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ぼくものがたり(戦後80年にむけて) ②火事騒動・いちばん良かったころ

《 火事騒動 》 

 そんな恵まれた家だったけれど、僕が生まれて1、2か月の時、騒動が起きた。
 すぐ隣の家で火事があった。たしかコウジマさんてお宅だ。大きな炎が上がったけど、なんとか消防団が来て火を消してくれた。消防団といってもその頃は消防署なんてなかったので、ぜんぶ村の人がやっていた。火事になるとみんな急いで帰ってきて、火事場に飛んで行って自分たちで消火していた。
 消火し終わって、みなひと安心してお酒を飲んでゆっくりしていたら、今度はなんと、僕の家の屋根からパチパチと火の粉が上がってきた。「飛び火」ってやつだ。当時はどこの家も藁ぶき屋根だったので、藁は軽いから火の粉が飛びやすく、コウジマさんの火事の火の粉が気づかないうちに横山家の屋根に飛び火して、だいぶ時間が経ってから炎が出始めたんだ。
 気付いた人が「火事だー!火事だー!今度は横山さんのとこが火事だー!」って叫んだ。
 その時、家の中で赤ちゃんの僕とお袋は布団で横になっていた。その「横山さんとこが火事だー!」の叫び声に、お袋はものすごく驚いた。
 大慌てで飛び起きて、僕を抱いて夢中で外に逃げて、近くの借地人のところに行って「とにかくこの子を預かって下さい」と僕を預けてまた家に引き返した。

 幸いなことに、消防団の人たちのほとんどがまだ残ってお酒を飲んでいたから、その人たちが急いで屋根に上がって火を消してくれた。コウジマさんの家は全焼しちゃったけど、我が家はボヤ程度ですんだ。
 お袋はその後、「おかげで助かりました」とみんなにお酌をして回ったそうだけど、火事の知らせを聞いた時に、ものすごく驚いてめちゃくちゃ心臓がバクバクしたので、それが原因で心臓が悪くなってしまったらしい。あの火事以来、急に動悸がするようになってそれが持病になってしまったと言っていた。
 藁ぶき屋根はいちど火が付くとどんどん燃えちゃうってことが良くわかり、それから横川家は藁ぶき屋根をやめて瓦屋根に変えた。ここら辺の農家はみな藁ぶき屋根だったけど、それ以来、周りの家も瓦屋根に変えていった。

《 いちばん良かったころ 》

 祖父、鍬太郎は杉並町の町会議員として、えらい人のイメージではあったけど、庶民的で誰にでも対等に話をした。周りから見ても話しやすい人だった。
 阿佐ヶ谷の土木委員や道路整備、消防部長、家屋調査、税務調査など様々な世話役をしていた。困った人を見ると放っておけない性格で、必ず助けてあげたから、家にはひっきりなしに相談者がやってきていた。鍬太郎は嫌な顔みせずにいつでも出迎えていた。
 家では威張っていたけどね。髭生やして大きな声で怒鳴っていたけどさ。
 
 なので、鍬太郎が亡くなってお墓掃除をしていると、「鍬太郎さんのお墓ですね。鍬太郎さんにはうちはとてもお世話になって、恩人なんですよ。お線香をあげさせてください」って言う人がいっぱいたんだ。
 
 鍬太郎は僕の通っていた小学校(戦中は国民学校と言った)の初代PTA会長でもあった。
 杉並第七国民学校。通称、杉七では、会合があると必ず呼び出されて一番前に立って先生や保護者達の話を聞いていた。その杉七の設立時も、色んな世話をやいたんだ。だから、鍬太郎の葬式の時は杉七の先生が全員来てくれた。僕は小学校に入ったばかりだったんで、先生や小使いさんの顔を覚えたてだったから、線香をあげる行列の人々の周りを走り回ってよく見ていた。
そのあと学校に行って先生たちの顔を改めて見て、「あの先生もいた、この先生もいた、小使いさんまで来てくれていた」と、帰ってから親父に話した。親父も「そうかぁ」と感謝していた。
 
 昔からの土地を持つ古い家だから、周りにある土地や家を人に貸して、その地代を主な収入としてた。月末には地代を持ってきた人たちが玄関からずっと行列して、道にまで並んでいたんだ。
 だけど鍬太郎は、そのお金は貯金なんかにしないで、色々な公共事業に寄付をしていた。警察署や区役所、学校を建てる資金だったり、道路や橋の整備にあてられたり、学校の備品の寄付などもしていた。だから家には感謝状が何十枚もあって、色々な施設のオープン記念に招かれて表彰されていた。

 みんなから尊敬されて、鍬太郎もさらにその尊敬にこたえて、全てが良いように回っていた。

                     つづく
                     次回、《 始まった戦争 》



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