私の芸術運動135芸術の夜明け

心にいつもお天道様を持っていきたいと常々思います。そうすれば自分が自分で思う嫌な人間には決してなれないと思います。

そうすれば、他人のあれこれも、日常のあれこれも、自分の行いに後ろめたい事がなければ堂々とお天道様の元を歩いて行けるわけです。

私の中には芸術というお天道様がいます。

私は自分の芸術を雲に隠すわけにはゆきませんし、自分の欲望のために自分の芸術を無くす様なことなど当然の様に、むしろ相手の方から避けていってくれる様になるんでは無いか?という気分で生きています。

それもこれもこれまでの人生があったからです。世間の常識に完全に則って生きているとどこかの誰かはうんと辛い思いをするでしょう、そしてその常識を隠れ蓑に逃げ通す事だってできてしまうかもしれません。

しかし、私の中の芸術がそれを許さない!という心を持って生きてゆきたいのです。

矢沢永吉語録の中に

「俺はいいけど、矢沢はどうかな?」

と言うものがあります。笑
これはとても大切な事だなと私は思います。

今の自分はいいけれど、未来の自分から見ればアホらしい事だってたくさんあるでしょう

私だってできた人間じゃありませんが、自分なりに自分の事、、つまり、行動や言動や心持を意識します、世間の常識は最低ラインの不完全なしかも極々狭い範囲でのみ効力のあるものです、時として疑うべき対象だったりするのです。

案外、そんな最低ラインの常識のすぐ裏側にとてつもないモンスターが住んでいたりするかもしれません、かろうじて人間の形をしているだけの者も、常識の外に仏の様な者がいる事だってあります、つまり人間の本当の良し悪しを図る力らは、社会の常識には無いとも言えます。

そういう安易なラインはこの世には無いと私は感じます、辛い環境で凄惨な事件を起こした人が、その後自分の行いを悔いて、そのために自分にできる事を必死に行い生きていった人と、常識のラインは割らずとも人に辛い思いをぶつけ続けてる人もいます、その思いに触れた人が生涯それをたまに思い出し心がキュッと苦しくなる人がいたかも知れません、しかし当の本人はそれを知らずにそういう人をたくさん増やし続けているのかも。

彼女がよく言っています、街を歩いていると通りで待ち構えてこちらをジロジロ舐める様に見て笑顔でお姉さん遊び行かない?なんてぶっ壊れたテンションで近づいて来て、こっちはいつもびっくりして怖い思いをしている、あいつらは女を獲物として見て、狩りを楽しんでいる、動物みたいな奴らだと。笑

女性軽視も、トランスジェンダーも、それを知らない人がいつも常識だと振りかざすものに辛い思いをしているのが問題でもあります。

常識は誰かを守ったり、傷つけたり、隠したり、晒されたり、常に誰かにとって都合が良く、誰かにとっては都合の悪い苦しいものでしょう。

もっと自由に人間が生きていくために、私は芸術を持って生きていこうと決めています。

芸術には、果たしてどれほどの力があるのだろうか?

強制力は無く、ただ無限の自由があり、そこに価値をつける基準すらわからないほどのものだと私は思います、ゴッホの絵画が何百億と聞きますが、実際これほどに影響を与え続けるゴッホという人生に何百億という価値が果たして正しい事なのか?私はたまに考えます

お金という価値がつかなければ、誰も羨望の眼差しで見ないし、保管もされないし、見られることも無いのか?芸術で何かを変えてゆきたいと考えて打ち込む芸術家達、私もその一人です。

そんな夢とも現実ともつかない精神的な取り組みが、今後この世界に心から必要とされる時がくる事を私は夢想します!!

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