農村のおじいさんの中には愛着の念断ち難く、まだチョン髷を結っているおじいさんをたまに見かけた

と始まり、自分の母も眉毛を剃りお歯黒をしていたとか、まさに江戸時代の名残から現代まで、歴史と自分自身が繋がるようだった。子供時代は盆暮れ正月が暮らしのイベントだったこと、栄養価の低い食事だから量を食べないとならないので農家には胃病の人が多かったこと、豪雪地帯で雪下ろしをしないと昼夜の区別もつかなくなったり糞尿の汲み取りが来なくなるのが困る、自分で汲み取って雪の上に糞尿をばらまく(!!)など、当時の暮らしぶりが分かる貴重な記録だ。火葬が丘の上で行われていたり、野菜を天秤にかついで売りに行ったり、大正の女は下着を履いておらずこたつで自分の足が女の局部に当たったなど、当時の暮らしぶりのリアリティが面白い。
ちなみに化学肥料のない時代は人糞が貴重な存在であり、町の商屋と穀物などの交換条件に一年、二年の契約を結んでいたとか。現代の汚物と食物が同等の価値を持っていた時代。いや、森のように人間も自然の中で循環していた時代だ。

この作文を読んで、20代前半の頃か、衝動的に一度福井に行ったことがある。今思えば母親に情報を聞けばよかったのだけど、そういうアイデアはなかった。
自伝に地名などはなく、どうしようもないな、と思いながら嘉永だか天保だか看板に記された、古い和菓子屋さんへ入って話しかけてみた。タウンページを取り出してもらって、該当の苗字で見てみると数件。グーグルマップの存在は知らない頃。自分もどこまで本気なんだ、と思っていたら日が暮れたので終わりに。計画性に欠けた20代であった。

そして今回、福井へ行く前日に役所へ行って除籍届を何とかゲット。書類が手書きになっている。武生、現在の越前市であった。駅は意外にも大きく綺麗で、明治のイメージは一気に覆された。
友人ナンちゃんと待ち合わせる前、駅前の観光所で女性と話してみる。住所を見せると「ここは古い土地でね…」という。古い=江戸時代というのが私の感覚だけど、女性が話すのは戦国時代のこと。頭がクラクラする。
ナンちゃんと待ち合わせて、除籍届の住所を現在の住所に照らし合わせて、ここら辺かなと車を走らせてもらう。まぁあるわけがないよな、というノリだった。

「ふくいどっとこむ」より、越前市の田園風景。

まさにこんな風景が広がる中、候補地の住所へ着く。と、大きく立派な瓦屋根の家がある。へーっと見てみるとなんと、表札が爺ちゃんの苗字だ!!
家が存在していたなんて。彼女に報告して私はもう退散、という気持ちだったけど、「ここまで来たんだから」と言われ、「えーっ」と思いながらチャイムを鳴らす。人が出てきてしまった。どうすればいいんだと思いながら爺さんの名前を口にしてみる。
「え? 末五郎さん?」という展開に。まさか、爺さんが亡くなった時からその家に住んでいる、私の親戚だったのだ。あれから30年近く。まだ祖父の存在は通用した。喜ばれるはずもないけど、仏壇にだけ手を合わさせてもらい、近くにある先祖の墓まで案内してもらった。

人間ないものに関しては手が届かないほどに遠く感じる。子供、恋人、学歴、経済的成功……ないない、自分が持てないものに人はフォーカスしがち。実家もなくなり家族も崩壊した私は“帰る場所”、資本主義都市で無機質な東京ではなく、ふるさと的な存在を欲していたのだ。人間の基盤からプッツリ切れ離されたような感覚。それがチベットやヒマラヤの山村のような風景に惹きつけられる由縁だったのかもしれない。
それなのに、爺ちゃんが生まれ育ったこの家は建て替えがあったとしても明治から令和の今までここにあった。「私は繋がっている」ことを感じさせてくれたこの訪問はなかなか衝撃的で意味のあるものであった。

これはネパールのチベット国境近くの景色

いきなり突撃してきた親戚に「まぁまぁよくきたね」ということになるはずもなく、一応連絡先をいただいて終わった。嫁いで数十年になるという女性は「ここも変わったのよ。末五郎さんはあの辺りでよく山菜を採っていたわ」と教えてくれる。一体どこが変わったのか、というほど見事な田園風景。
「自分は田舎育ちのせいか、田園といふものに限りない愛着を持っている」という爺さんの心もうなずける。
自分がここで生まれ育ってたら……もう少し違う人生だったか、田舎に嫌気がさしていたかも。せめてお盆の慣しはやりたかったなぁ。

改めて取り出したこの回想録を読み返すと、爺さんはすったもんだあったが、最終的に北陸巡業に出ていた当時の売れっ子俳優高勢実乗という俳優に再会したことから改めて俳優の道に再起を図ったらしい。爺さんの二度目の芸名「高見貫」と命名したのもこの方だ。昭和九年(1934)には京都からの移転で日活多摩川撮影所が開設され、爺さんも移住している。

名のある俳優人生では全くなかったけど、俳優人生で一番の出来事は黒澤明監督の「静かなる決闘」(1949)に労働者として出演したこと。

三船は軍事上がりの医者で、自分の役は貧しい労働者、腕の手術を受けている。腕を切断されると働けなくなり、家族が露頭に迷ふ何とか切断しないで直してくれと哀願する場面である。監督の指示で感情を出して演じてくれと云われれ、自分は彼の人物の心境になりテストで涙を出して泣いてしまった。これが監督の気に入り、いざ本番と云ふ時にもう涙がでない。・・・翌日ブッツケ本番うまくいった。監督も気に入ったか君よかったよと肩を叩いて褒めてくれた。

と熱演できたが、結局はほとんどカットされてしまってがっかりしたという。監督には詫びられたとか。

私は調布映画祭でこの映画をスクリーンで観た。カットされてわからないかと思ったけど、一番最後が手術台のシーンで、爺さんのセリフで終わっていた。涙の演技はもちろん、顔も写されていなかった笑。ただ、自分が存在する前の血縁者というのは何とも不思議。爺さんは兵役検査で落とされたらしいけど、もし戦争に行って死んでいたら自分もこの世にはいないのだ。

今この地球に存在する80億人の全ての人が、その人生に幸不幸、波乱があるとしても、自分の爺さんの爺さんの爺さんの……と生命の連鎖でここに存在している事実を思い起こさせてくれる、貴重な機会であった。
生きているっていうのは神秘だ。虫もミジンコも人間も繁殖しているのだ。

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