『主戦場』という「意図的な切り取り」合戦でのミキ・デザキ監督のあっぱれな戦いっぷり。
元より、編集とは「意図的に切り取る」作業なので、『主戦場』を観た歴史修正主義者たちが「意図的に切り取られた」と反発しても特に驚きはありません。歴史修正主義者たちは会見を開き「ミキ・デザキ監督に騙された」と述べているようですが、映画を観た僕には説得力のない主張に響きます。
なぜなら『主戦場』は彼ら彼女らには「意図的な切り取り」へ反発する資格がないことを証明する映画だからです。歴史修正主義者たちが、元慰安婦の方の証言や史料から、都合のいい部分だけを「意図的に切り取ってきた」事実を、『主戦場』は原典の資料や歴史学者の分析を踏まえながら、丁寧に浮き彫りにしていきます。
ミキ・デザキ監督か、歴史修正主義者たちか、どちらの「意図的な切り取り」に正当性があるか、映画『主戦場』はその戦いでもあります。つくづく見事な映画タイトルです。監督は、映画が公開されれば、歴史修正主義者たちや、その背後の権力(安倍政権や日本会議)から必ずや「攻撃」を受けるはず、と考えたでしょう。その時にきちんと「応戦」できるように、映画を論点を明確にした構成にしたうえで、インタビューを受けた人々の肉声を中心に丁寧に編集したのではないでしょうか。歴史修正主義者たちも、自ら話した内容をあとから「あれは嘘を話したんだよ」とは流石に言えないでしょうから。監督の戦い方は「インタビュー撮ったもん勝ちだよね。映画で晒しちゃえ」という炎上狙いではなく、「インタビューの矛盾は、対応する他のインタビューで指摘する」という相手の攻撃にひとつひとつ「歩」を置いて防衛していくような用意周到で戦略的な戦い方だったのです。
それにしても!ミキ・デザキ監督の、インタビュー取材を仕込む能力、人間力には脱帽です。慰安婦問題に関わる「論客たち」の表情と声を、ここまで多く、そして生々しくずらりと一挙に揃えることができた映画は、おそらく最初で最後でしょう。権力との馴れ合いがあり、組織防衛の論理が働く大手マスコミには決して作れない奇跡の作品です。その希少性という意味だけでも、必見です。アジアの中の日本、という視点を持って生きていくすべての日本人が絶対に観るべきだと思います。と言うまでもなく、渋谷のシアターは老若男女でほぼ満席でしたが。
ミキ・デザキ監督がほぼ1人で「主戦場」に打って出たのに対して、半人前報道記者の僕は日々、原稿という名で「観戦日誌」ばかり書いております。目の前に戦うべき「巨悪」があるのに戦わない「怠惰な腰抜け」だと思います。ただ、大手メディアに属する報道記者の肩書きがありながら、ここで反権力の意見を発信していくこと、小さく戦っていくことには、少しは意味があると思っています。悩み、書き、公開し、叩かれ、死なない程度に鍛えられる、権力と戦う勇気を積み上げていく、そういう修練の場だと考えています。遅かれ早かれ、僕も戦わずにはいられない局面がきっと訪れるはずですから。