私の芸術運動64運命と感じる感性

昨日、新作?と言いますか、過去に描き上げる事なく眠りについた絵画をふと思い出しキャンバスを漁り見つけ出し、加筆修正をはじめました、その絵画は去年に行った佐渡島の旅行で私と彼女をで迎えてくれた両津港の町の風景画です、東京から向かった私から見ればもうすっかり冬であり、家々も寒さにギシギシと軋んでいるように見えました

木造の家が目立ち、周りには廃業した旅館などがちらほらとあり、寂しさが込み上げてくる思いで私は町を必死に目に焼き付けた覚えがあります

絵を描いている途中彼女が覗き込んで懐かしそうにしていました、隣に座ってもらって旅行時に撮影したデータを見返しながら私は当時に没入して絵を描いていたのです

すると突然に彼女が写真のデータをみて言うのです

「この写真ちょうど一年前だ」と

写真の日付を見ると12月2日とありまして、確かにちょうど一年なのでした、一年前に旅行に行き、帰宅して絵を描き始め、途中で描けなくなりやめた絵を改めて12月2日に加筆修正しようという気になった事に何か意味を感じています、大袈裟かもしれませんが運命の様な気さえします、そして絵を描いている私には当時の軋む様な寂しさが心に立ち昇って涙ぐんでしまいました、彼女に涙しているところを見られて何かを尋ねられても私にも理由がわからなかったのでバレない様にトイレに入って少し気分を落ち着けました。

佐渡島は私の地元でも無ければ家系的に知っている限りでは縁もゆかりも無い土地です

ほんの思いつきで彼女と旅立ち、なんの計画も持たないままに風景を見てまわりました、その島で得たインスピレーションを的に何枚かの絵画を私は仕上げています

考えれば考えるほどに運命的であり、私は自分でつくづく画家としての資質を備えた人間だと自負しました

加筆修正している絵画はというと、なんの変哲もない街角の風景であり、社会に訴える様な強いメッセージを孕んだ様なアバンギャルドな芸術では無いのですが、今までこのブログでも自分の芸術について色々と語ってきた様に、私の芸術とはごくごくありふれたこの世界に確かにある風景であり、見た人の心の中にだけ残っている様な、幻の様なものです

その風景が無くなったとしても、見た事がない人からすればそれはなかったも同然の様な、しかしそこで人は確かに生き、今もまだそこにあるかもしれません、しもう無いかもしれません

私は自分の描いた絵画達が「見てくれてありがとう、聴いてくれてありがとう、描いてくれてありがとう」と私に訴えてくる様な錯覚を覚えます、それと同時に私も「出会わせてくれてありがとう、描かさせてくれてありがとう」と心中で唱えるのです。

私は画家として全くの無名であり、貧乏であり、この先いつまで絵を描き続けられるのか?見当もつきませんが、私のこの芸術運動は後世にとってもかなり重要な観点からくる芸術だと信じています

今すぐに換金できるほど安く無いのです

しかし、びっくりするくらいにシンプルなインスピレーションからの芸術であり、誰もが知らないうちに消えて行ってしまう様な、儚く美しいものを私は描いていると思っています。

自己満と言われて仕舞えばそれまでですが、私はもちろんそうですが、絵になった風景は今でも私の心に訴え続け、心を究極の愛で包んでくれている様な気がしています

私は芸術によって生かされていると思わざるを得ないのです。

まだ描き途中ですが経過として載せておきます
「寒村」という絵です。

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