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「役に立たない自分はダメ」からの脱却(まだ途中)


私はとにかく人から「役に立たない」と思われるのが怖かった。怖かったという過去形ではなくて、今でも怖い。

「あなたの講座には価値がないと思った」
「あなたが書いたコピーなんて価値がない」
「こんな本、べつに役に立たない」

そんなことを言われるのが怖い。

頭ではわかっている。もし、そんなことを言われたとしても、それはその人の主観であって、世の中の100%の人に認められるなんて無理だということもわかっている。それでも怖いのだ。

役に立たない自分はダメなんじゃないか。ずっとそう思って生きてきた気がする。たぶん、子供の頃からずっと。


何者かにならないといけない、と強烈に感じていた


ひとつ上の姉がいる。姉は小学生の頃から友達が多く、とにかく男子にモテていた。学校の中で一番人気の男子と交換日記をしていた。何だかいつも周りに人がいた。

似ても似つかない自分。パッチリした二重の姉。はれぼったい一重の自分。中学に入学してすぐの頃、私のクラスに二年生の男子が来て、窓から私を見つけていった。「あれが○○の妹? うそやん」

お姉ちゃんのように人に好かれない自分。私は、何か違うところで勝負しないといけない。どうせ可愛くないんだから。何か違うことがしたい。外見とか性格とかそういうことじゃなくて、人から認められたい。すごいと言われたい。何者かになりたい。


「ありのままのあなたでいいよ」がどうしても苦しかった


「ありの〜ままの〜」という歌が流行ったのは、2013年。その頃から「ありのままブーム」とも呼べるような、ありのままの自分を認めよう!系の主張をよく見るようになった。

ありのままのあなたでいいよ、という言葉を聞くのがしんどかった。

なんでやねん。そんなわけないやろ。

ありのままでいい、なんて言われる人は、可愛くて華やかで、そこにいるだけでチヤホヤされるような人じゃん。そこに立っているだけで人が集まってくるキャンペーンガールみたいな人とか、ニッコリしているだけで価値がある美人受付嬢とかじゃん。

ありのままで何もしなくていいのは、もともと「持っている」人だけ。そうじゃない側は、努力するしかないじゃん。

と思っていた。今から思えば相当イタイ発想だが、「だから頑張っている自分」を否定したくなかったんだろうと思う。「ありのままでは誰も認めてくれないから頑張ってきた自分」を大事にしたかったのだ。


「自分を許す」って、私なにか悪い事をしていたの?


アナ雪ブームの後も残り続けた「ありのまま」という言葉と、同じぐらい苦手だったのが「自分を許そう」という言葉だった。

あれ? 許さなきゃいけないぐらい、私、悪いことしていたんだっけ?

きっとこの言葉は、「罪悪感を持たなくていい」という意味の優しい言葉なんだと思う。だけど、私にとっては、「許さなきゃいけないぐらいダメなことをしてきた自分を許してあげようね」という無理ゲーに聞こえた。

自分で自分を許すも何も、そんな悪いことはしていない。自分で自分のことをいいと思ったとしても、そう思っているのは自分だけで、周りから、あいつはダメだと思われていたら、一緒じゃね? と思っていた。

骨の髄から「役に立たなきゃダメ」に囚われていたんだと思う。


「お前の表現なんかいらない」と言われた


話が前後するが、私がコピーライターになったのは、2000年。大学4年生の時だ。

中学の時に、担任だった美術の先生から「お前は言葉に力があるから、コピーライターになったらいい」と言われたのを間に受けて、中学の卒業文集には「将来の夢:コピーライターになってから小説家になり大金持ちになる」と書いていた。

大学で広告のゼミに入り、就活では、広告代理店は全滅だったが、4年制の夏にゼミの先生のコネで、ある制作会社に就職できることが決まった。その制作会社から出向という形で、某広告代理店に席をもらうことになった。前任者が、夏に別会社に移動されることが決まっていたので、まだ大学生だった私が、いきなり、有名広告代理店にコピーライターとして、席を一つもらって、仕事をすることになったのだった。

コピーライターは、「言葉で表現する人」だと思っていた。短い言葉で、人の心を掴んで、自分の思いを伝える人。

もともと、絵や漫画を描いたり、小説みたいなものを書いたりするのが好きだった私は、「表現者」になりたかった。ポエムみたいなものもいっぱい書きためていた。

コピーライターになって、すぐ、頭がかち割られることがあった。直属の上司、コピーライターの大先輩から言われたこと。「お前の表現はいらない」。

コピーライティングは、お前の表現手段ではない。

「自分の表現をして売れるのは、アーティスト。自分の表現がしたいなら、小説家かなんかになれ」

ショックだった。その時の私は全くわかっていなかった。

たとえば、アーティストとデザイナーの違い。小説家とコピーライターの違い。

前者は自分の表現をして、それに価値を感じてくれる人がお金を払ってくれるもの。後者は、マーケット(市場)が求めているものを作る人。

ものづくりは何でもそうだろう。プロダクト(自分が作りたいもの)から発想するか、マーケット(人が欲しいもの)から発想するか。


それでも、マーケットから発想することの大事さを


私の表現なんていらないんだ、と思い知らされたことはショックだった。でも、コピーライターを20年以上やってきて身に付いたのは、「相手が欲しいものから発想する」力だ。

自分がやりたいこと。
相手がやって欲しいこと。

仕事だって、人生だって、このバランスだろうと思う。

『マーケターのように生きろ』(井上大輔著/東洋経済新報社)という本を読んだが、これはまさに、人生をマーケットから考えるという発想だった。

「何者かにならないといけない」と思って、でも「自分には何もない」と悩むならば、人に求められていることからやっていくのも、一つの方法だと思う。

アーティスト・表現者である人は、マーケットなんて気にせずに、やりたいことをやれば売れるのかもしれない。でも、誰も彼もがそうではないし、そうならなきゃいけないわけでもない。

私は、何者かになりたい、お姉ちゃん(のように可愛くて、いるだけで愛される人)とは違う生き方をしなきゃいけない、個性的でありたい、と思って生きてきた。

自分は、ただそこにいるだけでいいよと言われるようなタイプではないから、仕事で力をつけて、実力が認められ、すごいね、仕事できるよね、あなたに任せたら成功したよ、と言われるような人になりたかったのだ。

私は、「表現者になりたい」「唯一無二のアーティストになりたい」「すごいと言われたい」「突き抜けたい」という思いを抱えている時は、なかなかうまくいかなかったけど、
お前の表現なんかいらない、とガツンとやられたことをきっかけに、20年間で身につけてきた「マーケット思想」によって救われたんだと思う。

人にはそれぞれ、タイプがある。タイプというと薄っぺらいけど、「どうがんばっても、こうしかできないんだよね〜」「なんか知らんけど、こうなっちゃうだよね〜」みたいな性癖とも呼べるようなもの。そして「こういう状況・シチュエーションだと自分を全部使えている!」という感じるようなこと。

私の場合は、表現したいこと➕人が求めていること がバランスよく配合されている時が、いちばん、自分の力がフルで出てるぜ!命燃やしてるぜ!みたいな感覚になれるんだと思う。


小さな成功体験を積み重ねていくしかない


相変わらず「何の役にも立てない自分が怖い」から抜け出せたとはいえないが、それでもだいぶん楽になってきたのは、

6ヶ月講座を通してガッツリ受講生さんたちと濃密に関わるようになってからだと思う。「この講座は役に立つ」「この講座でビジネスの成果が出ました!」と思われたくて、何とか足掻いているのだけれど、どうしてもボロも出るし、濃密に関わるからこそ、自分の人間性みたいなものがはみ出してしまう。

そんな時に、かかわっている受講生さんたちから言われる言葉が、私の栄養になっている。

昨日も、メッセージをもらった。

さわらぎさんの不器用だけど、まっすぐなところが大好きです。全く書けないけど、これからも宜しくお願いします。

4月から講座を動画受講してくれているメンバーさんだ。以前の私なら「講座を2ヶ月も受けてもらっているのに、全く書けない、なんて言われてる!どうしよう(パニック)」となっていた。

でも今は、この方は、今の自分を「全く書けない」と思っているんだな。学び始めって、今までのやり方を否定することになるから、しんどくなるのは当たり前だな。あと4ヶ月で、「自分は書けるんだ」と思ってもらえたらいいな。と思えるようになった。

この方が「全く書けない」と言っているのは私のせいだ!講師としての私がダメだからだ、講座の内容に問題があるのか? と自分を責めることが減った。減っただけでなくなりはしない。無くなったら無くなったで怖いのだ。

自分を見つめ直すこと、自分だけのせいにしないこと。その辺りもバランスだと思う。

そして、講師のくせして、受講生さんたちに「不器用」だとバレバレなことも、以前の私なら「それ、講師としてどうなのよ」と落ち込んでいた。でも、少しずつ「好きって言われた」「講座の内容うんぬんよりも、私でいることで、講座が好きになったもらえたのかな」と受け取れるようになった。

人間らしくて、私はそこに惹かれるし、憧れます。

受講生さんたちから、日々もらう言葉が、私の小さな成功体験だ。


そして過程を発信していく

「役に立たない自分はダメ」という発想から、私はまだ抜け出せてはいない。でも、それでいいと思っている。だって、「何の役にも立たない自分でいい」と完全に肯定してしまったら、私の、エネルギー源までなくなる気がするのだ。

「役に立つ人だと思われたい」「すごい人だと言われたい」「能力や実力で評価されたい」「センスがいいと憧れられたい」みたいなことをずっと思っていたから、ここまでやってこれた。

「何もしなくても、いてくれるだけで、大好き」と、言われるような人になれ、と言われても、私はやっぱり、うぅぅぅ(それを私に求めないでくれ)と思ってしまう。それ、お姉ちゃんのポジションじゃん、と43歳になってもまだ、10歳の頃に感じていたことを引きずっているのだ。あほか、と思うが、そうなのだ。

まぁ、いいかな、と思う。あほだけど、ひきづっていて何になんねん、と思うけど、それでいいのかなと思う。


「表現者」にも「マーケット発想の人」にも役立つ、自分の言葉で書くための本。

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