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ぼくものがたり(戦後80年にむけて)⑪鹿教湯温泉・シラミ

《 鹿教湯温泉 》 

疎開先の鹿教湯温泉は「かけゆ」と読む。昔、傷ついた鹿が温泉に入って元気になっているのを村人が発見して、それから温泉地として栄えた。まさに鹿に教えてもらった湯で、鹿教湯温泉。
 四方を山に囲まれていて、あちこちに川が流れている。僕が行った五月は気候も良く、緑がきれいで爽やかで、これが戦争の疎開でなかったら最高の場所だったんだけど。
 バス通りを曲がって、川へと下る坂道の左右に温泉旅館が10軒ほど集まっていた。そこの旅館一つが僕の宿舎だった。中風(ちゅうぶ)って言って脳梗塞の後遺症などに効く温泉と言われていて、全国から旅行客が集まる賑やかな保養地だったんだ。

  温泉の温度はそんなに高くなくて、すごくいいお湯だった。そう考えると、僕たちはお風呂に入れるだけ恵まれていた。普通の民家やお寺が宿舎だった子どもたちは、たらいで体を拭くくらいでお風呂に入れなかったから。
 旅館からすぐのところに文殊堂ってお寺があって、そこで毎日朝の集会と体操があって、僕らの遊び場にもなっていた。

文殊堂
校庭替わりだった境内
文殊堂へつづく五台橋
五台橋からみた川

 村の人々はとても優しかった。ある日、学校の帰り道に畑仕事をしている夫婦を一人で見ていた。親父と同じことをしていたので、親父がそこにいるようで離れられなかった。お袋と親父に会いたくて会いたくてしょうがない日々だったから。すると、その夫婦が近寄ってきて、
「坊や、お腹空いているだろう」って、
 蒸かしたサツマイモをくれた。最高の御馳走だった。宿舎ではご飯と言っても、溶けてしまったサツマイモ、大豆、何かの根っこ、アワ、ふすま、粒の小麦など色々入っていて、量がほんの少しだったから。
「明日もおいで」って言われて、何度かサツマイモをもらった。 
 その夫婦に本当に感謝してる。
 それがあってなんとか栄養を取れていた。自分たちで食べるのも精いっぱいだったはずなのに。あのサツマイモがなかったら僕は早くに栄養失調で死んでいたかもしれない。
 戦後になってサツマイモが嫌いになる人も多かった。戦争中にサツマイモばかり食べていたからと言う理由で。
 僕は鹿教湯温泉でもらったサツマイモの味が忘れられなくて、今でもサツマイモが大好き。食べるたびに、あの夫婦と平和の大切さを思い出してる。
 お礼をしたかったなと、今でも思ってる。

学校へ行く道の風景

《 シラミ 》

 疎開生活のなかで困ったことの一つは、シラミ。これが大発生してて。とにかく体中にシラミがいた。3ミリくらいの白い虫で、衣類のゴムのところや、髪の毛にたくさんいた。見ると動いてるのがわかるからすんげぇ気持ち悪い。それが血をすって、吸われたところは痒くて仕方ないし、血を吸ったシラミは赤くぷっくり5倍くらいに膨らんで、さらに気持ち悪かった。それを爪で潰すと、プチンと割れて血が飛び散った。
 
 寮母さんたちはシラミ駆除のため、女子のおかっぱ頭に駆除用の粉をかけたり、みんなの服や下着を大きな釜で煮たりした。男子のも女子のもみんなの服をいっしょくたに釜にいれちゃうので、色が全部落ちて。赤も白も青も、どれも変色してしまった。女の子は気に入った服を持ってきている子が多かったので、ショックだったみたいだ。でも、残念ながらいっこうにシラミは減らなかった。
 疎開先の川っぷちの公共風呂は、出入り口は男女で別れているけれど、お風呂のお湯は一緒。真ん中に水面スレスレに板があって、それで男女の風呂を分けていただけだから、潜れば女湯に行けてしまう作りだった。なので、女子が頭を洗うとそのシラミがいっぱい流れてきて、男子はそれをよけながら入っていた。

 栄養が極端に取れない状況で、こんなものすごい数のシラミが体の血を吸い続けていたんだ。ますます僕の体は衰弱してきてしまった。

                             つづく
                       次回、中岡さんの警告

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