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私の大学院時代の修士論文「アメリカのネオコンについての研究」

私の大学院時代の修士論文をご紹介させていただきます。テーマはアメリカ外交史におけるネオコンサヴァティブの歴史的変遷。興味あればご一読ください。


ジーン・カークパトリックとレーガン政権

―外交政策におけるネオ・コンサヴァティズムの萌芽として―


目次

 

はじめに


第1章 カークパトリックとカーター外交


1.    カークパトリックの政治的生い立ち

2.    カーター外交への批判

3.    2つの革命とカークパトリック


第2章 レーガン政権におけるカークパトリック・ドクトリン


1.    カークパトリック・ドクトリンの実践

2.    レーガン政権期の諸問題とカークパトリック

3.    国連大使としてのカークパトリック


第3章 レーガン政権中期から冷戦後における変化


1.    カークパトリック・ドクトリンの放棄とレーガン人権外交

2.    東欧革命・冷戦崩壊にみるカークパトリック・ドクトリンの破綻

3.    冷戦終結以後におけるカークパトリック

 

結び

 

 

 

 

 

 

 

はじめに


 2001年の9.11テロ事件及び2003年イラク戦争をきっかけに、「ネオコン」という言葉がメディアをにぎわすようになった。「ネオコン」を表題に含んだ本も多く出版されている。[1]その多くはジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)政権と「ネオコン」を扱った言説である。日本においても、この言葉はマスメディアに満ち溢れた。「ネオコン」とはネオ・コンサヴァティブ(Neoconservative)の略であり、日本語では新保守主義者と訳されるものである。

 しかしながら、「ネオコン」は9.11テロ事件やイラク戦争を境にして、唐突に出現したものではない。冷戦期においても彼らの活動は活発であったのである。冷戦期に「ネオコン」が外交政策に直接関与した、つまり政権内部に「ネオコン」のメンバーが入りこんだ時代として、レーガン政権期が挙げられる。1980年2月、「ネオコン」が徐々にレーガン陣営に入り始めた。その1人がジーン・カークパトリック(Jeane J. Kirkpatrick)である。[2]彼女はレーガンの選挙戦の最中から、外交政策アドバイザーとして関与し、政権発足後は閣僚クラスの待遇を受ける国連大使(United States Ambassador to the United Nations)として入閣した。

レーガン政権で重要な役割を果たしていたにもかかわらず、カークパトリックは日本では注目されることが少ない人物である。彼女の著書で邦訳はほとんど出されていない。編集した本が1冊(ジーン・J・カークパトリック編、小穴毅訳『共産主義の世界戦略』自由アジア社、1965年)あるのみである。それも彼女がレーガン政権において活動した1980年代やそれ以降ではなく、1960年代半ばに出版されたものであるため、政権に関与した彼女の姿は見えてこない。日本において語られる以上に、彼女がレーガン政権の外交政策において重要な役割を果たしてきたということを確認することが、本研究の目的である。


本稿ではネオ・コンサバティブスの歴史的変遷を、カークパトリックを中心に辿っていくことにしたい。第1章で扱うテーマは以下のとおりである。まず、彼女の幼少期から、大学・大学院を経て研究者になるまで、そして、民主党の党員として熱心に政治活動に関与していくまでを振り返る。彼女の思想形成過程を簡単に概観するものである。ここでは後に主張する政策理念の萌芽というべきものを見て取ることができる。次に、民主党員として活動する中で、彼女が1970年代後半のジミー・カーター(Jimmy Carter)政権に対して行う辛辣な批判を取り扱う。彼女は1979年に雑誌『コメンタリー』に発表した論文「独裁と二重基準(Dictatorships and Double Standards)」において、カーター外交がもたらした負の遺産を論じるのである。そして最後に、前出の論文の中で主張されたカーターの外交政策への批判、とりわけニカラグアとイランへの対応をめぐるものを検討したい。両国ともカーター政権の時代に革命を経験しており、アメリカとも深く関わりを持っていた。

 第2章で扱うテーマは以下のとおりである。まず、レーガン政権に採用されたカークパトリックの政策理念が、どのようなものであったかを整理する。そして、その政策理念がレーガン政権によって「援用」されていった経緯を確認したい。次に、レーガン政権時代に発生したフォークランド紛争、大韓航空機撃墜事件、アメリカのグレナダ侵攻に対して彼女がみせた対応に焦点を当てる。こうした中で発せられた提言や主張の中にも、一貫した彼女の理念や意思が数多く存在しているからである。そして、最後に国連大使としての彼女の姿を概観する。彼女の国連に対する認識、彼女が国連をどのように「利用」したのかについて確認したい。そして、彼女の国連に対する問題意識を整理する。

 第3章で扱うテーマは以下のとおりである。まず、レーガン政権中期に起こった外交政策の変化を取り上げる。それはカークパトリックの意向とは逆の方向に向かう変化だった。その後、レーガンがカークパトリックの政策理念を放棄するまでを扱う。次に論じられるのは、冷戦崩壊後の世界である。彼女が東欧革命とソ連崩壊後の世界をどのように認識し、今後のアメリカはどうあるべきだと考えていたのかということについて概括する。最後にカークパトリックの政策理念が、形を変えて再び登場してきたということと、それがG・W・ブッシュ政権期の「ネオコン」とどのような関係にあったかを振り返る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第1章 カークパトリックとカーター外交

 

1.    カークパトリックの政治的生い立ち

 

(1) 幼少期から大学まで

 

 ジーン・ジョーダン(Jeane Jordan:後のジーン・J・カークパトリック)は1926年に、オクラホマ州のダンカン(Duncan)にてウェルチャー・F・ジョーダン(Welcher F. Jordan)とレオナ・カイル・ジョーダン(Leona Kile Jordan)の間に生まれた。父親は石油商をしており、給料も浮き沈みが激しかった。後にジーンの法務顧問を務めることになるアラン・ガーソン(Allan Gerson)によれば、そういった環境の中でこそ、彼女には独立心が芽生えていったのであった。[3]彼女に勉学とその後の人生におけるキャリアを身につけるよう激励したのは、母親のレオナであった。[4]ジーンが12歳のときに南イリノイに引っ越すまで、ジョーダン一家はこのオクラホマ州ダンカンで暮らすことになる。

 ジョーダン家は政治的にも非常に活動的な家庭であった[5]。ジーンの両親は政治を非常に真剣に捉えており、娘には市民の義務について教え込んでいた。[6]ジーンは後に「私の家庭はいつでも政治的であった」[7]と振り返っている。また、ジョーダン家は祖父母、両親、叔父、叔母の全員が民主党員であった。ジョーダン家の家系は南部のバプティストであり、彼女はプロテスタントの家庭で育てられた。[8]

 ジーンに大きな影響を与えたものとして、宗教よりも大きなものがあった。それは、オクラホマという地域に特有の文化であった。彼女が若いころを過ごしたオクラホマは、ポスト・フロンティア(post frontier)の地域であり、彼女が知る周囲の人々は楽観的でポジティブな精神を持ち合わせ、自信に満ち溢れていた。また、いわゆる、「やればできる精神(can-do spirit)」というものがあり、個人の責任(personal responsibility)を重視する傾向があった。[9]

 しかし、それは個人主義とはいっても、国家の存在を否定(antistatist)したり、社会ダーウィニズムへとつながったりするような個人主義ではなかった。彼女は国家を否定するような感情を持ったことはなかったとしており、また、彼女自身は「福祉国家の信念を受け継いでいた」と述べている。ジーンの家族は、オクラホマのジャクソン主義的な社会文化から、1930年代のニューディールへと移行することに何ら苦労はしておらず、熱心な民主党支持者であり続けた。[10]ここでいうジャクソン主義とは、アメリカの物質的な安全と繁栄を最重視し、そのためなら実力の行使を辞さない立場で、国威の高揚にも熱心である考え方を指す。第7代大統領のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)に由来するが、彼は正規の教育を受けず、叩き上げの軍人として米英戦争で英雄となり、大統領まで登りつめた人物であった。[11]

 ジーンは第二次世界大戦の終盤から戦後に大学生活を送ることになる。彼女は1946年にミズーリ州のスティーブンズ・カレッジ(Stephens College)にて2年間の教育課程を終え、準学士(A.A.)を取得する。その後、ニューヨーク市にあるバーナード・カレッジ(Barnard College)に入学し、2年後の1948年に学士号(B.A.)を取得する。バーナード・カレッジでは、リベラルな政治思想家であるロバート・マックアイバーに学び、スターリンのソ連やナチス・ヒットラーのドイツから逃げてきた移民の姿をみて、「自由とは何か」という問題を深く考えることになる。[12]

 ジーンがバーナード・カレッジに在籍中の1948年、ヘンリー・ウォレス(Henry Wallace)がアメリカ進歩党から大統領選挙に出馬した。当時のバーナード・カレッジには、それぞれ共和党のトーマス・デューイ(Thomas E. Dewey)、民主党のハリー・トルーマンを応援する集団がいたが、中にはヘンリー・ウォレスを支持する「進歩的な」民主党員も存在した。[13]歴史家のデービッド・ホーヴェラー(J. David Hoeveler)によれば、ジーンは「ウォレスを信奉する人々に流行していた極左改革主義に不安を感じていた」し、ハリー・トルーマンこそが「本物」であると信じていた。[14]ジーンのみならず、後にネオコンとして知られるようになる人々は民主主義を求めて対ソ強政策を展開したトルーマンのような民主党候補を求めていた。[15]

 その後、ジーンはコロンビア大学大学院にて学ぶ。彼女はフランツ・ノイマン(Franz Neumann)教授の他、戦争で荒廃したヨーロッパから亡命してきた学者らに学んだ。[16]彼女が学んだその学者らは、非ナチ化(de-Nazification)に熱心であり、ドイツの民主化、さらに全体主義の痕跡を完全になくすことに積極的であった。この当時、ヒトラーによるユダヤ人虐殺の真相が、徐々に明らかになっていた。当時の学者らは、ヒトラーによる計画についての膨大な資料を目の当たりにしていたし、スターリニズムの残虐性にも焦点が当てられ始めていた。ガーソンによれば、ジーンは当時のことを「すべてが新鮮であった」とし、「そのような(迫害される)環境では育つこともできなかっただろうし、正確な政治的意識を構築することもできなかったであろう」と述べていた。[17]このような歴史の変革期とも言える時代に、大学院での研究生活を送った彼女は、1950年に政治学の修士号を取得した。[18]修士論文のテーマは、イギリスのファシスト指導者オズワルド・モズリー(Oswald Mosley)であった。[19]「全体主義」はジーンが後に扱うテーマであるが、彼女が出版されたばかりのハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の『全体主義の起源』に出会ったのもこの頃であった。[20]

 その後、ジーンは1950年から1951年まで、メリーランド州のジョンズ・ホプキンス大学(Johns Hopkins University)で学んだ。[21]彼女がコロンビア大学にて博士号を取得するのは、修士号を取得してから17年後のことであるが、その間にも様々な研究活動に携わることになる。

 

(2)研究者として

 

 ジョンズ・ホプキンス大学での研究生活の傍ら、ジーンは1950年から1952年まで国務省で研究・分析を担当する職務にあたる。[22]ガーソンの記述によれば、彼女は情報調査局(Intelligence and Research Bureau)に勤務し、[23]東欧諸国からの難民の報告を分析していた。[24]当時の国務省情報調査局では元政治学者で、彼女より15歳年上であるエブロン・カークパトリック(Evron Kirkpatrick)が局長を務めていた。エブロン・カークパトリックは国務省退官後、長年にわたってアメリカ政治学会(American Political Science Association)の専務理事(executive director)を務めることになる人物でもあった。[25]

 1952年から1956年まで、ジーンはいくつもの大学や研究機関を転々とすることになる。まず、パリ大学の政治科学研究所(Institut de Science Politique)にて、1952年から1953年まで1年間の研究生活を送る。1953年から1954年までは、ガヴァメンタル・アフェアーズ・インスティチュート(Governmental Affairs Institute)において局長の補佐役を務め、その後、1954年から1956年まではジョージワシントン大学にてリサーチ・アソシエイト(research associate)を務めた。[26]

 1955年、ジーンは前出のエブロン・カークパトリックと結婚し、3人の男の子をもうける。彼女は結婚後の十数年、家庭の主婦として3人の子供を育てていたが、そんな中でも時間を見つけては博士論文を書き、いくつかの研究機関を渡り歩いた後、大学での講義を受け持つようになるのであった。[27]

 ジーン・カークパトリック(以下、断りがない限り「カークパトリック」と表記した場合は、「ジーン・カークパトリック」を指す。)は1956年から1957年まで、ファンド・フォー・ザ・リパブリック(Fund for the Republic)にてリサーチ・アソシエイトを務め、1958年から1959年までアメリカ学術会議協議会(American Council of Learned Societies)にて同じくリサーチ・アソシエイトを務めた後、1962年にワシントンD.C.のトリニティ・カレッジで政治学の助教授となる。[28]

 1963年、カークパトリックは共産主義の戦術について扱った書物『欺きの戦略:世界規模の共産主義戦術における研究』を発表する。この本は彼女が編集したもので、イントロダクションを執筆している。彼女によれば、共産主義者は富裕層と貧困層、「持てる者」と「持たざる者」、労働者と雇用者、被抑圧者と抑圧者の階級闘争を提唱しているため、非民主的な他の体制よりもいくらか民主的であり、先進的であるという指摘があるが、これは間違いである。そして、「共産主義は非道徳的な手段で権力を手に入れたり、抑圧したりする他のエリートたち、すなわち少数派の独裁国家よりもいくらか優れているということに執着する概念」があるということを述べているが、彼女はそれに同調はしていない。[29]ここでの「他のエリートたち」とは、つまり「伝統的な権威主義体制の国家」のことであった。彼女は共産主義体制が、伝統的権威主義体制よりも抑圧的だということを指摘している。その理由は、共産主義体制が社会、文化、人格に大革命をもたらすことを意図しているからだという。[30]ここでの彼女の主張は、後にカーター政権を批判するときに用いるレトリックに通じるものがある。というのも、後に登場する論文において彼女は、カーターおよび政権のスタッフが、ソ連、中国、キューバにおける社会主義は、啓蒙主義、民主主義革命によって生まれた価値と起源を同じくしていると考えているが、それは誤りだとのだという主張を行うからである。

 1967年にはカークパトリックはジョージタウン大学の助教授に就任する。その翌年に博士論文を完成させ、コロンビア大学からPh.D.を授与されている。博士論文はアルゼンチンにおけるペロニズム政治を研究テーマとしたものであった。

 博士論文を土台として1971年、彼女は『大衆社会における指導者と前衛:ペロン主義者のアルゼンチンの研究(Leader and Vanguard in Mass Society: A Study of Peronist Argentina)』を出版した。この本の中でカークパトリックは「ペロニズムのアルゼンチンは全体主義ではない」[31]としている。その理由として彼女は「ペロンのアルゼンチンは決定的な全体主義体制の性質のほとんどを欠いている」ということ、「公式のイデオロギーが存在しない」こと、「政治過程の全体的な管理を確立しようという努力も見られない」こと、「政治的機能を独占する単一の大衆政党が存在しない」こと、そして「偏在する恐怖が存在しない」ことを挙げている。[32]この頃には既に、後にレーガン政権において熱心に支持を与えることになるラテンアメリカの権威主義体制を擁護する姿勢が見え隠れしているのである。1973年、カークパトリックはジョージタウン大学の教授に昇任した。

 翌1974年には、カークパトリックは著書『政治的女性(Political Woman)』を発表する。この本はこれまで男性が中心であった政治の世界に多くの女性が進出してきた経緯、現代の政治における女性の役割などを扱っている。具体的には、どのようにして選挙に勝ち抜き政治家になったのか、そして、女性に対する偏見をどうやって克服してきたのかということについて書かれている。カークパトリックは女性が政治の世界へ進出することにを重視する一方で、「女性が増えるように、一定程度の割り当て」を設けるという考えには反対していた。そして、徐々に女性が増え続けることが望ましいが、本当の平等は「近い将来に達成しないであろう」としている。[33]

 その後、彼女は1978年にトーマス・アンド・ドロシー・リーヴェイ(Thomas and Dorothy Leavey)寄付講座の教授に任命される。[34]またワシントンD.C.にあるアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(American Enterprise Institute for Public Policy Research:AEI)の研究員に就任したのも、この1978年のことである。彼女は大学の教員と研究所のスタッフという役職に就きながら、同時に国務省、国防総省、保健教育福祉省といった様々な官僚組織の相談役を務め、国内の政治問題についての論文を多数書いていた。[35]特にカークパトリックは、民主制の政治システムを発展させていくことについて関心があった。[36]

 カークパトリックは政党や政治の改革についての研究も行っていた。1978年に彼女が発表したエッセイ「政党の崩壊:党の改革と分解についての考察(Dismantling the Parties: Reflections on Party Reform and Party Decomposition)」の中では、かつてアメリカの政党、特に民主党における改革が意図せぬ効果をもたらした例について述べられている。彼女によれば、政党の民主化を意図した改革により、「広報会社(public relations firms)やプロの選挙コンサルタント、候補者の組織に、政党内部の力を引き渡すことになってしまう」のであって、その結果、マクガヴァン(George McGovern)もしくはカーターのようなアウトサイダーが、党内で主導的な立場にいなくとも、候補者として指名されてしまうようになったのであった。[37]もはや、候補者と政治のプロは政党からは独立してしまっているとカークパトリックは述べていた。

 また、1978年にカークパトリックは論文『政府の矮小化(The Trivialization of Government)』を発表し、そこでは「全体主義は決してすべての非民主主義的体制の形式と一致するわけではない」[38]と述べている。この頃にはすでに、カークパトリックは後に共産主義体制の同義語として使われるようになる全体主義体制と、それ以外の体制とを区別して考えていた。これは後に共産主義と右派権威主義体制との対比として、組み直されることになる。

 1979年、カークパトリックは後に「カークパトリック・ドクトリン」として認識されることになる外交政策の指針を示した論文を発表する。それが『コメンタリー』に掲載された「独裁と二重基準」である。この論文は、カークパトリックが政治の世界で注目されるきっかけとなるものであった。論文の内容は、カーター政権の外交政策の失敗を記録したもので、アメリカの国益に関するカークパトリックの理解を明らかにしていた。いわゆる「カークパトリック・ドクトリン」の基礎となる考えとは、「伝統的な権威主義的政治体制は、革命的な独裁体制よりも抑圧が少なく、より自由化の影響を受けやすく、よりアメリカの国益と共存可能である」[39]というものである。他にも、彼女は「権威主義体制は個人の権利を尊重する」が、「革命的な独裁体制である共産主義体制では、宗教や個人的集団をも破壊する」と述べていた。

 

(3)民主党員として

 

 先にも触れたように、カークパトリックはもともと熱心な民主党の家庭に生まれた。[40]1969年代より、熱心な民主党員として活動を始めた。[41]その後も彼女は1970年代を通じて、民主党員として重要な立場に居続け、福祉国家、組織化された労働、そして女性の権利など、多くの政策理念を支持し続けることになる。しかし、彼女の本当の政治的関心は1960年代のカウンターカルチャー(counterculture)と抗議運動に対する批判にあった。[42]

 カークパトリックは政界に重要な人脈を持っている。彼女は後に民主党の改革に対して、共に反対することになるヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey)と政治的関わりがある。ハンフリーはジョンソン政権下で第38代アメリカ副大統領を務め、1968年の民主党大統領候補であった。カークパトリックの夫であるエブロン・カークパトリックがミネソタ大学で教鞭をとっていたころ、ヒューバート・ハンフリーを教えていた経験があり、ハンフリーの最初の選挙戦を手伝ったのがエブロンだったのである。[43]

 1968年のシカゴにおける民主党大会では暴動が発生し、それを受けて大統領候補指名に関する改革委員会(Commission on Party Structure and Delegate Selection)が設置された。この改革は後にマクガヴァンの改革として知られることになる。この改革では政党をより参加型の民主主義を反映するものとし、伝統的なボス制度を廃し、社会を改革していくための行動を強調するものであった。[44]

 カークパトリックは、この政党における改革者たちのことを批判的に捉え、彼らを「ニュークラス(New Class)」として分類していた。カークパトリックによれば、ニュークラスの人々は選挙民の要望を聞いた上でそれに対応するのではなく、イデオロギーに染まっており、あらかじめ決められているアプローチで問題にあたるのであった。[45]マクガヴァンのこうしたリベラル色の強い改革がスタートした時期と、カークパトリックが政治活動に熱心に取り組みだす時期がおよそ重なっている点も注目に値する。民主党の「危機」を感じたカークパトリックが、反戦、反成長、反ビジネス、反文明を叫ぶ人たちから民主党を取り戻すために動き出したのである。[46]

 1972年に大統領選挙に出馬したマクガヴァンは「アメリカよ、祖国に帰れ(”Come home, America”)」というスローガンを掲げていたが、カークパトリックやノーマン・ポドレーツ(Norman Podhoretz)はこれを「敗北主義であり孤立主義である」として批判していた。[47]その後、ハンフリー、ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン(Henry Martin "Scoop" Jackson)上院議員、マックス・ケンペルマン(Max Kampelman)、ペン・ケンブル(Penn Kemble)、エブロン・カークパトリック、ジーン・カークパトリック、ダニエル・パトリック・モイニハン(Daniel Patrick Moynihan)、ポドレーツ、ベン・ウォッテンバーグ(Ben Wattenberg)らはマクガヴァン支持派の若い世代を排除するべく、「民主党多数派のための連合(Coalition for a Democratic Majority)」を創設した。[48]この組織に所属するメンバーらは、アメリカがソ連に対してより強いスタンスで臨むことを主張する傾向があった。その理由は、超大国である米ソの関係改善を促し、2国間の敵対関係を緩和しようと目論んだデタント外交が明らかに失敗したと考えられていたからであった。アメリカン・エンタープライズ研究所の出版物や『コメンタリー』といった雑誌には、そのような論調が特に強かった。[49]

 『コメンタリー』に集まった知識人たちこそが、ネオ・コンサーヴァティブ(以下ネオコンとする)台頭の中心的な役割を果たしたのである。彼らは第二次世界大戦後、対外的には反共、国内ではリベラルな政策を支持するいわゆる冷戦リベラルであったが、ヴェトナム反戦運動の盛り上がりとともに、大きな選択を迫られることになった。一方の選択肢は急進化する左派とともに、アメリカ外交を徹底的に批判するというものであり、他方はヴェトナム戦争を不幸な失敗とみなしつつも、アメリカ外交の路線を基本的に肯定するというものであった。急進派に対する反感を強めた彼らは、後者を選択して冷戦リベラルからネオコンへと一気に舵をきった。[50]

 ここでカークパトリックが助言者であり友人だと考えていた民主党議員ヘンリー・“スクープ”・ジャクソン上院議員[51]に焦点を当ててみたい。カークパトリックらネオコンは、デタント外交を痛烈に批判したジャクソンを支持していた。ジャクソンは1972年に大統領候補者を目指した人物であり、ニクソン・キッシンジャーのデタント外交に道義性が欠けていることを批判していた。というのも、キッシンジャーは1971年の外交教書で「ソ連の国内秩序それ自体は、その多くの特徴をわれわれが拒否するにしても、わが国の政策の目標でない。わが国のソ連との関係は、他の国々と同様、その国際的な行動によって決定される」[52]と述べており、ソ連の政治体制の変革を直接狙う試みを放棄したと考えられたからである。ジャクソンはソ連の人権抑圧を告発し、人権問題に関心がありつつもデタント外交の支持派であったリベラルを説得し、デタント外交への批判の声を高めた。カークパトリックと夫のエブロン・カークパトリックは、このヘンリー・ジャクソン上院議員とも関わりあっていた。[53]

 結果的には、大統領候補選出のための民主党予備選においてジャクソンは敗れ、マクガヴァンが民主党の大統領候補に選ばれた。1972年の大統領選挙においてカークパトリックをはじめとしたネオコンらは、マクガヴァンの対外政策に強く反発した。マクガヴァンは自分が当選したら、ヴェトナムを訪問して謝罪するという発言を行っていたからである。[54]

 カークパトリックの民主党での活動は1970年代以降、より活発になっていく。1973年から、民主党全国委員会の副大統領選出委員会、民主党資格審査委員会、民主党構造改革委員会のメンバーを歴任した。[55]1976年、カークパトリックは「現在の危機委員会(the Committee on Present Danger)」に参加する。この組織はポール・ニッツェ(Paul Nitze)、リチャード・パイプス(Richard Pipes)らが立ち上げたものであり、ニッツェによれば、「国家安全保障問題についての詳細で客観的な議論を再開する」ためのものであった。しかし、この委員会の調査結果には、いくらか疑わしい情報が存在したことも指摘されている。例えば、「ソ連は、アメリカとその同盟国よりも、戦略的兵器と通常兵器の保有量をより急速に増やし、またそれらの機能を改良してきた」といったものや、「ソ連の拡張主義は、自由が存続するために必要な世界の軍事力のバランスを破壊せんと脅かしている」といったものである。[56]

 

2.    カーター外交への批判

 

 1976年の大統領選挙でカークパトリックは、不本意ながらもジミー・カーターを支持した。[57]カーターが民主党の大統領候補として手本にしていたのは、1972年の大統領選で東南アジアからの撤退や軍事費削減を主張し、女性やマイノリティーの支持を得ていたマクガヴァンであり[58]、まさにカークパトリックらが排除しようとしていた人物そのものであったのは皮肉なことであった。[59]

 事実、彼の当選後まもなく、カークパトリックは強い失望を感じるようになっていく。[60]先に登場した「民主党多数派のための連合」のメンバーが大挙して民主党を去り、共和党に鞍替えしたのはカーター政権のときであった。この連合はカーター大統領に53件にも及ぶ安全保障問題での勧告を行ったが、すべて無視された。メンバーであったエリオット・エイブラムズ(Elliott Abrams)は「カーター政権は我々を締め出した」と述べている。[61]また、1980年1月には、この連合のメンバーが、カーターにアフガニスタン情勢についての意見を聞く機会があった。しかし、カーターは明確な返答をしなかったため、メンバーらは深く失望した。メンバーの1人であったカークパトリックは「もはやこの男を支持することはないだろう」と述べた。[62]

 

(1) カーター人権外交への批判

 

 1970年代に入り、アメリカ国内外で生まれた状況によって、アメリカ人の人権意識は高まった。国外では内戦による大量虐殺、非人道的行為、人為的飢餓、政治犯などへの弾圧・拷問・流刑・言論統制、秘密警察の暗躍などがあった。それはアジア、アフリカ、中東、ラテンアメリカと政治体制は多様であったが、ほとんど地球全体に及んでいた。たとえば、アジアではポル・ポトのカンボジア、軍事政権のタイ、マルコスのフィリピン、朴正煕の韓国、スハルトのインドネシア、ラテンアメリカではソモサのニカラグア、ピノチェトのチリ、軍事政権のアルゼンチン、中東ではシャーのイラン、サウジアラビア、アフリカではボカサの中央アフリカ帝国、アミンのウガンダなどが挙げられる。[63]国内ではヴェトナム戦争、ウォーターゲート事件などがあり、市民や連邦議会に政治に対する道徳的反発が起こっていた。1960年代に公民権運動やヴェトナム反戦運動にかかわった人々は、環境、原発、人権などに新たに取り組むべきイシューを見出していた。[64]こうした状況の中、カーター人権外交が始まる。

 カーター大統領は、これまでアメリカが共産主義に対して過度の恐怖を抱いていたために反共主義であるというだけで独裁者と手を結ぶ失策を犯してきたとの認識を示した。[65]これはカーターが1977年5月にノートルダム大学で行った最初の主要演説の中で示されていることであった。カーターが念頭に置いていた独裁者とはラテンアメリカの権威主義体制の国家であった。そして、カーター人権外交は主として、ラテンアメリカの軍事政権諸国を対象に行われることになる。

 まず、カーター政権は人権抑圧に対して抑圧のレベルを下げるよう、様々な政策を駆使した。その第一は軍事援助削減政策であり、アメリカ政府の対ラテンアメリカ軍事援助要請額は、1976年会計年度から1979年会計年度に激減した。1977~1979会計年度の全軍事援助要請額は変化していないにもかかわらず、そのうちのラテンアメリカの占める割合は全体の8.1%から2.3%に激減した。[66]

 カーター人権外交の中でもニカラグアに対するそれは、その後の政治的展開を考える上でも非常に重要である。ニカラグアでは1977年9月にソモサ政権が、アメリカの圧力に応じて戒厳令を解除した。その直後から反政府運動が高揚し、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の攻勢が開始される。翌年の1月、反ソモサ系の新聞『ラ・プレンサ』の編集長チャモロが暗殺されたことをきっかけに、全国的ゼネストに発展していった。1977年、アメリカ政府はソモサ政権との間に対外武器売却協定を締結するが、国務省はソモサ政権の人権侵害を理由に資金の拠出を拒否した。1978年9月に、サンディニスタが全面蜂起を呼びかけ、1979年1月に、アメリカ政府はソモサ政権への軍事援助および輸出ライセンスを完全に停止した。[67]

 カーター政権による制裁の結果、ソモサ政権は苦しい状況に陥った。ソモサ政権の権力基盤の弱体化が明らかになると、カーター政権はソモサ政権の崩壊は避けられないと判断し、中道勢力の支持に回る。しかし、カーター政権が期待するような中道政権は誕生せず、変わってサンディニスタ革命政権が成立したのである。[68]

 カークパトリックはサンディニスタの反乱によってソモサ政権が敗れ、ニカラグアに革命政権を誕生させてしまったことについて「国内でも国際社会においても、アメリカ政府の地位と信頼を損ねた」と痛烈に批判した。[69]カークパトリックはサンディニスタとキューバの秘密警察がつながっていることを指摘し、国務省がそれを知りながら、あえてサンディニスタとの交渉を進めたことに注意を喚起する。また、カークパトリックは、カーター政権が「望ましくない結果を防げなかったというだけでなく、アメリカにとって友好的であり穏健な独裁体制と、アメリカにとってそれほど友好的ではなく急進的な考えを持っている独裁体制とを入れ替えることに手を貸してしまった」との主張を行っている。[70]

 カークパトリックによれば、サンディニスタの指導者が武器や言論を統制し、反対意見を禁止し、キューバに渡っていた後も、カーターは「革命的変革をキューバの策謀のせいにする」ことに対して警告を発し、アメリカの望む世界とは「ニカラグアの人々に彼ら自身の政府の形式を選択させるようにすること」であると確信していた。[71]他方、カークパトリックは、サンディニスタの「反乱軍がニカラグア国外からも支援を受けていることや、ソモサの武装解除にアメリカが手を貸していることにカーターは気がついていなかったのではないか。そして、アメリカはソモサ体制が武装解除する上で、重要な役割を果たしたことに気づいていなかったのではないか」と批判している[72]。

 カークパトリックは「理性、平等、民主主義、社会工学、道徳的理想主義への過剰な信頼が、それらとは正反対のものを生み出す。つまり、非合理主義、独裁、暴力、そして不道徳である」と述べている。[73]「ニュークラス」の活動家たちに危機感を感じていた彼女が、カーターの道義性を重んじる外交スタンスに対してもまた、危機感を感じ、批判を強めていったのである。

 

(2) カーター外交がもたらした「負の遺産」

 

 カークパトリックのカーター批判は、より広範に対ソ外交や冷戦政策にまで及んでいた。彼女はカーターが大統領に就任してからの30ヶ月あまり、ソ連は大幅に軍事力を増大させた一方で、アメリカの軍事力は停滞したのだとし、また、ソ連がアフリカの角(アフリカ大陸北東部)、アフガニスタン、南アフリカ、カリブ海において影響力を大幅に拡大した一方で、アメリカはそれらすべての地域で立場が後退したのだと述べている。カークパトリックによれば、アメリカが第三世界での友好国との関係を維持する上で、これほど苦労し、これほど失敗した例はないのである。[74]

カークパトリックの指摘によればソ連の台頭は、以下のような場面で顕著であった。まず、ソ連はアンゴラに続く形で、エチオピア、南イエメンを軍事支援し、1977年末から中央ヨーロッパに中距離核ミサイルの配備を開始した。そのため、アメリカ国内の反デタント勢力をいっそう刺激することになった。[75]また、1978年11月には、ソ連はヴェトナムと友好協力条約を結んだ。そのヴェトナムは1979年1月にカンボジアに侵攻し、中国に近いポル・ポト政権を倒し、親ソ的なヘン・サムリン政権を樹立する。[76]また、1979年のイラン、ニカラグアにおける独裁政権の崩壊があり、特にニカラグアにおいてはソ連を後ろ盾としたサンディニスタ政権が登場したことが挙げられる。カークパトリックは1978年12月の時点で、「カーター民主党政権が援助を停止したため、ニカラグア政権は崩壊寸前で、左翼勢力に乗っ取られようとしている」[77]と警鐘を鳴らしていた。この「ニカラグア喪失」の責任を厳しく追及したのがカークパトリックであった。[78]

 カーターの人権外交は、その対象を当初はソ連、韓国としていたが、途中から安全保障問題の少ないラテンアメリカに移行していった。また、援助と人権問題を結びつけて、声高に批判する内政干渉的なスタイルが、カークパトリックの批判の対象となっていた。また、カーターの人権外交が二重基準の上に成り立っていたとの指摘もなされ、カークパトリックはその根拠として、軍政により安全保障問題が解決されていた南米では人権政策がほぼ貫徹されていた一方で、中米においては戦略的配慮から人権政策が追求されなかったことを挙げている。[79]

 また、カーター政権まで続いたデタントに対しても、カークパトリックは極めて批判的であった。西側陣営とソヴィエト・ブロックとのネットワークを意図的に構築しても、期待されていたようなソ連の自由化(liberalization)は起こらなかったし、アメリカによって行われた一方的な軍縮への動きを含め、西側陣営が軍備を意図的に縮小したにもかかわらず、ソ連の軍事的発展を並行的に(parallel)減少させることはできなかった。[80]むしろ、思惑は逆に作用したのだとカークパトリックはいう。西側諸国は自らの独立を脅かす東側諸国との関係を持つようになり、ソ連はカーターが「平和のためのリスク」と呼んだものを利用して、軍事的な領域において劇的に比較的優位な立場を手に入れたのだというのである。[81]

 そもそも、カーターは当初、ソ連に対する人権外交とデタントは両立できるのだと期待していた。しかし、ソ連政府は人権状況改善の働きかけを拒否し、第二次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ)でソ連に大きな譲歩を求める提案に反発したのであった。[82]こうした中でカーターは1979年6月、ウィーンにおいてブレジネフとの間でSALTⅡ条約に調印した。SALTⅡは上院外交委員会において、9対6という僅差で承認され、本会議に送られることになった。[83]しかし、1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって、カーターは審議延期を上院に要請した。[84]この後、1985年に期限切れとなり、SALTⅡは廃案となる。

 カークパトリックは軍備削減に強く反対した。SALTⅡをはじめ、B-1爆撃機、潜水艦、長距離巡航ミサイルなどの制限といったカーター政権の政策について、アメリカをその主敵と同程度の軍事力を持つ状態にさせる前代未聞の愚策であると称した。また、彼女によれば、こうした政策は軍事的劣勢にあることがソ連に不安感を与えるという理論に基づいているが、この理論は、ソ連が安心感を抱きさえすれば、米ソの軍備拡張は終わり、軍備はより少なくなり、リスクはより少なくなり、そして、脅威はより少なくなり、皆が幸せに暮らせるということであった。そうした努力は今やレーガン大統領の誕生により、アメリカの軍備増強が再び行われており、失敗してしまったのだとやや皮肉を込めて論じている。[85]軍備の削減に対しては、「現在の危機委員会」も強く反対を表明していた。この委員会は、ソ連の軍事的脅威とアメリカの強い軍事力の維持を訴えていた。[86]

カークパトリックはカーター政権の「弱者こそ強者である」という論理に批判的であった。この論理に拠れば、アメリカの軍事力の優位性は怒りを呼び、ソ連からの封止策や過剰な反応を喚起することになり、さらなる軍拡競争に発展するということであった。[87]そのため、カーターは外的な脅威を強調する冷戦リアリズムを敵視していた。[88]カークパトリックはカーターの単純さを批判したのである。

 

(3) 右派独裁体制と全体主義体制の理解について

 

 1979年の著書で、カークパトリックは「ニュークラスの政治的誘惑とは、知性や立派な動機があれば、組織、生活、そしてほとんどすべての人々の性格さえも再整理する(reorder)ことができると信じることにある。これこそが全体主義の誘惑である」[89]と述べている。また、カークパトリックは「既得権の自由や平等はすでに社会にある」ので「リベラルも保守と同様に現状において既得権益を持っている」とも述べている。[90]これはカークパトリックが「急激な社会の変革(rapid social change)」を毛嫌いしていたことの表明であると考えられる。この頃になると、カークパトリックは「急激な社会の変革」と全体主義を結び付けて考えるようになっており、現状を変えようとする動きに対して警戒心をあらわにしていた。

 しかし、カークパトリックは社会変革それ自体を否定していたわけではなかった。カーター外交を批判した論文の中で、彼女はアメリカが革命的な内乱の危機に瀕している権威主義体制を支持すべきだと主張していた。しかし、ここでのカークパトリックの主題は、権威主義体制を擁護することにあったのではなく、民主主義は政治的発展の過程で生まれるものであるということであった。[91]カークパトリックは経済の発展、実質的な中産階級の出現、識字率の向上などが牽引して、その結果、民主主義が「自然と」生まれるという考えは不十分だと考え、多元的な社会や、正しい政治文化、そして「時間」が必要だと考えていた。[92]その上で、カークパトリックは「民主化」プロセスに必要とされる要素を説明する。彼女によれば、比較的わずかな地域に民主的な政府が出現した。その条件として、「指導者たちが反対勢力に対して寛容になることに慣れること。反対勢力は自分たちが敗北したことを認めたとしても、現在の指導者を打ち倒すことはしないという認識を持つこと。人々は自分たちの生活に政府が影響を与えていること、政府に対して自分たちができることに気づくこと。当初は限定的に参加できるだけの形式だったものが、徐々に拡大していくこと」があり、条件を満たした後に徐々に民主化が達成された。[93]ここでも先に述べたようなカークパトリックの「急激な社会の変革」に対する嫌悪感を見て取ることができるし、彼女がいかに安易な民主化を期待する論に対して疑念を持っていたのかを窺うことができる。

 他方、カークパトリックは革命以前のイランやニカラグアにおいては、共産主義体制とは異なり、民主化が比較的早期に実現するのではないかという期待を抱いていた。そして、カーターがそれらの国々をいかにして解放(liberalization)すべきなのかを理解していないとして、批判している。ニカラグアのソモサ、イランのシャーを排除してしまうことで、民主化を促すどころか、民主化への期待を持ち合わせていた国民たちをも同時に排除してしまったというのが彼女の見方であった。[94]彼女はイランとニカラグアが革命政権に代わってしまったことに際して、それらの国々の発展にアメリカが負っている役割に誰も注意を向けていないと憤る。また、こうした状況はエルサルバドル、グァテマラ、モロッコ、ザイールにおいても存在していると述べている。[95]

 カークパトリックによれば、カーター政権の高官たちは、共産主義国家(彼女によれば全体主義)のほうが、右派独裁国家よりもアメリカ国民にとって受け入れやすい価値観を反映しており、伝統的な権威主義体制はアメリカの近代的な感覚には反していると考えているのであった。また、カークパトリックによれば、カーター政権の高官たちは「伝統的な独裁体制、すなわち権威主義体制では、血縁関係や個人的関係で体制が維持されるため、アメリカにある正義や効率性の考えに反する」と考えていた。そして、ソ連、中国、キューバといった国々の社会主義は、18世紀の啓蒙、民主主義革命によって生まれた価値と起源を同じくしているので、アメリカ人にとっても受け入れやすい価値観であると信じていたのだという。カーター政権の高官たちはそういった伝統的な独裁体制における極端な貧富の格差を放置することで、アメリカに対する妬みを生み、反米感情を生み出すのだと考えていたのである。[96]カークパトリックによると、カーター政権が行ったラテンアメリカやカリブ海に対する政策は、伝統、習慣に基づいて、もしくは思い付きで行ったものというよりは、彼自身のイデオロギーに由来するものだと論じている。[97]彼女は一貫して、カーターの権威主義体制に対する見方を批判していた。

 カークパトリックがこのようにカーターの思考方法を分析した背景を理解するヒントは、彼女が初期の頃に記した文章の中にある。1963年に出版された著書の中で、カークパトリックは「共産主義者は、富裕層と貧困層、持てる者と持たざる者、労働者と雇用者、被抑圧者と抑圧者の闘争に従事しているのだという概念があるので、共産主義者は他の非民主主義的な体制よりも、より民主的で進歩的であるという概念がうまれるのだ」[98]と述べていたからである。

 

3.    2つの革命とカークパトリック

 

 1979年、中東地域でアメリカの最も緊密な盟友であったイランの王政が崩壊した。王政の打倒を目論むイスラーム革命勢力が台頭し、1月に国王(シャー)は出国を余儀なくされ、反米的な革命政権が誕生した。その頃、中南米でも反米勢力が台頭していた。ニカラグアでは、長年独裁支配を築いてきたソモサ政権が倒れ、7月にソ連、キューバの支援を受けるサンディニスタ政権が成立する。[99]

 カークパトリックは、ニカラグアとイランにおける革命政権誕生に至る過程を、蒋介石政権崩壊前の中国、カストロ政権誕生前のキューバ、ヴェトナム戦争の最終局面に似ているとし[100]、これまでアメリカが経験してきた歴史上の「失敗」になぞらえた。カークパトリックによれば、これら革命政権の体制は、国民の自由が制限され、安全が保障されず、アメリカに対して敵対的なものであった。しかし、この考えには疑問も残る。例えば、蒋介石政権崩壊後に誕生した革命政権、中華人民共和国政府とアメリカ政府の間には、様々な対立の歴史はあったとしても、現在では協調関係を築いていると言えなくもないからである。現に1979年にはカーターが中国に対して最恵国待遇を与えており、[101]その後も1994年にはクリントン政権において最恵国待遇の自動延長を発表している。[102]このような現在までの米中関係を考慮すると、「革命政権はアメリカに対して敵対的である」というカークパトリックの指摘は、現実を正確に捉えているものとは言いがたく、イデオロギー的に見ている面は否めない。

 カークパトリックのみならず、ネオコンの中にはやはり「米中衝突」を危惧する議論が存在した。そのような主張をしたうちの一人が、第二世代のネオコンの代表とされるロバート・ケーガンであった。彼はウィークリー・スタンダード誌に米中衝突を危惧する論文を書いている。彼は「中国の指導者は一世紀前のドイツ皇帝ウィルヘルム二世と似た視点で世界をみている…自国に課せられた制約に苛立っており、国際社会の規則を変えなければ、自分たちが変えられることになると懸念している」と論じた。[103]

 

(1) ニカラグアのソモサ、イランのシャーによる統治の共通点

 

 1970年代を通じてカークパトリックはシャーやソモサを擁護する立場をとった。両国の問題点は認識しながらも、彼女によれば、確かにシャーのイランも、ソモサのニカラグアも反対意見を述べる新聞や政党など、限られた反対勢力の存在を許していたが、両国とも社会的・政治的革命に傾倒した急進的で暴力的な反対勢力とは敵対関係にあった。また、両国の指導者らは、そういった急進的反対勢力を逮捕、拘留、国外追放、また時には拷問するために戒厳令を発令していた。また、両国の軍隊とも「個人的な軍隊」であり、「憲法」や「国家」に忠誠を誓うのではなかった。[104]

 カークパトリックによれば、ニカラグアのソモサもイランのシャーも、原則としてやや伝統的な社会の支配者であった。シャーは「技術的には」近代化を望み、強い国家を志向しており、また、ソモサは近代的な農業技術を取り入れようとしていたが、両者とも抽象的な社会正義や政治的美徳を主眼とした社会変革は望んではいなかった。そして、両者とも富や権力の再分配を行おうともしていなかった。ただし、イランの場合は教育や技能の民主化により、ある程度の富や権力の分配があったという。[105]

彼女の指摘どおり、シャー支配下のイランでは、ある程度、教育や技能の民主化が存在していたが、その狙いは国家目標を達成するためであった。桜井啓子によれば、1960年代初頭のイランでは、近代化のための諸政策である「白色革命」がスタートし、第三次開発計画において、大衆教育を重視する方針が打ち出された。イランがこれら諸政策を通じ、少数者の特権から全国民を対象とする教育への転換をはかったことは、教育史における1つの転機として位置づけることができた。もちろん経済的には、教育を投資と考え、経済効果の向上を目指す狙いがあったが、政治的には人々を無知な状態のままにして支配を維持しようとするのではなく、国家の側であらかじめ取捨選択した知識や情報を学習させ、人々を国家目標に向けて積極的に動かそうという狙いがあった。[106]

ソモサ一族の支配下にあったニカラグアにおいても、一定程度の改革は存在した。田中高によれば、アナスタシオ・ソモサ・ガルシアの息子ルイス・ソモサ・デバイレは、穏健な思想を持っていた。アメリカで教育を受けた後、帰国して国会議員、国会議長を経て、父の暗殺後に大統領に就任した。ソモサ王朝批判を払拭する狙いもあり、彼は住宅建設、社会保障制度、土地改革などを成し遂げた。さらに、言論の自由や反政府活動家の釈放を実施する。[107]しかし、1963年にルイスが心臓発作で死亡し、その後67年に弟のアナスタシオ・ソモサ・デバイレが大統領に就任すると、ニカラグアは改革とは逆方向に向かうことになった。彼は国家警備隊が権力の源泉であるという認識を強め、その軍隊を使って諜報・治安を担当させた。軍内部の相互監視の厳格化、密告の奨励などにより、ソモサに批判的な隊員はすぐに逮捕され、厳罰を与えられるようになった。[108]

 カークパトリックによれば、ソモサもシャーも個人的な家族、友人関係によって支えられていた。このような体制においては、指導者が権力を手にする時間が長ければ長いほど、指導者個人の影響が拡大していき、国家の制度自体も指導者個人に依存していくので、指導者がいなくなると組織化された社会も崩壊してしまうのだという。[109]

 個人の軍隊であるか、党の軍隊であるかということが、カークパトリックによる全体主義体制と右派独裁権威主義体制を分ける1つのキーワードであると考えることもできる。カークパトリックによれば、ソモサに仕える国家警備隊、シャーに仕えるイラン軍は、あくまでも「個人」の軍隊であった。[110]翻って、共産主義国家の軍隊はあくまでも「党」の軍隊である。例えば、中国の人民解放軍は現在においても中国共産党の軍隊であるし、かつてのソ連におけるソビエト連邦軍は「党の軍隊、革命の軍隊」であった。[111]

 

(2) イラン革命についてのカークパトリックの視点

 

 1953年にモサデック首相が失脚し、イラン王シャーによる政権が樹立し、1979年にイラン革命が起こるまでの間、アメリカは対ソ戦略の一環として、地政学的理由でイランを支援し続けてきた。しかし、1979年に反政府勢力の台頭によってイラン革命が勃発し、シャーは失脚することになる。カークパトリックはこの体制の転換を、イギリスにおけるマグナ・カルタの成立や、フランス革命になぞらえている。諸侯が土地を保有し、富の生産を担っていたイギリスでは、イングランド王ジョンに対する不満がマグナ・カルタを認めさせることになり、工業や商業の台頭が政府の財政を支えるようになっていたフランスでも、同じように革命が起こったのだと説明している。これと同じように、イラン革命においてシャーを失脚させた人々は、市場(bazaars)や宗教指導者(mullah)らに支えられていたというのがカークパトリックの考えであった。彼女によればこれらの転換は、政府が社会における基盤の全てをコントロールできなくなったことによって起こったのであった。[112]

 カークパトリックによれば、シャーがイランを近代化する決心をしたことに、アメリカ人は共感を持っていた。[113]しかし、カーターはイランの現状に不満を抱いていたのであった。1977年11月、カーターはシャーに、イランで改革が行われていることは知っているが、イランで人権が尊重されていないという主張をするイラン人が増えていることを挙げ、人権状況を改善するように要求している。カーターは「声をあげているのはイスラム教の司祭や他の宗教界指導者たち、それに政治的活動の拡大を求める中産階級や学生たちだ。イランの評価はこうした人々の不満の表明によって傷つけられている」と述べた。これに対し、シャーは共産主義の脅威がなくなるまでは、そのような要求は受け入れられないと答えている。[114]

 1978年11月、イランでゼネストが始まる。このときカーターはソ連がイランに介入する可能性を憂慮していた。カーターはブレジネフに、アメリカは介入しないが、イランへの誓約は守ること、シャーを全面的に支援することを伝えている。[115]

 カーターはイランの運命は、イランの人々が決めるべきだと考えていた。同年12月、シャーが実権を握れなくなった際、記者から「アメリカはシャーの勝利を予期していたのか?」と尋ねられ、カーターは「わからない」と述べながらも「私個人としては、シャーが政府で主たる役割を維持することが望ましいが、それはイランの人々が決めるべきことである」と述べている。[116]ところが、この当時カークパトリックは「アメリカがシャーの出国を促し、バクチアルによる継承の取り決めを手助けしたことは、それほど疑いようがない」と述べている。[117]実際にカーター政権は、シャーの出国を幇助し、滞在を認めていた。そのためイランの強い反感を買い、過激派がシャーのイラン送還を要求し、1979年11月にアメリカ大使館員が人質に取られる事件へと至るのであった。[118]

 さらに、12月にはソ連軍が危機に瀕した左翼政権を支えるために、アフガニスタンに侵攻するが、カーターは直接に有効な対抗策をだしえなかった。[119]これに対し、カークパトリックは「イスラム原理主義の潮流がアフガニスタンから中央アジア地域まで何かを一掃するという主張がある」ということを弁解者たち(apologists)が述べているが、たとえ「それが真実だったからといって、ソ連の侵略を決して正当化できるものではない」としている。[120]

カーター外交の目的は「緩和と民主主義」であったが、カークパトリックによれば、それを外交問題の上で達成しようとしたことが失敗だった。カークパトリックは、カーターがイランに対して人権外交を行ったために、ホメイニによる統治をもたらしてしまったと述べている。[121]また、彼女は革命後のイランを、「信じられないほどの数の死体の中心で、シャーを追放した熱狂的な神政主義者が権力を握った。そして、処刑、爆撃、戦闘によってイランの政治体制と経済が台無しにされてしまっている。なおもアヤトラ・ホメイニは不思議の国のアリスに登場する狂気の女王のように、絞首刑を行い、人々の命を奪っている」状態であるとしている。[122]カークパトリックはイランの惨状を引き合いに出し、このことに対するカーターの責任を追及したのである。

 

(3) サンディニスタ革命についてのカークパトリックの視点

 

 中米のニカラグアには、親子三代で42年間に渡り、独裁政権を築いたソモサ一族がおり、彼らはサンディニスタ革命によって失脚するまで、親米政権を維持してきた。ソモサ政権の形成に役割を果たしたのがアメリカであった。アメリカは第二次世界大戦前後から、ニカラグアをはじめとしてエルサルバドル(1931年~44年)、グァテマラ(1931年~44年)、ホンジュラス(1933年~49年)の軍事独裁政権を擁護してきた。中米諸国は1929年の世界恐慌から第二次世界大戦までアメリカの経済圏に組み込まれ、従属的発展の道をたどっていった。アメリカは中米諸国に対しては、民主的なプロセスを経ずとも継続して政権を維持し、アメリカの権益と外交政策に対して好意的な態度を示す国家ならば、独裁政権であっても支持を与えたのである。[123]つまり、アメリカにとって中米地域に求める最大のものは、その経済的発展を期待するというよりは、政治的安定であった。

 ニカラグアの特殊性はソモサと国家警備隊(軍部)が一枚岩だったために、軍の一部が反ソモサ運動の一翼と結んで後継政権を作るというエルサルバドル型の解決が不可能なことにあった。1978年8月、反ソモサ運動が盛り上がり、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が大統領官邸を占拠した。この段階で、カーター政権は非FSLN政権への政権移譲(国家警備隊は存置)を目指して動き出す。ソモサに対して単独で辞任を迫ることは控え、米州機構(OAS)諸国を交えての斡旋を試みるが、1979年1月にソモサの拒絶にあって方針を変更した。カーター政権は翌月、大使館の人員削減と援助停止を通じて圧力を加えた。5月にFSLNの攻勢が始まり、その後ソモサが倒れるとの見通しがついた6月にアメリカは前年と同じ斡旋をOAS外相会議で提案したが、否決される。その後、政権を奪取したFSLNは軍と警察を革命軍・革命警察にすげ替え、強力な大衆基盤を組織した。[124]

 カークパトリックは、ニカラグアとキューバの繋がりを憂慮していた。ヴァイロン・ヴェイキー(Viron Vaky)国務次官補は「ラテンアメリカにおけるニカラグアや我々の友好国は、ニカラグアを第二のキューバに変えようする意図は持っていない」と述べていたが、カークパトリックによれば、国務省はサンディニスタの指導者たちがハバナと個人的に繋がっており、連絡を取り合っていたことや、キューバの秘密警察職員であるジュリアン・ロペス(Julian Lopez)がしばしばサンディニスタの司令部にいたこと、キューバ軍のアドバイザーがサンディニスタのメンバーにいたことを知っていたはずだったのである。[125]

 カークパトリックによれば、サンディニスタはニカラグアにおいて全権力を手に入れるという願いを正当化するために、ある「神話」を作り出したという。その「神話」とは「ニカラグアが今まで苦しんできた自然や社会における問題や災害のすべての責任はアメリカにある」というものであった。[126]しかし、そのアメリカに対する感情が、本当に「神話」であったかどうかについては、議論の余地があるはずである。世界恐慌から第二次世界大戦まで、アメリカの経済圏に置かれながらも、従属的発展を遂げてきたことも考慮しなければならないであろうし、反ソモサ勢力の台頭、つまり、革命の機運が高まったのは、都市部において中間層の経済力が飛躍的に伸びてきたときであったこと[127]も忘れてはならないだろう。反ソモサ勢力が経済的な力を増してきたことで、先に記したこれまでの従属的発展を問題だと考え、その原動力が革命につながったという見方も可能だからである。

 カークパトリックによれば、サンディニスタがニカラグアにおいて危機的な状況で内戦を戦っていた最中、ソモサへの武器、弾薬、ガソリン燃料などの支援を打ち切ったことで、アメリカは事実上、モラルの面で、また政治的な面でサンディニスタに「支援」を与えたのであった。しかし、その「支援」をもってしても、サンディニスタがアメリカへの敵対的な態度を変えることはなかったと主張している。[128]

 カークパトリックがニカラグアにおける革命をこれほどまでに悲観的に捉えていた理由として、ニカラグアにおける政治勢力が分裂しやすいという特徴が挙げられる。カークパトリックによれば、ソモサもサンディニスタも、互いに反対勢力と協力し合うことを嫌う傾向がある。したがって、ニカラグアの伝統的な政治勢力は、妥協するということを知らず、民主政治をうまく機能するために必要な協調関係を構築できないでいるというのである。[129]

ソモサ政権崩壊から4年弱の1983年2月に、カークパトリックは中米を訪れ、現地の情勢を視察した。カークパトリックがもたらした報告は「極めて悲観的なもの」であった。また、「このまま事態を放置しておいたら、中米全域が左翼勢力の手中におち、米国の国益にとって重大な打撃となろう」と述べている。[130]

 カークパトリックにとってソモサ、シャーが権力の座から追われ、革命政権が誕生したことは、アメリカにとって敵対勢力を増やすことであった。それだけでなくキューバの影響下にあるサンディニスタ政権をニカラグアに誕生させてしまったことは、中米地域において共産主義の影響力が増すことを意味していた。カークパトリックの意思に反し、カーターはニカラグア、イランに人権外交を展開したのである。特にニカラグアでは、彼が期待した中道政権は誕生せず、サンディニスタ革命政権が誕生した。彼女はこの時点で、ニカラグアは伝統的に「民主化」を期待できないと考えていたため、革命政権誕生を極めて悲観的に捉え、その責任をカーターに帰したのである。

 

2章     レーガン政権におけるカークパトリック・ドクトリン

 

1.    カークパトリック・ドクトリンの実践

 

 1980年の大統領選挙の際、カーターはネオコンの支持を得ようとして、カークパトリックやミッジ・デクター(Midge Decter)などのネオコンの代表者と会合を持ったが、結局物別れに終わった。[131]カークパトリックを含めたネオコンの多くはカーターではなく、レーガンを支持することになった。これはネオコンが民主党支持から一気に共和党支持に移動した瞬間でもあった。

 カークパトリックによれば、ヴェトナム戦争の泥沼化や支配階級に対する信頼を失わせる政治、経済、文化面での衝撃のせいで、戦後の希望や期待は損なわれたが、その後、ニュー・レフトが席巻していた1960年代後半から70年代前半を経て、カーターの敗北とともにニュー・レフトは終焉を迎え、レーガンが勝利した。[132]カークパトリックにとってレーガン政権は、まさしくニュー・レフトの終焉とともに誕生したのであった。

 カークパトリック・ドクトリンが誕生したのは、彼女が「独裁と二重基準」を書いたときであった。[133]これがレーガン政権によって採用されることとなる。彼は民主党支持者であったカークパトリックを閣僚クラスの役職である国連大使に任命することにより、対第三世界外交、親米非共産専制政権への姿勢としてカークパトリックの論文「独裁と二重基準」に基づく理論的フレームワークを採用した。[134]

 また、レーガン外交を振り返る上で忘れてはならないのが、レーガン・ドクトリンの存在である。レーガンはソ連の冒険主義(adventurism)は、以下の要因に起因すると考えていた。つまり、ソ連は地球全体で攻撃的な拡張主義の政策を行っていて、これは巨大な軍備増強によって支えられているということである。したがって、レーガンの外交政策の基本的枠組みは、以下の2つに集約される。まずはアメリカの経済と軍事における強さを再び確立すること、そして、第三世界におけるソ連の影響の巻き返し(rollback)を図ることである。この巻き返しを図るための政策が、後にレーガン・ドクトリンとして知られるようになるもので、反共ゲリラや政府に、武器や資金などを与え、訓練させ、手助けを行うというものである。[135]レーガンはこの反共ゲリラたちを「自由の戦士」と呼んだ。

 

(1) レーガン政権によって援用されたカークパトリック・ドクトリン

 

 レーガン政権発足から間もない1981年1月、カークパトリックは雑誌『コメンタリー』に掲載された論文においてレーガン政権のとるべき道を明確にした。カークパトリックは、ラテンアメリカにおいてソ連やキューバの影響力が拡大してしまったことに対して、これまでのアメリカの外交政策が、このような脅威にうまく対処できていないだけでなく、むしろ東側陣営にとっての利益に貢献し、アメリカの友好国政府を不安定にし、アメリカの力を減少させたと指摘する。「したがって、レーガン政権における第一の、最も重要な仕事の1つは、ラテンアメリカとカリブ海に対するアメリカのアプローチを再検討し、改良することである」というのが彼女の議論であった。[136]

 「伝統的な権威主義的政治体制は、革命的な独裁体制よりも抑圧が少なく、より自由化の影響を受けやすく、よりアメリカの国益と共存できる。」[137]という考えに基づくカークパトリック・ドクトリンが、レーガン政権の政策に実際に反映されたと思われる例として、レーガン政権初期の在韓米軍撤退計画の破棄が挙げられる。レーガン政権発足間もない1981年1月28日、国賓として全斗煥をホワイトハウスに招待した大統領は、在韓米軍の撤退を完全に中止すること、韓国軍の近代化に協力することを約束した。[138]

ヴィクター・チャ(Victor D. Cha)によれば、レーガンはカーターとは異なって在韓米軍の存在を、アメリカにとっての経済的負担であり、朝鮮半島における南北対立の障害であるとは考えなかった。レーガンは、韓国を東アジアにおいてソ連の脅威に対抗する最前線であると認識していた。こうした理由があったからこそ、レーガンは1981年に全斗煥を招いて会談を持ったというのである。[139]それは在韓米軍撤退を掲げて当選し、韓国に対して人権外交を展開したカーター政権の政策と、真っ向から対立するものであった。カーターは1976年の大統領選挙で、在韓米軍の全面撤退を公約に掲げて当選していた。[140]

しかし、その一方で、この政策の背後にはカーター人権外交に根ざした姿勢以外の側面もあったようである。この在韓米軍撤退の目的は、アメリカが軍事停戦体制を朝鮮半島の南北間に「局地化」する狙いがあったとされている。また、米中両国が協調して、南北間の平和体制の樹立を構想していたという指摘もある。[141]つまり、世界規模の冷戦体制から、朝鮮半島を切り離すことを意味していたのである。

さらに、カーター政権が在韓米軍撤退計画と軍事停戦体制を「局地化」する外交的努力を払った背景には、北朝鮮の側からの在韓米軍撤退と南北平和協定の主張もあった。また、軍事停戦体制の「局地化」はアメリカと北朝鮮の政策的接点を模索することでもあった。[142]こうした南北融和に根ざした米中両国による「危機管理」の政策は、カークパトリックのように冷戦イデオロギーに強く影響を受けた人々から主張されることはないであろう。したがって、在韓米軍撤退政策の破棄は、カーター政権の人権外交を覆すものであると同時に、朝鮮半島における軍事停戦体制の局地化に反対するものとしても捉えることができる。

韓国の朴正煕大統領が1979年10月26日に暗殺された後、クーデターによって権力を掌握した全斗煥は、民主化運動を弾圧するために、その首謀者に仕立て上げた金大中を日本で拉致し、抹殺を図ろうとしていた。[143]カーターは全斗煥政権の韓国に対して、民主化に対する期待を一気に高め、アメリカが考える民主化のシナリオまで明らかにしていた。[144]

 当選を決めたばかりのレーガン政権にとって、金大中をいかに救出するかということが、新冷戦のもとで同盟国たる韓国との関係を修復する上で重要な関心事となった。カーターは、政権引継ぎの際にこの問題に配慮するよう韓国に要請していたが、レーガンは内政干渉をしないという姿勢を貫いた。[145]

しかし、国家安全保障問題担当補佐官への就任が決まっていたリチャード・アレン(Richard V. Allen)は、積極的にこの問題に取り組んだ。彼は1980年12月に全斗煥の盟友を説得し、全斗煥をホワイトハウスに招いて米韓関係を改善する代わりに、金大中の減刑を約束させる[146]という、いわば政治的取引を行った。レーガンは、1981年に当時の韓国大統領であった全斗煥を国賓としてホワイトハウスに招待した。カーター流の人権外交にのっとれば、軍事クーデターによって政権の座に着いた全斗煥をホワイトハウスへ招くことはまずなかったであろう。

カークパトリック・ドクトリンはラテンアメリカに適用されている。その一例がレーガン政権期のチリへの対応である。彼女がチリとアルゼンチンの首都を訪れたとき、彼女は人権活動家たちとの接触を一切拒否していた。ラテンアメリカの指導者で最初にレーガンを訪ねたのが、アルゼンチン軍事政権のロベルト・ビオラ(Roberto Viola)であったことは、レーガン政権初期の方針を象徴する出来事であった。[147]

 カークパトリック・ドクトリンは対台湾政策においても反映されている。台湾への武器輸出政策では、レーガン政権は対中関係の悪化を恐れて軌道修正するという経緯をたどっている。当初レーガン政権のもとでは台湾との関係強化、大規模な武器輸出が試みられ、米中関係が一時緊張した。[148]しかし、1982年8月、台湾向けの武器売却に関するコミュニケにおいて、台湾への武器売却は長期政策とはせず、段階的に削減した上で最終的な解決に至るようにすると表明されていた。[149]最終的にレーガン政権は、対ソ戦略上の観点から、対中関係の悪化を防ぐため、「1つの中国」原則を再確認せざるを得なくなったのである。[150]しかし、同時にこのコミュニケについてレーガンは、アメリカが台湾への武器輸出を制限するのは中国と台湾との軍事力の均衡が保たれている限りであるという覚書を作成していた。つまり、中国が軍事力を強化すれば、アメリカは台湾がそれに匹敵する軍事力を持つよう、援助を与えるということであった。[151]

カークパトリックは中国の経済、政治制度の自由化を望んでいると前置きをしながらも、レーガン政権時代の上海コミュニケと米中間の関係正常化に関するコミュニケにおいて、米中関係が築かれてきたと述べている。また、米中相互が良き意思を持ち合わせている限り、たとえアメリカが台湾関係法に基づいて台湾と友好的関係を維持したとしても、米中関係は拡大・発展していくと述べている。[152]カークパトリック自身がこの提案を行ったかどうかは定かではないが、彼女が米台関係を重要視していたことが窺える。このように、レーガン政権初期の外交政策は、親米独裁政権との関係を重視する傾向があった点で、カークパトリック・ドクトリンを色濃く反映していた。

 

(2) レーガン政権による右派独裁国家支援と対革命政権政策

 

 レーガン政権が支援を与えた右派独裁国家の1つが、中米の小国エルサルバドルであった。1981年、国務省は『エルサルバドルにおける共産主義者の介入』と題する特別報告を発表した。その内容はエルサルバドルの革命は、キューバやニカラグアによる武器援助によって起こされたものであり、武器供給源にまで遡って撃つべきであるというものであった。[153]ここからエルサルバドルへの支援と、ニカラグアのサンディニスタ政権弱体化のシナリオが始まるのであった。

 1980年3月24日、エルサルバドルではロメロ大司教が暗殺され、民衆組織の統合が進み、反政府ゲリラの政治外交組織として民主革命戦線(FDR)、そしてその軍事部門のFMLNが組織された。メキシコ、フランスは両組織に政治的代表権を認めたが、レーガン政権は政治解決を求めず、軍事対決路線を選択した。エルサルバドル軍と極右の軍事組織・暗殺団である「死の部隊」を用いてFMLNを制圧、さらにFMLNと協力関係にあるニカラグアの弱体化を狙った。アメリカによるエルサルバドルへの軍事援助は1980年には590万ドルであったが、1984年には1億9600万ドルにまで急増している。[154]

 ただ、エルサルバドルでは5万人以上が軍や「死の部隊」によって殺され、20万人以上の難民がアメリカに流入したにもかかわらず、アメリカ政府は親米政権の抑圧から逃れてきた難民を認めずに強制送還していた。こうした状況を憂慮したアメリカ連邦議会は、軍事援助の無条件の増額には消極的で、エルサルバドル政府が人権を擁護し、自由選挙などの民主的改革を約束しているとレーガン大統領が6ヵ月ごとに保証するという条件で、軍事援助の再開・増額を認めた。[155]

 カークパトリックは、エルサルバドルの周辺に存在する国々の政府が転覆されてしまったために、最後のターゲットはエルサルバドルになってしまったと述べている。また、彼女は1979年にニカラグアのソモサ政権が崩壊を迎える前年に、エルサルバドル反乱軍へ秘密(clandestine)に支援を与える制度が作られたと指摘する。カークパトリックによれば、その支援を与えたのはキューバやニカラグアのサンディニスタであった。サンディニスタ政権誕生から数週間後、部隊の訓練や、武器を援助するネットワークが構築され、エルサルバドルの反乱軍を支援する体制が整っていたのだという。[156]

 レーガン政権は、デタント期にソ連に勢力拡張を許したと判断された第三世界に対し、いわゆる「レーガン・ドクトリン」に基づいて、失地回復を目指した。アフガニスタンの反ソ勢力であるムジャヒディン、アンゴラの反ソ勢力であるUNITAへの支援がその代表例である。レーガン政権の戦略は親ソ政権への武力抵抗を続ける「自由の戦士」へ支援を与えることで、「民主主義革命」を世界に広め、ソ連を単に「封じ込め」るだけでなく、「巻き返し」することを狙ったものであった。[157]その中心が中米地域であり、エルサルバドルの親米政権への支援や、サンディニスタ政権転覆を目論むニカラグアの反政府武装勢力コントラへの支援が行われることになる。 

 コントラに対する支援とは逆に、革命後のニカラグアに対するレーガン政権の「経済制裁」は徐々に強化されてしていった。アメリカ政府からの援助がカットされただけでなく、アメリカは農業協同組合育成のための世界銀行による援助計画に拒否権を発動した。また、ニカラグアからの砂糖買い付け割り当てを大幅に削減し、世界各国の政府・金融機関に借款供与停止の圧力をかけ、1985年5月には対ニカラグア全面禁輸に至った。当時、ニカラグアの輸出の12%、輸入の19%が対アメリカのものであった。[158]

 また、レーガンは、カーター政権の経済制裁により、中断されていたチリのピノチェト政権への支援を再開した。[159]レーガンは1981年2月20日より、輸出入銀行のチリ輸出に対する融資の再開を決定したのである。[160]これらの国々への支援や軍事侵攻からもまた、カークパトリック・ドクトリンと符合する点を多く見出すことができる。

 フレッド・ハリディ(Fred Halliday)によれば、ニカラグアにおける革命はキューバとヴェトナムに勇気づけられたものであり、また、グレナダはイラン情勢の変化に後押しされたものであった。また、ハリディはアメリカがヴェトナム戦争で敗者の側に立たされたことも、その後積極的な介入を行わなかった上で重要であると述べた。もし、アメリカがヴェトナム戦争で敗れていなかったら、1970年代中期の第三世界においても、危機的局面のいくつかに直接介入できたであろうし、介入していただろうと述べている。[161]つまり、第三世界においてアメリカの覇権が弱体化し、影響力が相対的に縮小したことによって、それらの革命を発生される土壌を生み出したということである。レーガンとカークパトリックの外交は、こうしたアメリカの覇権の弱体化にもかかわらず、ニカラグアのゲリラ部隊コントラやアンゴラの反ソ勢力に支援を与え、レバノンやグレナダには直接軍事介入を行った。ヴェトナム戦争敗戦後に介入を行ったという点で、1つの転換点であったと言える。

 

(3) レーガン政権におけるカークパトリックとその周辺との対立

 

 カークパトリックの強い見解のために、彼女と他のレーガン政権のスタッフは、しばしば対立を引き起こしている。その中でも国務長官であったアレクサンダー・ヘイグとの対立は深刻なものであった。対立の原因は、カークパトリックのラテンアメリカに対する見解が他のスタッフらと大きく異なっていることにあった。また、イスラエルをめぐっては、親イスラエル色の強いヘイグと大きく衝突した。

 エルサルバドルをはじめとする中米政策をめぐり、レーガン政権において強硬派であったカークパトリックとウィリアム・クラーク(William Clark)国家安全保障問題担当大統領補佐官は、エンダース(Thomas O. Enders)米州担当国務次官補と意見を対立させるようになっていた。[162]1983年1月、エルサルバドルとの軍事対決路線が行き詰まる中で、エンダースは軍事援助に並行して、第三国のスペインを通してFDR、FMLNとの交渉を行う案を国家安全保障会議(NSC)に提出した。[163]彼はこうしたプロセスをとりながらニカラグアを封じ込める政策を主張していたが、カークパトリックとクラークは、サンディニスタ政権の転覆と、そして、極左の反乱者たち打倒のためには、中米の国々に対して広範囲にわたる軍事支援を行うことが必要であると提唱していた。エンダースは数ヶ月後に国務省内の内紛に巻き込まれて辞任することになる。[164]カークパトリックは、極左反乱軍との対決では妥協するつもりはなかった。

 しかし、カークパトリックが最も対立した相手はヘイグであった。カークパトリックはまた、「誰が国連での政策をコントロールしているのか」ということをめぐり、ヘイグ国務長官と激しく対立することになる。こうした問題はレーガン政権以前においても度々提起されていた。というのも、国連大使は政府の全般的な外交政策の戦略とは、協調する必要があったからである。事実、国連大使は人事面や支援の面においても国務省に依存していた。[165]カークパトリックの独立志向に苛立ったヘイグは「カークパトリックにはあまり情報を与えるな」[166]と指示したこともあった。情報が少なければ事態が十分に把握できず、国務省の指令に従わざるを得なくなるだろうというのがヘイグの考えだったが、ニューヨークのアメリカ国連代表部はヘイグの指示を無視した。[167]こうした情報操作を通じて、ヘイグはカークパトリックがいかにも素人であるかのように見せようとしたのであった。[168]

カークパトリックとヘイグはさらに対立を深めていった。そもそも、この対立が表面化したのは、1981年7月、イスラエルがイラクで建設中の原子炉を攻撃したことに対する非難決議が安保理で討論されたときであった。[169]カークパトリックはイラクのハマディ外相と3回にわたって非公式に会談し、イスラエルを非難するが、何ら制裁も加えないとの決議案を起草し、これを安保理で成立させる。これに激怒したのが国務長官のヘイグであった。[170]ヘイグはイスラエルの攻撃に際して「イラクの核兵器製造の意図に対する疑惑は必ずしも非現実的であるとは言い切れなかった。その意味では、核兵器が製造される恐れのある工場の爆破に乗り出したベギンの行動も理解できる」[171]と述べている。

 フォークランド紛争をめぐってもカークパトリックとヘイグは対立した。[172]イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が勃発した際には、レーガン政権は即座にNATO加盟国であり同盟国であるイギリスへの協力を表明した。ところが、カークパトリックはアルゼンチンを助けたいと思っていたのである。1982年6月4日、フォークランド紛争に関して、即時停戦を求める決議案が国連安保理で投票された。この決議案はアメリカとイギリスの拒否権行使で阻止されるが、採決後にカークパトリックは「投票が変えられるものなら、拒否権ではなく、棄権にしたかったということを記録にとどめるようアメリカ政府から訓令されている」と表明した。[173]

 ヘイグの回想録によれば、カークパトリックはイギリス側に立ってアルゼンチンを非難することに反対し、さらに「アメリカは百年の永きにわたってラテンアメリカの恨みを買うことになる」と大統領に向かって主張していたという。[174]カークパトリックは、イギリスを支持することによって、ソ連のラテンアメリカへの影響力が高まってしまうことを懸念していたのであろう。それを裏付けるものとして、アルゼンチン側の態度がある。ガーソンによれば、アルゼンチンはサンディニスタ政権と戦うゲリラ部隊のコントラに対するアメリカの支援を支持していたという。[175]

 このような中で、カークパトリックとイギリスの関係は決して良好とは言えなかった。アルゼンチンの攻撃が始まった時点でも、カークパトリックは在米アルゼンチン大使館での会食に参加しており、イギリスを激怒させた。カークパトリックはイギリスのアンソニー・パーソンズ(Anthony Parsons)国連大使とも良好な関係でなかった。[176]

 その後、ヘイグは1982年6月に辞任したため、もはやカークパトリックは国務省からの妨害に苦しむことはなくなった。ガーソンによればカークパトリックとヘイグは、アメリカが強力に再起する必要という点では意見が一致していたが、世界におけるアメリカの役割、特にラテンアメリカにおける役割について意見を異にしていたのである。[177]

カークパトリックとレーガン政権スタッフとの対立が生まれた背景には、彼女が標準的なヒエラルキーや手続きに従うことを嫌っていたということがある。実際に、政権内ではカークパトリックが誰に対して優位であるかということは、曖昧なままになっていた。[178]この曖昧さについて五十嵐武士は、政権におけるそれぞれのメンバーの権限が明確に確定されていないことにより、大統領と直接会見する機会、つまりアクセス権の保障をめぐって確執が生じやすかったと指摘している。[179]

 

2.    レーガン政権期の諸問題とカークパトリック

 

 レーガン政権において、カークパトリックはいわば「万能札」の役割を担っていた。というのも、本来の国連大使の役割とは別に、レーガンにとってのアドバイザーの役割を果たすこともあったのである。カークパトリックは国連大使であったため、国家安全保障会議(NSC)に参加することを制度的に認められているわけではなく、定期的に参加することはできなかった。それにもかかわらず、レーガン大統領にたびたび直接話をしていた。[180]一例としては、フォークランド紛争で、イギリスよりもアルゼンチンを支持するようにレーガンを説得したことが挙げられる。[181]

 

(1) フォークランド紛争

 

 1982年4月2日、アルゼンチン国軍約1000人の兵士が、アルゼンチン南東部500キロ地点に位置するフォークランド諸島に上陸した。アルゼンチンは以前から主権を主張しており、領有権を行使したと世界中に報道された。西側陣営に属している国同士が、本格的に武力衝突になったのは戦後初のことであった。[182]当時のアルゼンチンは、中米諸国に対ゲリラの軍事顧問を多数派遣し、アメリカの反共政策を支持していた。このため、多くの軍幹部はアメリカとの特別な関係を自負していた。1981年に大統領に就任するガルティエリ将軍が、アメリカを訪問した際、この支援策が高く評価されたため、イギリスとの戦争が起こってもアメリカが直接介入することはないだろうと考えていた。その後、5月1日からイギリス軍の攻撃が始まった。[183]

 政治学者のセイオム・ブラウンは、ガルティエリがフォークランド諸島を侵攻するに至った背景には、カークパトリックやレーガンらが軍事政権を評価し、支援を与えていたことがあると指摘する。ガルティエリはイギリスからフォークランド諸島を取り戻すための侵攻は、既成事実として許されるものだと認識していたであろうが、その期待はアメリカによって裏切られたというのである。[184]

 ヘイグ国務長官はイギリス、アルゼンチン双方との調整を行っていたが、カークパトリックはあくまで直接関与しない姿勢を見せていた。当時国務長官であったヘイグは、4月8日から20日までの間、ロンドン、ブエノス・アイレスを「シャトル外交」で何度も訪問し、紛争を避けて仲裁する道を探っていた。この間、カークパトリックは国家安全保障会議(NSC)アドバイザーのウィリアム・クラーク、CIA局長のウィリアム・ケイシー(William J. Casey)とともに、アメリカは準中立的立場(semi-neutrality)でいることが望ましいと表明していた。ガーソンによれば、こうした背景には、アルゼンチンは、アメリカがコントラを支援する上で役に立つこと、アルゼンチンの背後にはすべてのラテンアメリカが勢ぞろいしていること、アメリカの中立性、もしくは準中立性はヨーロッパ勢力とラテンアメリカを引き離しておくという目的を持ったモンロー・ドクトリンやパン・アメリカン同盟を考慮しても首尾一貫していることなどがあった。[185]

カークパトリックの考え方は、ラテンアメリカを重視する他の人々にも共有されていた。マックス・ヘイスティング(Max Hastings)とサイモン・ジェンキンス(Simon Jenkins)は「アメリカにとって、数多くの国家が共産主義に脅かされている南米において、ようやく勝ち取った新たな立場を、フォークランド紛争のために犠牲にすることは、愚かな行為である」と述べている。[186]ガーソンによれば、こうした視点はNSCでは好評だったが、国務省からは米英の強力な同盟の戦略的重要性を損なうものだとして、ひどく批判された。[187]

 後に、カークパトリックはフォークランド紛争について、明らかにアメリカが良好な関係を維持しようとしている2ヶ国を巻き込んだだけでなく、アメリカが特に重要な地域だと考えている西半球が巻き込まれたので、非常にセンシティブな出来事であったと述べている。また、アルゼンチンは1947年に締結された米州相互援助条約(Rio Treaty)にある条項に訴える恐れもあったと述べている。カークパトリックによれば、アメリカの安全保障上の利益のために、この米州相互援助条約がいかに重要であるかということが、長い間無視されてきたことが問題であった。[188]AEIでフェローを務めたジェフリー・スミス(Geoffrey Smith)によれば、カークパトリックはフォークランド紛争について、アメリカの国益を第一に考えるとき、ラテンアメリカとの良好な関係を維持することはアメリカにとって不可欠なものであること、イギリスの主張するフォークランド諸島の主権は疑わしいものであること、イギリスと友好関係があるからといって、アメリカとアルゼンチンの同盟が崩壊することになってはいけないと述べていた。[189]

 フォークランド紛争をきっかけに、レーガン政権の「自由世界(Free World)」との友好関係を復活させるという戦略には、かげりが見えてきはじめた。アルゼンチンはアメリカの仲裁を執拗に妨げていたが、レーガン政権はフォークランド奪還に動いたイギリスのサッチャー首相を支持するしかなかった。このレーガンの決定によって沸き起こったのが、ラテンアメリカにおける反米の嵐である。この一連の出来事によって、レーガン政権はラテンアメリカだけでなく、世界中の反共独裁国家を本当に支援する意思があるかどうかの判断を迫られることになった。[190]さらに言えば、レーガンは本当にカークパトリックの理論的フレームワークを追求する覚悟があるのかどうかの決断を迫られたのである。

 スミスによれば、アルゼンチンとの関係を重視すべきであるというカークパトリックの主張は一定の説得力を持っていたので、アメリカはイギリスを支援すると決めた際にも、実際にある種の恐怖を感じずにはいられなかったはずであるという。国務省のラテンアメリカ担当者たちが、イギリスを支援することでラテンアメリカ諸国との関係を傷つけてしまうことを懸念していた。[191]

 戦闘は同年6月14日にアルゼンチン側が降伏するまで続いた。この紛争の結果として、ラテンアメリカ諸国の連帯意識や、反米感情が高まった。しかし、根本的な経済問題、債務問題交渉などが悪化してしまう。[192]アルゼンチンの債務問題は深刻なものであった。1976年には国の債務が、年間輸出額の2倍に相当する80億ドルだったのが、83年には軍備増強や不透明な入札により工事が完了しなかった公共事業の拡大、公社や軍需産業の肥大化が進んでいた。これに止めを刺したのがフォークランド紛争の戦費負担増で、債務は約6倍の450億ドルにまで膨れ上がった。[193]

 

(2) 大韓航空機撃墜事件

 

 1982年9月1日、大韓航空007便が269人の乗客とともに、ソ連の戦闘機に撃墜されるという事件が起こった。レーガン政権としては、同年7月16日から国務長官になっていたジョージ・シュルツ(George P. Shultz)は直ちに会見を行い、アメリカがこの攻撃に対して激しい嫌悪感を抱いていることを表明した。[194]

 多くの証拠があったにもかかわらず、ソ連は007便撃墜の責任を認めなかった。ソ連の報道では、確認できない飛行機が、航空灯を点灯しないままソ連の領空に侵入し、ソ連の迎撃機による無線信号にも一切反応がなかったのだと伝えられていたという。そして、ソ連の迎撃機は、「侵入機」の飛んでいく方向へ警告のための威嚇射撃を行ったが、侵入機はソ連と日本海の境界線へと向かっていったとの報道がなされた。[195]

 この事件に際して、レーガンは強い口調でソ連を非難した。9月5日の国民に向けたテレビ演説で、レーガンはこの攻撃は「人道に対する犯罪」であるとし、「ここに(ソ連の迎撃機のパイロットが、標的が撃墜されたことを確認していたことを示す)テープの一部がある。我々は明日の国連安全保障理事会において、これを全て再生するだろう」と述べた。[196]アメリカ国民の目は、国連におけるカークパトリックに向けられることになった。

 翌6日、国連安全保障理事会において、カークパトリックはソ連の側に非があるという主張を行った。カークパトリックは、ソ連のパイロットが20分前から007便を確認していたこと、警告のための威嚇射撃などを行わなかったこと、007便との意思疎通を全く図ろうとしなかったことなどを指摘し、ソ連が意図的に撃墜したものだと述べている。[197]これは公開したテープの中で明らかにされた。そして、ソ連側が007便をアメリカの偵察機と勘違いしたのではないかという指摘に対しても、アメリカはソ連の上空で偵察機を飛ばしていないため、説得力がないものだと述べた。[198]

 12日の国連安全保障理事会で、ソ連を非難する決議の採択が行われたが、ソ連は当然のことながら拒否権を行使した。しかし、この行動には意図した効果があったという。ソ連がどんなにひどい行いをしても、国連の大多数がソ連を守ってくれるという構図はもはやなくなったからであった。また、世界がソ連の行動を再び注視したことに意味があったという。[199]カークパトリックがレーガン政権で非常に重要な役割を果たしていたとされるのは、こうした情報主導の戦略を担っていたからであった。[200]

 ICAO(国際民間航空機関:International Civil Aviation Organization)は、事件についてさらに詳しく調査を始めていた。しかしながら、ソ連はICAOの調査チームを入国させず、調査に協力する様子を見せなかった。ICAOが最終的に下した結論は、進入してきた民間機を撃墜する権利まで含めた領空に及ぶ完全かつ独占的な主権が存在するというソ連の見解に、疑義を唱えるものであった。ICAOは迎撃という行為は、侵入によって現実に切迫した危険が生じる場合のみ適切であるとしていた。[201]カークパトリックはこの事件について、ソ連の責任を徹底的に追及する役割を果たしたのである。

 

(3) グレナダ侵攻

 

 1983年10月25日、アメリカは中米にある左翼政権の小国グレナダを侵攻した。ここでは6日前に左翼政権が樹立されていた。レーガンは25日の朝、この侵攻は1000名にも及ぶアメリカ人を含めた罪なき人々の命を守ること、さらなる混沌を防ぐこと、グレナダの島に法秩序と政府組織を復興させることが目的であるとの声明を出した。[202]彼が守るべきだと主張したアメリカ人とは、島の病院で医療活動に従事する医学生のことであり、彼らの救出が侵攻の目的とされていたのである。そして、レーガンはこの侵攻がカリブ近隣7ヶ国の兵士を含む多国籍軍であるということを説明した。事態が沈静化すると、アメリカが近隣の小さな新興独立国に圧力をかけて、わずかに数十名の兵士を参加させていただけであったこと、医学生の現地協力はアメリカ側の意思でなされ、グレナダ側に人質の意図が希薄であったことなどが明らかになる。[203]

 カークパトリックと彼女に影響を受けたレーガンの信念を証明することになった出来事こそが、グレナダ侵攻であった。グレナダ侵攻に際して、政権内にはカークパトリック以上にアメリカの軍事力の目的について語った人物はいなかった。カークパトリックの世界観では、膨張する全体主義に直面する中では、国連憲章によって中立性を押し付けられる義務も存在しないという。[204]したがって、彼女の理論によれば、グレナダ侵攻は国連憲章によって制約されるべきものではなかったのである。

グレナダ侵攻は、東側諸国に接近して経済関係を樹立した左翼グレナダ政権を崩壊させることが主目的であったが、アメリカ側は侵攻の理由を「アメリカ市民の保護」であると押し通した。[205]グレナダでは1979年3月13日にモーリス・ビショップ(Maurice Bishop)がクーデターを起こして政権を樹立したが、[206]1983年10月19日に再びクーデターが起こり、ハドソン・オースチン(Hudson Austin)を首班とする軍事革命評議会(Revolutionary Military Council)による新たな共産主義政権が誕生した。[207]レーガン政権は、侵攻の理由として、このキューバの支援を受けた左翼政権の成立によって、カリブ海地域が不安定化してしまうことを挙げていた。[208]他の東カリブ海の国々は、グレナダが発展することは、自分たちの国にとって安全保障上のリスクとなると考えていたとガーソンは指摘している。[209]

カークパトリックは、カリブ海地域の重要な国が、「テロリスト」によって脅かされていると考えていた。カークパトリックによれば、グレナダは小国ではあるが、軍事力と資源があるため、カリブ海地域全体の安全に影響を与える重要な国であった。その例として、グレナダの人口はジャマイカの20分の1ほどしかないが、グレナダ軍の規模はジャマイカ軍の1~1.5倍ほどの規模であることを指摘している。そこに「テロリスト」がやってきてカリブ海地域のすべての国の安全を危険にさらしているというのである。[210]

 侵攻翌日の26日、カークパトリックはガーソンに「グレナダ侵攻作戦に関して、国際法上最も強力なケースを考えてほしい」と告げた。カークパトリックにはレーガンが考える以上の軍事作戦を展開する心積もりがあったのである。[211]

アメリカは作戦名「緊急の激怒(Urgent Fury)」という、上陸から4時間以内に完了させる計画を立てていた。しかし、アメリカの圧倒的な兵力と武器にもかかわらず、侵攻と制圧は数日経過しても完了せず、アメリカを中心とした侵攻軍側に多大な死者、負傷者を出した。他方、グレナダ軍の掃討を「魔女狩り」と称し、投降する兵士までも無差別に撃ち殺した結果、グレナダ側の犠牲者は1000人を超えたといわれる。[212]

 グレナダ侵攻に際して重要であったことは、国際法上の問題ではなかったとガーソンは指摘している。問題はグレナダがアメリカに友好的な勢力であり続けてくれるかどうかであった。彼によれば、カークパトリックは様々な場所で、アメリカは世界中に自由をもたらす手助けをする上では、まったく言い訳はしないという点を強調していた。ガーソンによれば、グレナダ侵攻作戦がその唯一の例であった。[213]

 グレナダ侵攻の翌年の1984年は、国民的な祝賀ムードに象徴される注目すべき年となったとジョン・エールマン(John Ehrman)は論じている。というのも、レーガンが島嶼国の共産主義体制を転覆しようと決心したことが国民の多大なる支持を受け、その軍事作戦には欠点があったものの、結果的にはグレナダ侵攻がアメリカの潜在的な力を思い起こさせるものになったからである。[214]

 チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)によれば、グレナダ侵攻作戦を含めた中米地域での反共主義の追求は、冷戦を理由に自国よりもはるかに弱小な国に対する侵略的な行動を正当化することを意味していた。また、グレナダをはじめとした中米地域は、共産主義を求めるというよりは、長期にわたってアメリカの企業を支援してきた寡頭政治に対する反発によって反乱が起きたのであった。[215]

 ラテンアメリカにおけるソ連の影響力に対抗する上で、アメリカは直接的に紛争で軍事力を行使しないというのがレーガン・ドクトリンの原則であった。グレナダはラテンアメリカ地域において、唯一アメリカ軍が配置されたケースであった。[216]レーガン・ドクトリンを考慮すると、グレナダ侵攻は例外的な位置づけとなる。カークパトリックがグレナダ侵攻で自らの信念を示し、レーガン・ドクトリンの原則は変更されたのである。

 

3.    国連大使としてのカークパトリック

 

 レーガンは「アメリカ外交を再び活気づけ、ソ連に対してもっと攻撃的なスタンスで望むべきである」と考えていた。そんな中、カークパトリックの論文「独裁と二重基準」は共和党の大統領選挙チームから注目を浴びていた。[217]政権発足後、自身の方針と合致する論文の中身に魅力を感じたレーガンは、カークパトリックを閣僚ポストである国連大使に任命した。

一方、カークパトリック自身は、大統領選挙の年である1980年の秋にはレーガン候補を支持する決心をしていた。カークパトリックの論文がレーガンの共産主義との対決路線と合致した瞬間であった。

 

(1) 国連大使任命の経緯

 

 カークパトリックが1979年に発表した「独裁と二重基準」は、なぜアメリカが「権威主義体制」を支援する一方で、「全体主義体制」には容赦なく対決姿勢を示す必要があるのかについて述べられていた。この論文がロナルド・レーガン大統領候補の国家安全保障アドバイザーであったリチャード・アレンの目に留まり、彼はこれをレーガンに紹介した。[218]

論文を読んだレーガンは、カークパトリックの論理に魅了された。[219]レーガンはカークパトリックに選挙戦にて外交政策のアドバイザーになってほしいとの申し出を行った。[220]阿部康典によれば、カークパトリックは当時のことを「民主党ではさっぱり聞いてくれない私たちの主張に、共和党の大統領候補が耳を傾けてくれただけでなく、その後も礼を尽くして協力を求めてきた。その人が現実に大統領に当選したら、米国民の一人として、どうして協力依頼の要請を断ることができるだろうか」と振り返っている。[221]

 カークパトリックは民主党員であったが、いかにも共和党の価値観を体現するレーガン政権の一翼を担っていた。これと同じような例として、共和党・フォード政権で1975年7月から1976年2月まで国連大使を務めたダニエル・パトリック・モイニハンがいる。[222]なぜ、民主党にとどまっているのかと聞かれ、カークパトリックは「私は労働者支持だし、組合の支持者であるからだ」[223]と答えたという。

 またカークパトリックは「共和党は福祉国家が解決しようとした問題に対して十分な熱意を示していない。共和党は社会全体の福祉を解決していくビジョンをもっていない」[224]とも述べていた。やはり福祉問題などの国内の政治課題については、共和党に対して懐疑的視点を持っていたことがわかる。

 熱心な民主党員であったカークパトリックを、共和党のレーガン政権に参加させるきっかけを作ったのは、皮肉なことではあるが、民主党のマクガヴァンとカーターであったといえよう。なぜなら、カークパトリックは民主党員として両者に失望を感じていたからである。1960年代末から70年代初期にかけては民主党内で改革を行おうとする「ニュークラス」を敵対視し、1970年代末にはカーター政権による人権外交によって、彼女が守るべきだと考えていた親米独裁国家が次々と革命政権の手に落ちていったのであった。外交問題でのスタンスの違いが、カークパトリックを共和党政権の協力者としたのである。

 

(2) カークパトリックと国連への評価

 

ではカークパトリックの国連観はどのようなものだったのだろうか。政治学者のセイモア・マックスウェル・フィンガー(Seymour Maxwell Finger)が行ったインタビューの中で、彼女は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連児童基金(UNICEF)、世界保健機関(WHO)、国連食糧農業機関(FAO)などは建設的なものであるが、政治や安全保障の問題に関しては、国連はネガティブな影響をもたらすだけだと発言していた。特に国連総会における議論がイデオロギー色の強いものであること、諸決議に関しては妥協も交渉もする余地がないことを指摘していた。[225]また、彼女は国連総会のメンバーは大半が非民主国家であるため、国連総会での多数派を占める議決であっても、アメリカやその他の民主国家の権利を奪うことはできないと主張している。[226]

また、カークパトリックは当時の国連事務総長であり、安全保障理事会の批判を行ったデ・クエヤル(Javier Pérez de Cuéllar)に一定の評価を与えている。[227]評価のきっかけとなったのは、1982年4月、シリアやPLO(パレスチナ解放機構:Palestine Liberation Organization)が主導して、国連総会からイスラエルを追放しようとした動きであった。決議の中身は「イスラエルの地位を見直す」ものであった。このとき、アメリカはこの決議に強く反対したが、デ・クエヤル国連事務総長も陰でこれを支える側に回ったという。デ・クエヤルと第三世界の国々が反対を表明したため、アラブ諸国は決議の内容を修正せざるを得なくなった。[228]また、デ・クエヤルは国連安全保障理事会が「国際紛争を解決するために決定的な行動を取れないことが多い」[229]と疑義を呈したことで、カークパトリックの評価を高めることになった。

 国際関係論を専門分野とする花井等によれば、カークパトリックは1982年に以下のように国連への苛立ちを表明している。「国連におけるアメリカの影響力の欠如は、レーガン政権あるいは私に対する世界的な諸々の急激な反発を反映するものではない。事実は、われわれが10年以上、国連で実質的な力を失っているということである。…われわれは一票を持っている。バナツ(南太平洋にある)は一票を持っている。この種の原則は力と責任の分離を醸成している。何故ならば、決定したことを実施する資質を有する若干の国家と、決定するための投票権を有する国家とは同一ではないからである。…国連におけるアメリカの影響力の欠如は、国際政治を実践する上でのわれわれの技術の欠如に起因するというのが、私の仮の結論である。この結論はまた、世界におけるアメリカの影響力の低下の本質的部分でもある。」[230]

 カークパトリックは国連においてイスラエルがスケープゴートにされることに反対していた。その例として、1981年2月に国連人権委員会(UN Human Rights Commission)がイスラエルを「戦争犯罪」国家として非難したことを挙げている。カークパトリックは、もはやカーター政権時代のように、アメリカが形式的な反対意見を述べるだけで終わることはないとしている。その例として、レーガン政権では前出の人権委員会において、マイケル・ノヴァック(Michael Novak)委員が「非常に多くの憎しみ、非常に多くの嘘、そのような下劣な人種差別、そのような卑劣な反ユダヤ主義-これらすべてが人権という神聖な名前の下に存在している」と怒りを表明したことを挙げている。[231]

 カークパトリックは国連大使就任から2年半の間に、100名もの外相や国家元首と会い、世界中を駆け回ったことをガーソンは強調する。彼女は「指示」に従って動くだけではなく、自身でアメリカの外交政策を構築したかったのである。国連にはあらゆる下劣さと歪曲などがあるため、カークパトリックにとっての国連とは、外交官と会い、彼らの野望を理解し、彼らが行動を起こすさまを観察し、相違点について交渉するためだけに存在する場所であった。[232]

 グレナダ侵攻の際、膨張する全体主義に対抗する上では、国連憲章による制約を受けるべきではないと主張していたカークパトリックであったが、その理由について説明している。彼女は国連憲章が中立性に乏しいことを指摘していた。1991年にカークパトリックとガーソンがともに書いた論文では、「ソ連の指導者たちは、社会主義こそが適切な(そして避けられない)政府の形式であるという確信、そして、国民解放運動、プロパガンダ、偽情報、ときには直接的な軍事力の行使などを通じて、他国に社会主義を促進することが責務であるという確信を放棄していない」こと、他方で「アメリカの指導者たちは、正統性のある政府とは、個人の権利や被統治者の同意、そして、すべての人々に当然そのような政府を与えられるべきであるという信念に対する尊敬の上に成り立っている」のであり、したがって、「国連憲章は両者の観念からすると中立性が保たれていない。国連憲章は民主的な価値と習慣に傾倒している。ある国家が民主的価値・習慣が抑圧されている状況を手助けするために軍事力を行使したり、経済的・軍事的援助を与えたりしたら、他の国々がその不均衡を正したり、民主的価値の強制的な抑圧を止めさせるということは自由にできる」という主張がなされている。[233]つまり、米ソの価値観がそもそも異なっているので、その両国に「同じ価値観」の国連憲章を適用できるはずがないという主張である。カークパトリックは国連の機能が、国連憲章の目的から逸れており、国連は紛争を解決するよりもむしろ、悪化させていると考えていたという。[234]

 

(3) カークパトリックによる新方針

 

 国連大使としてのカークパトリックは前任者のアンドリュー・ヤング(Andrew Young)とは異なっていた。その大きな特徴はアフリカ諸国との関わりであった。ヤングはアフリカ諸国に対しては好意的に接していたため、アフリカ諸国は可能な限り、彼とアメリカ政府を助けようと努力してくれたのである。しかし、カークパトリックはそうではなかった。[235]

逆に、それまでの国連大使の中で、カークパトリックほどイスラエルにとって力強い支持者はいなかった。彼女はためらうことなく、国連安全保障理事会で拒否権を行使した。というのも、彼女はイスラエルが国連で「不当に扱われている」と考えていたからである。また、試案された決議に変更を加えるために、拒否権を行使することもあった。イスラエルがイラクの原子炉を攻撃した際の決議案が、その顕著な例である。[236]

 カークパトリックはレーガン政権内ではネオコンとして、国連においては力強くアメリカの価値と国益を主張していた。彼女の意見は、典型的な国連大使たちとは突出して異なる部分があった。それは大統領に直接アドバイスを与えるということである。[237]

 カークパトリックは閣僚ポストにあったため、国連大使という立場でありながら、大統領と直接話をすることがよくあった。当時国務長官を務めていたシュルツにインタビューしたマーク・ラゴン(Mark P. Lagon)によれば、レーガンはしばしばカークパトリックにアドバイスを求めることがあったという。また、同様にハーバード大学の歴史学者で、NSC(国家安全保障会議)に1981年から1983年まで所属したリチャード・パイプス(Richard Pipes)にインタビューしたラゴンによれば、レーガンはNSCのミーティングにおいて、カークパトリックに細心の注意を払っていたといい、カークパトリックが話し始めると、レーガンは非常に注意深く聞き始めていたという。[238]

 カークパトリックはレーガン・ドクトリンの目標とは、ブレジネフ・ドクトリンの嘘を暴くことであると考えていた。ブレジネフ・ドクトリンは、共産主義体制が永久にソ連と同盟を組むということを期待していた。ブレジネフ・ドクトリンはソ連の正統性の源泉であり、国外においては抑圧の口実を与えるものとして、国内では粛清の口実となっていた。カークパトリックは、レーガン・ドクトリンを公式化するという非現実的な役割以上のことを行う役目を果たしていたのである。[239]つまり、本来レーガン・ドクトリンは第三世界の「自由の戦士」に支援を与えることを指していたが、カークパトリックによればそれだけでなく、ソ連の様々な矛盾や嘘を暴いていくことで、ソ連の正統性を崩壊させることがレーガン・ドクトリンの最終目的だったのである。

 レーガン自身がカークパトリックからアドバイスを受けることが多かったこともあり、レーガン政権内では、国連大使であるカークパトリックにNSCのポストを与えようとする構想も存在したが、実現せずに終わった。レーガンは「保守派支持層は、NSCのポストをジーン・カークパトリックに与えるよう働きかけてきた」というが、「私は彼女を高く買っていたものの、彼女とジョージ・シュルツの間は何やら折り合いが悪そうなのに気づいていた。そこで私はこのポストをバッド・マクファーレン(Robert "Bud" McFarlane)に与えることに決めた」と述べている。[240]この頃、カークパトリックはNSCのポストを与えられなければ、辞任するのではないかという情報がメディアに溢れた。[241]

 1984年の大統領選挙が近づいていたとき、ガーソンはカークパトリックに更なる期待を持っていた。ガーソンはソ連による大韓航空機撃墜事件などを受けて、アメリカは軍備管理や、地域的紛争、テロリズムの問題などを解決するだけでは、ソ連に対して責任を持って対処したことにはならないと述べていた。84年の大統領選には、レーガンはもっと穏健な候補として出馬してほしいとマイケル・ディーバー(Michael Deaver)大統領補佐官は考えていた。しかし、ガーソンはディーバーの願いとは逆に、米ソ関係はより悪化していくと考えていた。こうした中で、レーガン政権に入って以降、初めてカークパトリックは草の根の大規模な支持を獲得してきたのだという。[242]ガーソンが、これからの時代もレーガン大統領は対ソ強硬路線を貫き、カークパトリックのような強硬派が必要とされると考えていたのだとすれば、その後の歴史は思わぬ方向に向かうことになるのである。

 

3章     レーガン政権中期から冷戦後における変化

 

1.    カークパトリック・ドクトリンの放棄とレーガン人権外交

 

(1)レーガン外交の変容とカークパトリック・ドクトリン

 

1970年代のカークパトリックの著作では、「政治体制が自らゆっくり発展していくようにするのではなく、改革を通じて政治的に発展するように操作すること」に対しての不信感が大きくなっていったのが明らかである。[243]カークパトリックは、「急激な社会の変革」に対する嫌悪感、楽観的な民主化論への懐疑的態度、そして、左派全体主義体制の強さに対する確信を持ち合わせていた。これらの思考様式は、冷戦崩壊前後に注目されることになるネオコンの1人、フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)とは明らかに異なる点である。事実、彼はカークパトリックの悲観主義を批判的に論じている。[244]

カークパトリック・ドクトリンに基づいて、韓国、チリ、エルサルバドル、アルゼンチン、ブラジルなどの人権抑圧を二義的なものとして無視し、アルゼンチン、チリ、グァテマラ、ウルグアイなどには軍事援助を行ってきたレーガン政権であったが、1983年後半から1985年にかけて、レーガン政権もまた人権外交を行うようになっていく。1983年のフィリピンにおけるベニグノ・アキノ(Benigno Aquino)大統領の暗殺事件を批判し、エルサルバドルやハイチなどの人権抑圧にも批判をし始めたのである。[245]

 また、レーガン大統領は1983年にNSCにウィリアム・クラークを送り込んで以降は、カークパトリックをNSCのアドバイザーに参加させようと努めなかった。これは、この頃にはすでに、レーガン自身がカークパトリックのようなイデオロギー的な信念の強い人物よりも、ワシントンの伝統的な外交エリートに優先順位を置いていたことの現われでもあった。[246]

 

(2) レーガンによる「民主主義のための全国基金」創設

 

 レーガン人権外交を特徴付けるものとして、「民主主義のための全国基金」(the National Endowment for Democracy:通称NED)がある。これは、レーガン政権は中米諸国が民主化推進の中心になる勢力と判断し、これを財政的に支援するために作った基金であった。[247]これはもともと民主党議員が提唱したものであった。1983年に議会はその設立を認め、レーガン政権は初年度3100万ドルを支出した。基金の目的は、海外諸国における民主主義発展のためのインフラストラクチャーの整備を助けることであった。しかし、基金の助成金が、この趣旨に反してフランスやイスラエルの保守団体の援助に使われたため、議会は次年度から基金への支出を大幅に削減することになった。[248]この基金は1980年代前半に、フォード財団やロックフェラー財団と同じように、ポーランドに誕生した労働者組織「連帯」への資金援助を行った。[249]これは「連帯」が民主化運動の鍵となると考えられたからである。

 1984年頃からレーガン政権の人権外交が質的に転換していくうえで、一定の役割を果たしたのがこの基金であった。レーガン政権の一期目の半ばを過ぎる頃より、国際的な人権問題に関心のあるアメリカ政府や議会の中で、いくら人権抑圧国の人権侵害を声高に非難しても、人権侵害は一向になくならないではないかといった従来の人権外交のやり方に対する失望感が高まっていた。それに代わって、本当に人権侵害をなくそうとするならば、そのようなことができにくい国内環境を整備することのほうが先決であって、人権抑圧国の民主化と自由化を積極的に推進したほうが、人権状況の実質的な改善につながるという意見が聞かれるようになった。[250]

NEDは民間の非営利団体であるが、その運営資金は議会の承認を必要とする米国情報局(United States Information Agency:通称USIA)と米国国際開発庁(United States Agency for International Development:通称USAID)からの補助金が出る仕組みになっている。よってNEDは毎年年次事業報告書を議会に提出する義務を負っており、完全なる民間団体ではない。[251]

 NEDは人権抑圧国の人権侵害を取り上げて非難したり、人権擁護活動を行うことはない。それよりも、一党独裁国や軍事政権下にある国で民主化や自由化を唱えている学者、作家、ジャーナリスト、政治家、ビジネスマン、研究機関、政党、政治団体、企業団体、労働組合、選挙監視機関などに対して、資金援助を行っている。NEDには、人権抑圧国の民主勢力の活動を援助することで、民主化と自由化の機運が盛り上がれば、その国の人権状況は少しでも改善されるに違いないという期待が込められようとしていたのである。[252]

しかし、NEDの実際の姿は、選挙の際に反共派の候補を国際的に支援することにあったという指摘もある。民主主義へのイニシアチブを取るという姿勢は、人権侵害がはなはだしい友好的独裁体制批判をためらっていることを覆い隠すという役割も担っていた。その例として、アルゼンチンの「汚い戦争」がもたらした人権侵害の実態、軍政の全体主義的性格が明らかになってもなお、レーガン政権がアルゼンチンに軍事援助を与えていたことや、ニカラグアの反サンディニスタ派が人権擁護に努力していると評価して、軍事援助を議会に要請していたことなどがある。[253]

レーガン外交が人権擁護にシフトしていった時期は、NEDの創設時期と重なるものであった。しかし、NEDが反共勢力への支援を覆い隠す役割を果たし、軍事政権に援助を与えていたことを考慮すれば、やはりレーガン政権初期からの本質は変化していなかったとも言えよう。

 

(3)レーガン政権とカークパトリック・ドクトリンの放棄

 

 1983年11月、レーガンは韓国を訪問し、積極的な民主化支援の動きを見せるようになった。レーガンが最も重視していた韓国における人権問題は、金大中に関わるものであった。1984年、韓国では民主化の動きが始まっており、病気治療のためにアメリカに滞在していた金大中が年内の帰国を示唆したのである。[254]

 レーガン政権にとって、金大中の帰国は、全斗煥大統領から安全を保障するという確約がなければ危険であると判断していた。前年にはフィリピンのベニグノ・アキノ大統領がマニラで暗殺されるという事件があったため、レーガンはその二の舞だけは避けたいと考えていた。もし、金大中が暗殺されるようなことがあれば、「平和的な政権交代」の実現が難しくなるからであった。[255]

 このような背景があったため、レーガンは韓国に対して「声高な人権外交」を展開することになる。金大中が帰国の決意を表明した1ヵ月後の9月11日、国務省スポークスマンが、「金大中の帰国に際し、身の安全を韓国政府に要請した」と異例の発表を行った。レーガン政権としては、金の身の安全に重大な関心を持っていることを表明したのである。[256]

同じ頃、レーガンは反共主義のもと抑圧的な軍政がひかれていたピノチェト政権下のチリに対しても、人権外交を展開する。カーター時代に停止されたチリへの援助を再開していたレーガン政権であったが、1983年頃から控えめではあるが人権擁護と民主化を訴えるようになった。大不況下にあったチリでは失業率が3割を超え、83年3月に軍事政権が「経済非常事態」を宣言した。この頃から反政府組織の勢いが増していった。そのような中でレーガンがチリに民主化を求めようとしたのは、ニカラグアとキューバに民主化圧力を加えて左翼政権を崩壊させる戦略的必要があったためでもある。[257]

 こうしてレーガン政権の人権外交を概観すると、やはり1983年から84年にかけて、カークパトリック・ドクトリンの放棄とも読み取れる行動を確認することができる。もし、カークパトリック・ドクトリンを採用していたならば、独裁体制の韓国やチリに民主化を迫ることはなかったはずだからである。

 レーガン政権は1983年から1985年末にかけて、人権外交を「静かな外交」から「声高な外交」へと変容させていった。[258]声高な外交を特徴付けるものとして、レーガンが1985年12月に行った世界人権デーでの演説が挙げられる。ここでレーガン政権の人権外交は最高潮を迎える。レーガンはここで南アフリカやフィリピンを厳しく批判した。[259]レーガン政権一期目の1981年には、南アフリカの軍と諜報機関の高官からアメリカの議会、諜報機関、そして国連大使のカークパトリックに、反共主義を推進するための支援を要求してきたこともあった。[260]しかし、この頃までにレーガン政権にとって南アフリカは、厳しい批判の対象となっていた。

レーガン政権の人権外交とカークパトリック・ドクトリンとは対立するものであったが、彼女以外のネオコンには人権外交を推進していた者もいる。この当時のレーガン人権外交の推進役は国務省の人権局であったが、ここには後に第二世代のネオコンとして分類されることになるエリオット・エイブラムズが所属していたのである。[261]

 1985年末におけるレーガン人権外交の変化は、チリ、ハイチ、フィリピン、南アフリカなどではっきりと確認することができるようになる。これらの国々では、独裁者に対して民衆が抵抗を強め、暴動が起こっていた。議会ではリチャード・ルーガー(Richard Lugar)上院議員やスティーブン・ソラーズ(Stephen Solarz)下院議員が、レーガン人権外交に対する批判を始めた。そして、レーガン政権は抑圧的な政権を支え続けるより、人権を擁護する方向に向かうほうが、アメリカの国益になるという結論に至った。[262]ルガーとソラーズは、大統領にフィリピンのマルコス政権とは距離を置くように強く要求した。[263]こうして、カークパトリック・ドクトリンはレーガン政権によって放棄された。

 

2.    東欧革命・冷戦崩壊にみるカークパトリック・ドクトリンの破綻

 

 カークパトリック・ドクトリン放棄の始まりは、1982年には既に現われていた。アメリカ外交史の第一人者であるウォルター・ラフィーバー(Walter LaFeber)によれば、それはカークパトリックが強く支持する軍事指導者が統治する「権威主義体制」のアルゼンチンが、近隣のフォークランド諸島を攻撃したときに起こったのである。彼女の願いとは逆に、レーガンはより近しく民主的なイギリスを支援したのである。さらに彼女の信念に反して、アメリカ政府高官らは、全体主義体制である中国との関係をより緊密にする必要があることに気がつきはじめていた。そして、フィリピンやハイチの権威主義体制が崩壊し始めた際、当初、レーガンは崩壊寸前のそれらの体制を補強しようとしたが、結局は―カークパトリックの警告にもかかわらず―シュルツ国務長官のアドバイスに従って、より代表民主制が根付いており、安定した体制を作るという目標を持って、両国の権威主義的指導者の排除に協力したのである。[264]これはカークパトリックの忠告を無視するものであった。

 ラフィーバーによれば、1985年にはカークパトリックのイデオロギーは機能しないものであると認識され、人気のないものになっていた。このように彼女の主張が見放されていった理由としては、特にアメリカが南アフリカ、フィリピン、そしてラテンアメリカなどの世界で最も抑圧的な指導者たちに支援を与えるものであったことが挙げられる。[265]

 

(1) 東欧革命による共産党政権の崩壊を迎えて

 

 ベルリンの壁崩壊、チェコスロヴァキアのビロード革命の余韻も覚めやらぬ1989年11月20日、カークパトリックは東欧における民主革命を全体主義の終焉であると捉えている。彼女によれば、東欧における全体主義の失敗は、亡命者たち、亡命を禁じられたユダヤ人(refuseniks)、ナショナリズムの高まりと教会への出席、多種にわたる抵抗運動などを見れば明らかであった。そして、包括的な計画経済の失敗は、経済の停滞、商品の欠乏、生活水準の低下などから明らかであった。しかし、彼女によれば東欧革命に至るまで、共産主義の指導者たちはその事実を受け入れようとしなかった。[266]

 カークパトリックは、全体主義の計画を放棄した共産主義国家は、他の東側諸国に比べれば遥かに抑圧の少ないユーゴスラヴィアのような国になるだろうと述べている。そして、それはピノチェト政権下のチリのようになるだろうと論じていた。ただし、チリには民営のメディアが存在し、効率的な経済が存在している点はユーゴスラヴィアとは決定的に異なると述べている。[267]カークパトリックは、東欧革命の時代になっても、東欧諸国にはラテンアメリカの軍事独裁政権下の国と同じくらいの自由しか存在しえないであろうと考えていたのである。

カークパトリックはポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」の創設者であるワレサが、西側陣営からの援助を求めたことを高く評価した。ワレサは政治、外交のプロフェッショナルではなかったが、ポーランドにおける共産主義の失敗とそれがもたらした悲惨な状況を、まさに政治的に、外交的に語ったというのであった。彼女によれば、このとき西側陣営の諸政府は、援助が援助たりえるのは、自由なマーケットと自由な社会の制度を強化する目的で行われるときのみであるということを改めて認識したことになる。[268]

 しかし、実際には「権威主義体制の民主化は可能である一方、全体主義体制は民主化を期待できない」というカークパトリック・ドクトリンにおける主張は、1989年のあらゆる東欧革命によって破綻していった。ただし、カークパトリック・ドクトリンの前提はずっと以前から崩れていたのである。ハンガリーやユーゴスラビアの共産主義体制においてもかなりの自由化があったのであり、むしろ、右派独裁の権威主義体制こそがまったく自由化を行わなかったという指摘もあり得るのである。[269]

 のちにフランシス・フクヤマはカークパトリックの「独裁と二重基準」における右派独裁主義と左派全体主義の違いに関する議論を引き合いに出し、全体主義国家の強さを信じる理由は、民主主義に対する自信がないからであると説明した。共産主義政権の民主化の可能性は言うまでもなく、いまだに民主主義を達成していない第三世界の国々が、今後、民主化に成功することはありそうにないとするカークパトリックの見解には、民主主義への自信のなさが示されているという。[270]

 カークパトリックは「いつでも、どこでも、どんな状況であっても、政府を民主化することができる」という考えは誤りだとしている。それはこれまで独裁体制から民主体制への移行に多かれ少なかれ成功した国々を見れば明らかであり、多くの政治学者が、民主的制度は複雑な社会、文化、経済状況に依存しているため、確立し維持することは難しいということを認めているからだとカークパトリックはいう。[271]しかし、フクヤマは、カークパトリックの結論、つまり「第三世界のなかに民主化の中心地が存在しうるという発想は、1つの罠であり幻想に過ぎず、経験が示すとおり、世界は右派独裁主義と左翼全体主義に二分されている」という考えは悲観的であるとして批判している。[272]

カークパトリックとフクヤマの民主化に対する認識は、根本的に異なるものであった。カークパトリックのそれは、「急激な社会の変革」を懐疑的に見るというところに由来している。ところがフクヤマはそのような懐疑的視点を持つこと自体が、悲観的であり、民主主義に対する自信の欠落だというのである。だからといって、カークパトリックが民主化それ自体を否定していたわけではない。彼女は民主化には多元的な社会、正しい政治文化、そして何よりも「時間」が必要だと考えていたのである。[273]民主主義に対する自信がないために、安易に民主化を期待しないのだというフクヤマの指摘は、カークパトリックの考えの本質を捉えているとは言い難い。

 

(2) ニカラグア・サンディニスタ政権の崩壊まで

 

 ニカラグアにおいては、サンディニスタ革命政権の崩壊へと繋がる萌芽が、1980年代には既に出現していた。というのも、サンディニスタ政権成立以降も、内部には意見対立や中間層の革命政権への批判があり、1980年には中道派グループが政権から離れていたからである。レーガン政権は中米諸国に革命が輸出されるという理由で、サンディニスタ政権への締め付けを行っており、1981年4月には同国への援助を完全に停止した。[274]

旧ソモサ派を中心に、コントラと呼ばれる反革命派が首都ホンジュラスなどを拠点として、ニカラグアに攻撃をかけて、戦闘が続いた。アメリカの支援を受けた反革命ゲリラとの戦闘が長引いたため、サンディニスタ政権は非常時体制を取り、非同盟、混合経済、複数政党制、少数民族自治などを盛り込んだ新憲法を発表した。この憲法は、87年1月に正式に発布され、国家再建委員会議長であったダニエル・オルテガ(Daniel Ortega)が1984年の総選挙の結果を受け、大統領に就任した。[275]

 レーガン政権によるサンディニスタ政権への締め付けが続く中で、ニカラグアの経済環境は急激に悪化していった。国際金融機関からの融資もストップし、サンディニスタ政府が、輸出向け農作物の生産を行う大土地所有者や民間経済部門の実業家と激しく対立して、外貨収入が急減し、流通市場の機能が麻痺した。[276]

ニカラグアにおいてサンディニスタが下野する以前の1987年に、カークパトリックは「もし、今回ニカラグアの指導者たちが、民主主義を続けると約束してくれれば、中米に民主主義と平和と発展が生まれるだろう。民主的なニカラグアは中米を軍事化し続けることはないし、エルサルバドルやコロンビアのようにゲリラが武装することもない」と述べ、さらに「コスタリカ、エルサルバドル、ホンジュラス、コロンビア、そしてアメリカも民主化されたニカラグアの政策を恐れる必要はない」と述べている。[277]カーター政権期においては頑なにニカラグアのソモサによる独裁政権を支持してきたカークパトリックであったが、この頃になると民主化が望ましいという見解を示すようになっていた。しかし、カークパトリックのこの指摘は、あたかも3年後のサンディニスタ政権の失脚を予測するかのようなものであった。

確かに、ニカラグアの国内情勢には、変化の兆しが見えていた。ラテンアメリカ域内での和平努力が実り、1987年8月には中米諸国の首脳がグァテマラに集まり、中米和平合意に調印した。その後、一気に和平機運が高まり、88年にはサンディニスタ政権とコントラとの間で武装解除などに関する合意がなされた。[278]

1990年2月に大統領選が行われ、現職のオルテガが野党国民連合(UNO)のビオレタ・チャモロ(Violeta Barrios de Chamorro)に大差で破れ、サンディニスタ政権は退陣した。彼女はニカラグア革命前に暗殺された反ソモサ系新聞『ラ・プレンサ』編集長チャモロの妻であった。4月には停戦合意が成立している。[279]5万7000人もの死傷者を出した内戦と貧困の蔓延した社会に、変化と活力がもたらされることを期待して、ニカラグア国民はサンディニスタ政権に見切りをつけた。その後、ニカラグアの内戦は事実上終結し、11年間に及ぶ革命政権時代は幕を閉じたのである。[280]

 1980年代後半になると、カークパトリックはニカラグアに民主化を期待していた。そして、実際に90年には革命政権が崩壊した。ニカラグア国内の経済状況が悪化し、サンディニスタ政権が力を失っていたことが背景にある。カークパトリックは以前に、民主化には多元的な社会、正しい政治文化、そして何よりも「時間」が必要だと述べていた。ニカラグアに民主化を期待した背景には、以上のような要素がニカラグアに根付いていたと彼女が判断したと考えられるのである。

 

(3) 東欧革命・冷戦崩壊後の世界とカークパトリック

 

 カークパトリックは右派独裁政権において、これまで民主化がある程度達成されたことを強調していた。その例としてカークパトリックは、イベリア半島(スペイン、ポルトガル、アンドラ、英領ジブラルタル)での民主主義的発展、ブラジルにおいて起こった第一段階の発展を挙げている。彼女によれば、イランやニカラグアにおいても、論争や参加の要素がさらに拡大していったのならば、同様の民主化が起こったであろうと述べている。しかし、アメリカの外交政策によって独裁国家を民主化することは、ほとんどできないと述べている。その理由は、革命以前のイランやニカラグアのような独裁国家の指導者が、家族や親戚、友人関係といった個人的関係で政権が支えられていたからであるという。指導者を支える基盤(foundation)まで根こそぎ排除したとしても、国民は民主化の方向へ向かうわけではないというのが彼女の結論であった。[281]彼女の主張によれば、右派独裁体制の民主化は可能ではあるが、そのためには多元的な社会、正しい政治文化、「時間」という要素が必要であった。[282]つまり彼女は、全体主義体制よりは右派独裁主義体制のほうが民主化の見込みがあると考えていたが、それ自体も安易に達成されるものだとは考えていなかったのである。

 松下洋によれば、ラテンアメリカにおいては、民族主義の後退と反米感情の緩和が起こった。これは民主化の進展と革命運動の退潮に起因するもので、革命運動を支えていた数々の理論も同時に後退していった。そして、対米関係では協調的姿勢が強まった。その理由は、単に民主的発展にのみ原因があるわけではなく、対外債務に対処するうえでアメリカを始めとする先進国との協力が不可欠であったことが挙げられる。松下が注目すべきだとしているのは、1980年代にアメリカが行った1983年のグレナダ侵攻、1989年のパナマ侵攻に対して、強い反米感情が起こらなかった点である。[283]

 しかし、こうした比較的明るい展望に反して、実際には、民主化以後のラテンアメリカは多くの問題をはらんでいることもまた事実であった。大串和雄は、ラテンアメリカ諸国の多くが、数々の危機を乗り越えながら、代表民主制を維持しており、純然たる権威主義体制に再び戻る可能性は小さいとしながらも、多くの国でその「民主主義」が貧弱なものとなっていることも指摘している。その要因を4つに大別すると、(1)人権侵害の存続、(2)文民統制の不徹底、(3)法の支配の不徹底、(4)強権的大統領統治と政治参加の低下、となる。特に権威主義体制に戻ることがあるかどうかというテーマと関連が深いと思われる文民統制の徹底については、興味深い指摘がある。大串によれば、1990年代の半ばにはもはや、権威主義体制への逆戻りはないと楽観する研究者が多かった。しかしこれは、軍が神経をとがらせる問題、特に過去の人権侵害責任の追及に、文民政権が手を着けないという前提の上に築かれた楽観的観測であった。軍の事実上の拒否権という代償と引き換えに、選挙民主主義体制が維持されていたという側面があったのである。[284]

 カークパトリックは、冷戦崩壊後においても、冷戦期に行ってきた右派独裁体制への支援は正当化しうるものであったと思わせる発言を行っている。彼女は、かつての右派独裁体制であった韓国、台湾、シンガポールといった国々がめざましい発展を遂げたということを挙げ、ソ連をはじめとする共産主義革命国家による近代化が効果的でなかったのであり、ソ連の経済は停滞し衰退していったという事実は認めざるを得ないとする主張を展開している。[285]経済発展が独裁体制下の抑圧を免罪するかのような主張であった。

 

3.    冷戦終結以後におけるカークパトリック

 

(1) カークパトリック・ドクトリンの再興

 

 フクヤマは著書『歴史の終焉』において、東欧の民主化のプロセスを必然のものであるとしていた。これは一面で、カークパトリック・ドクトリンを応用するものであると言ってよい。つまり、冷戦期において、右派権威主義体制には民主化・自由化を期待できる一方で、全体主義体制・共産主義体制においてはその希望は見出せないとしていたのがカークパトリックであったが、フクヤマはその両方に民主化・自由化の動きを見出せるとしていたのである。

他方、フクヤマは明らかにカークパトリックと異なっていた。というのも、フクヤマは共産主義をむしろ脆弱なものとみていたからである。フクヤマはイラク戦争開戦後に書いた論文の中で、ソ連のような全体主義体制は「内部に実質がともなっていない(hollow)ため、外部からの小さな圧力で崩壊してしまう」と述べている。[286]この主張はカークパトリックが冷戦期に行っていた主張とは正反対のものである。フクヤマは明らかにカークパトリックが主張していた全体主義体制・共産主義体制の安定性・非脆弱性を否定し、むしろ民主化は必然的であったという主張をしている。

 このようなねじれが存在したものの、カークパトリック・ドクトリンは対共産主義・全体主義体制に対して強硬路線を示唆するものであったが、冷戦後はこれが形を変えて再興したとみてよい。イデオロギーに重点を置くネオコンは冷戦後も勢いを弱めなかった。彼らは諸条件が異なることは認めつつも、冷戦崩壊後であっても、冷戦期にネオコンがとっていた強硬路線を放棄する十分な理由はないと考えていた。その代表は、ウィリアム・クリストル(William Kristol)であり、ロバート・ケーガンであった。また、その他にも、エイブラムズ、リチャード・パール(Richard Perle)、フランク・ガフニー(Frank Gaffney)などレーガン政権に入り込んでいた人々に加え、ジョシュア・ムラブチック(Joshua Muravchik)、マイケル・レディーン(Michael Ledeen)などがいた。このグループは、かつてレーガン政権に入っていた人々を含んでいたため、彼ら自身のスローガンをネオ・レーガン主義の外交政策としていた。[287]

 カークパトリックは、冷戦崩壊後も超大国としてのアメリカの役割を主張したネオコンに比べて「冷戦思考のリアリズム」であったと捉えることもできよう。冷戦の終焉とともに、カークパトリックを含めたネオコンの議論に混乱が見られた。ネオコンが宿敵としていたソ連が崩壊し、ネオコンは標的を失ったのである。ネオコンはソ連崩壊後の世界にどう対処するかをめぐって分裂していった。[288]

 山本吉宣によると、「力と民主主義の両方を重視しながらも、一方で、ソ連の崩壊を受けて、力の均衡と国益を軸とする平常の国際政治を論じ」ていたのがカークパトリックであった。冷戦の終焉、ソ連の崩壊の意味をめぐり、カークパトリックとは異なったネオコンも存在した。山本は「あくまで軍事力を中心に考えるネオコン右派」としてR・パールを挙げ、「あくまで民主主義を広めていこうとする」ネオコン左派として、J・ムラブチック、B・ウォッテンバーグを挙げている。[289]

 カークパトリックが冷戦リアリストであったか否かを考える上で、トニー・スミス(Tony Smith)は興味深い指摘をしている。彼によれば、カークパトリックは、民主主義はすべての人々にとって相応しいという考えに対して懐疑的であるというリアリストの伝統的思考に陥っていたにもかかわらず、彼女の著作からは、ジョージ・ケナン(George F. Kennan)が指摘するような民主的社会に対する陰鬱さをまったく感じないというのだ。そして、ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)のように、冷静に勢力均衡についての評価をしたり、国家の安全保障を熟慮したりする様子も感じられないというのである。むしろカークパトリックは価値が主導する外交(values guiding diplomacy)の重要性を主張し、統治のシステムとしての民主主義が他の何よりも秀でていることを何度も主張しているのだという。[290]

 冷戦崩壊に際してカークパトリックは、アメリカは民主的な制度を促進し、法の支配を強化し、国益を増進させながらも、心理的にも経済的にも普通の国に戻る準備をすべきであると主張している。彼女は、例えばヨーロッパがアメリカをパートナーとして見なすことはないし、アメリカ国民がヨーロッパに駐留する軍のために納税することに納得はしないだろうという見解を示している。アメリカは超大国(superpower)ではなく、大国(power)になるべきだと論じている。[291]

 しかし、他方でJ・ムラブチックのように、冷戦後においても、アメリカは民主主義を輸出するような政策を展開すべきであると論じた者もいた。そして、チャールズ・クラウトハマー(Charles Krauthammer)は冷戦後、世界は単極構造の世界になり、それは単にアメリカの利益になるだけでなく、世界の安定につながる。そして、アメリカの単極構造は、リベラルな国際秩序を維持するために必要不可欠であると論じた。[292]「単極世界を率いる力と意思を持ち、世界秩序の規則をためらうことなく決め、それを施行する心積もりをする」というクラウトハマーの主張は、ジョージ・H・W・ブッシュ政権が、「冷戦終結というまたとない好機に恵まれながら無為に時間を費やしていること」への批判であった。[293]

 カークパトリックは冷戦崩壊を境にして、アメリカは勢力均衡と国益を軸とする外交政策を展開すべきだと主張した。それに対して、ケーガンはなおもアメリカは覇権を維持し、軍事力を中心に考えるべきであると論じた。前者にとって、アメリカが超大国であり続けるということは、あくまで冷戦を戦い抜くために必要な手段だったとすれば、後者にとっては、冷戦を戦い抜いた後であっても必要なものであった。カークパトリックとフクヤマの違いは、民主化に対する姿勢であった。前者は「急激な社会の変革」に懐疑的で、後者は極めて楽観的であった。カークパトリックが右派独裁体制に起こりうると主張した民主化を、遥かに楽観視し、民主化は必然であると捉えたのがフクヤマの主張だったのである。

 

(2) 右派独裁体制擁護から民主主義擁護へ

 

 カークパトリックとフクヤマは「急激な社会の変革」に対する捉え方が大きく異なっていた。言い換えれば、前者は民主化はあり得ることだとしつつも懐疑的に捉え、後者はそれを楽観視し、必然のものであると考えていたのである。ここでは、カークパトリックとフクヤマの共通点および相違点について論じてみたい。

 冷戦後には、カークパトリックが主張していたように右派独裁の権威主義体制を擁護するのではなく、リベラルな民主主義の擁護を訴えるネオコンが登場することとなる。その1人が、『歴史の終焉』を発表し、多くの論争を巻き起こしたフクヤマである。フクヤマは、冷戦が崩壊したプロセスが、彼自身とW・クリストルやロバート・ケーガンらのようにイラク戦争を擁護する者たちに力を与えたのだとしている。その第一の理由として、すべての全体主義体制は中心に中身が詰まっていない(hollow at the core)ため、外部からの圧力で崩壊してしまうことを挙げた。このモデルケースは、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊であり、彼の例えによれば、ひとたび悪い魔女が死ねば、小人たちは立ち上がり、解放に喜んで、楽しげに歌いだすというのである。[294]フクヤマによれば、イラクもまた「民主化」が可能だったのである。そのフクヤマが引き合いに出したW・クリストルとケーガンは、「多くの人々にとって、アメリカが独裁者によって統治される国家の体制を変化させるために軍事力を行使するという考えは、ユートピア主義のように聞こえるかも知れない。しかし、それは驚くほど現実的である」と述べている。[295]

 フクヤマとカークパトリックの主張が大きく異なる点は、全体主義体制の安定性についてであった。カークパトリックは論文や著書において、イデオロギー色の強い全体主義体制の「安定性」を訴え、民主化の可能性を懐疑的に捉えていた。彼女はカーター政権時代、「革命的な『社会主義』、もしくは共産主義社会が民主化された例はないが、右派独裁体制はときどき民主主義に発展することがある」と述べている。その条件として、時間、望ましい経済、社会、政治状況、才能のある指導者、本来存在する民主政府に対する強い要求などを挙げている。[296]しかし、フクヤマの言説においては、全体主義体制の安定性や非脆弱性がすっかり否定され、独裁体制が民主制に移行したのは、民主主義が現代社会で唯一正統性をもつ政体だという信念が広がってきたためであると論じているのである。[297]

 他方、カークパトリックとフクヤマの類似点としては、外交政策におけるリアリズムに対する嫌悪感がある。カークパトリックがケナンやキッシンジャーなどのリアリスト知識人たちの考えと符合する部分が少ないことは3章3.(1)で述べた。同じようにフクヤマも、いまやリアリズムを追求することは、重病が治った患者に、薬を飲ませ続けるようなものだと述べている。[298]つまり、冷戦の崩壊によって勢力均衡は不要となったはずであると言いたいのである。フクヤマのこうした主張は一貫している。彼によれば、イラク戦争における失敗だと考えられることは、キッシンジャーの流れを汲むようなリアリストたちの権限を復活させたことだとしている。[299]

次に、冷戦後におけるカークパトリック・ドクトリンの適用、つまり、右派独裁体制を擁護した例を考えてみたい。冷戦崩壊後にアメリカによる民主主義体制擁護の機運が高まってきたことは事実である。アメリカは冷戦崩壊後の10年間、民主化支援を重要な外交政策の1つとしてきた。そのため、ニカラグアやナイジェリアの民政移管にも支援を行ってきた。しかし、カークパトリックの主張するような親米独裁国家との友好的な関係の構築は、湾岸地域においては続けられてきた。湾岸地域においては、サウジアラビア、クウェート、ヨルダン、アラブ首長国連邦、バーレーンなどが王政を敷き、民主的手続きをとらずに王家内で政権が交代する世襲制をとっている。これらの国々は親米の権威主義体制である。特に、サウジアラビアは国民に言論の自由を認めず、普通選挙も実施していないが、少なくとも9.11テロ事件までは、アメリカにとって石油を安定的に供給する重要なパートナーであった。アメリカはサウジアラビアを非民主国家だと批判することもなかったのである。[300]このように、冷戦崩壊後にも右派独裁体制との関係を重視する例は見られた。ただしこれは、カークパトリックが述べていたように共産主義勢力に対する防波堤として、かつ民主化の可能性を潜在的に持っているという理由ではなく、石油供給というエネルギー安全保障の面で独裁体制を容認したといえる。

 

(3) ブッシュ政権時代のネオコンとカークパトリックの関係

 

 1997年、W・クリストルやケーガンが中心となって、ネオコンの政策集団「アメリカ新世紀プロジェクト(Project for the New American Century:PNAC)」が設立された。PNACの設立趣意書に名を連ねた人々には、ネオコン以外にもレーガン政権で教育長官を務めたウィリアム・ベネット(William Bennett)、ゲイリー・バウアー(Gary Bauer)などの宗教右派、ドナルド・ラムズフェルド(Donald Rumsfeld)のような共和党の強硬派も含まれていた。PNACは様々な問題について大統領や議会に政策提言を行った。[301]

 アメリカ同時多発テロの翌日の2001年9月12日に、PNACのメンバーらが、ブッシュ大統領に書簡を送っている。その書簡の署名欄には、カークパトリックのほか、ロバート・ケーガンやW・クリストル、そしてリチャード・パールらの名前があった。その内容は「私たちアメリカと同じ民主国家であるイスラエルを全面的に支持する」というものであった。[302]カークパトリックは冷戦期においてもイスラエルを重要視してきたこともあるため、少なくともイスラエルを支持するという立場は、ブッシュ政権期のネオコンとカークパトリックは共有していたと言える。

 坂出健によれば、「テロとの戦い」を進めるG・W・ブッシュ政権が提唱した中東民主化構想とカークパトリック・ドクトリンは衝突するものであった。なぜなら、「テロとの戦い」を進める外交政策の基軸に、民主主義推進が採用されたからである。中東においては、エジプトとサウジアラビアがアメリカの外交政策の基盤であった。エジプトは中東和平を推進する上で不可欠であり、サウジアラビアは石油の安定した供給源として重要であった。ところが、サウジアラビアは厳然たる君主制国家であるし、エジプトのムバラク政権もまた軍事独裁政権であった。アメリカが推進する民主化計画は、中東権威主義国家の国内支配体制を危うくするものであった。[303]

 レーガン政権においてもG・W・ブッシュ政権においても、常にダブルスタンダードの解消が行われてきたというのが坂出の主張である。レーガン政権以降のアメリカ外交政策は、一方で世界的な民主化促進を主張しながら、安全保障上重要な親米独裁体制は支援するというダブルスタンダード、すなわちカークパトリック・ドクトリンの影響下にあった。他方、カークパトリックは、デタント期に第三世界の親米独裁政権に、共産主義政権には行わないような民主化圧力を加えるといったダブルスタンダードを批判した。このダブルスタンダードを解消すべく、親米独裁政権擁護という形をとった。これに対して、9・11テロ後のブッシュ政権は、ダブルスタンダードを解消すべく、親米独裁政権の政権転覆も辞さない民主化という正反対の方向へ向かった。[304]中東民主化構想の中で、共に親米独裁国家であるサウジアラビアとエジプトの位置づけが問題化していたのである。[305]

カークパトリックは「急激な社会の変革」を嫌っていたのであり、民主主義を定着させるためには、様々な複合的要素を必要とすると主張していた。こうしたことを考慮すると、G・W・ブッシュ政権が提唱した中東民主化構想は、明らかにカークパトリックの政策理念とは対立するものである。

 カークパトリックは2006年12月7日に亡くなった。彼女の死去に際しては、勤務経験のある国務省からも公式にメッセージが出されている。コンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)国務長官は「研究者であると同時に政策決定者であるという点で、彼女(カークパトリック)はロールモデルになった人物であった。」と述べている。[306]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結び


 カークパトリックが1960年代の民主党の改革運動に強い危機感を感じ、運動に従事した人々を「ニュークラス」と呼んで非難していたことは、彼女の後の政策理念を理解する上でも重要である。というのも、彼女が後に行う「安易な民主化」を期待すべきではないという主張は、彼女が「急激な社会の変革」を嫌っていたことに由来するものだからである。彼女の主張で一貫していることは、この「急激な社会の変革」を懐疑的にみることである。それはマクガヴァンの改革運動に対してだけでなく、カーターが右派権威主義体制に民主化を期待したことに対する批判にも顕著に表れている。ただし、本文でも明らかにしているように、彼女は民主化それ自体を否定しているわけではない。彼女はあくまでも急激にそれを推し進めることに懐疑的なのである。

 カークパトリックにとって「安易な民主化」は、いかなる体制であっても期待できないものであったが、諸条件が重なれば民主化も可能であると考えた。それが右派権威主義体制だったのである。1978年には、後に強く支持する右派権威主義体制は、共産主義・全体主義体制とは異なるという言説を生み出していた。この言説を「応用」して、翌年の「独裁と二重基準」が生まれたのである。この観点からすると、カーターが行った対ニカラグア政策は、カークパトリックにとって最も望ましくないものであった。

 レーガン政権においては、カークパトリックの政策理念が評価され、具体的に「援用」されていくことになった。ラテンアメリカではニカラグアやチリ、アジアでは韓国や台湾にその適用が見られる。それらの国々へのアプローチは、共産主義勢力と対峙する右派権威主義体制であれば、人権抑圧が行われていたとしても擁護するものであり、あくまでも冷戦的思考において成されたのである。その意味で、彼女は徹底した反共主義者であった。

 しかし、彼女は反共主義者という側面だけでは捉えきれない側面をも持ち合わせている。フォークランド紛争におけるイギリスへの対応がその一例である。彼女は反共主義者でありながら、西側陣営にいるイギリスという重要な同盟国よりも、同じ西側陣営のアルゼンチンを擁護したのである。もし、彼女の意見がレーガン政権に取り入れられたら、米英関係は深刻な局面に突入していただろう。その意味で、国務省がカークパトリックの態度を厳しく咎めたことは、当然予測できることだった。そして、このフォークランド紛争における騒動を境に、レーガン自身も方向性を変えていったのである。

 レーガン政権におけるカークパトリックの立場が、徐々に危ういものになってきたのは1983年だったと言える。フィリピンのアキノ大統領がこの年に暗殺されたことも、レーガンとしては無視できない現実であった。レーガンはこれを批判し、同年11月にはやはり韓国、チリに対して「人権外交」を開始するのである。その後の85年頃には、レーガンはチリ、ハイチ、フィリピン、南アフリカへの対応を変化させた。ここに、はっきりとカークパトリック・ドクトリンとの決別が確認できるのである。この頃にはすでに、ラフィーバーが指摘するようにカークパトリックの政策理念は人気のないものになっていた。カーター大統領の退陣から2年以上を経て、再びアメリカ外交政策に「人権」の枠組みが用いられ始めたのである。

 カークパトリックとフクヤマを比較することで、アメリカ外交政策における民主化の理念に対する態度がどのようなものであるかを考えることができる。両者は対立する側面を持ちながらも、共通項を見出すことができる。フクヤマはカークパトリックを悲観的だと批判したが、カークパトリックからすればむしろフクヤマが楽観的なのであり、彼女が疑問視していた「急激な社会の変革」や「安易な民主化」論に抵抗を持たないのがフクヤマだったのである。カークパトリックは権威主義体制に対してはやや楽観的であるが、全体主義体制に対しては悲観的であった。フクヤマは両者に対して楽観的なのであり、彼にとってあらゆる国々の民主化は必然のものであった。しかし、両者に共通点がまったく無いわけではない。カークパトリックはフクヤマと同じように、外交政策におけるリアリズムにあまり関心を持っていないという点が類似している。前者はリアリズム的思考が欠落しており、後者はそれ自体を懐疑的に見ているのである。

 カークパトリックと他のネオコンを比較すると、冷戦後の世界をどう捉えるべきかという問いが浮上する。ここでは、「アメリカが超大国として存在していること」と「アメリカが世界諸国を民主化していくことができるという考え」に対する態度を観察することができる。カークパトリックもはやアメリカは超大国であり続けるべきではないとし、ムラブチックやクラウトハマーは超大国であり続けることによって、民主主義を広めるべきだと主張した。冷戦後もアメリカが超大国であり続け、世界をアメリカの力で民主化していくことが可能だという意見をカークパトリックは支持していない。その理由は、彼女が悲観的であるとか、民主主義に対して自信がないからではなく、元から彼女が「急激な社会の変革」に対して嫌悪感を抱いていたからである。アメリカの軍事力を用いて、他国を民主化することが可能であるということを説いたのが、ケーガンやW・クリストルであった。彼らはカークパトリックに比べれば、明らかに「急激な社会の変革」に対して楽観的であったし、アメリカの力を彼女以上に過信していたのである。

 ここまでカークパトリックの主張で一貫している点は、「急激な社会の変革」に対する懐疑的視点と、そこから派生する「安易な民主化」に対する嫌悪感である。カークパトリックと意見が対立していた上述の人々は、ネオコンとして同じカテゴリーに入れられるが、これほどまでに政策理念を異にしていたことが本稿を通じて明らかになったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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・ ディーター・マズール著、関西ラテンアメリカ研究会訳『ゲリラのまなざし』(現代企画室、1989年)

 

・ フレッド・ハリデー、滝沢海南子訳『カブールからマナグアまで―第三世界をめぐる米ソの角逐』(新評論、1991年)

 

・ 丸山浩行『ソ連軍対ゴルバチョフ』(読売新聞社、1991年)

 

・ 寿里順平『中米=干渉と分断の軌跡』(東洋書店、1991年)

 

・ 花井等、浅川公紀『アメリカの外交政策』(勁草書房、1991年)

 

・ 五十嵐武士『政策革新の政治学―レーガン政権下のアメリカ政治』(東京大学出版会、1992年)

 

・ 有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)

 

・ フランシス・フクヤマ、渡部昇一訳『歴史の終わり(上)』(三笠書房、1992年)

 

・ フランシス・フクヤマ、渡部昇一訳『歴史の終わり(下)』(三笠書房、1992年)

 

・ 有賀貞、大下尚一、志邨晃佑、平野孝『アメリカ史<2> 1877年~1992年 (世界歴史大系)』(山川出版社、1993年)

 

・ ロナルド・レーガン、尾崎浩訳『わがアメリカンドリーム―レーガン回想録』(読売新聞社、1993年)

 

・ 中逵啓示『冷戦後の世界と米中関係』(広島平和文化センター、1997年)

 

・ 村田晃嗣『大統領の挫折―カーター政権の在韓米軍撤退政策』(有斐閣、1998年)

 

・ ジェームズ・マン、鈴木主税訳『米中奔流』(共同通信社、1999年)

 

・ 桜井啓子『革命イランの教科書メディア』(岩波書店、1999年)

 

・ 大貫良夫、国本伊代、福嶋正徳、落合一泰、恒川恵市、松下洋監修『ラテン・アメリカを知る事典』(1999年、平凡社)

 

・ チャルマーズ・ジョンソン、鈴木主税訳『アメリカ帝国への報復』(集英社、2000年)

 

・ 佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』(有斐閣、2002年)

 

・ 公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学―「反テロ」世界戦争に抗して』(東京大学出版会、2003年)

 

・ 石井修・滝田賢治編『現代アメリカ外交キーワード』(有斐閣、2003年)

 

・ ローレンス・F・カプラン、ウィリアム・クリストル、岡本豊訳『ネオコンの真実―イラク戦争から世界制覇へ』(ポプラ社、2003年)

 

・ 田原牧『ネオコンとは何か―アメリカ新保守主義派の野望』(世界書院、2003年)

 

・ 宮崎正弘『ネオコンの標的―日本の命運を左右する米国新保守主義の牙!』(二見書房、2003年)

 

・ 西崎文子『アメリカ外交とは何か―歴史の中の自画像』(岩波書店、2004年)

 

・ 中岡望『アメリカ保守革命』(中央公論新社、2004年)

 

・ 田中高編『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』(明石書店、2004年)

 

・ 太田龍『ネオコンの正体―世界人間牧場の完成へのネオコンの隠された目標』(雷韻出版、2004年)

 

・ 五十嵐武士編『太平洋世界の国際関係』(彩流社、2005年)

 

・ 山本吉宣編『アジア太平洋の安全保障とアメリカ』(彩流社、2005年)

 

・ 村田晃嗣『アメリカ外交―苦悩と希望』(講談社、2005年)

 

・ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』(明石書店、2005年)

 

・ 山本吉宣『「帝国」の国際政治学』(東信堂、2006年)

 

・ 紀平英作、油井大三郎編著『グローバリゼーションと帝国』(ミネルヴァ書房、2006年)

 

・ アメリカ学会編『衰退論の登場(原典アメリカ史)』(岩波書店、2006年)

 

・ 二村久則、牛田千鶴、野田隆、志柿光浩『ラテンアメリカ現代史Ⅲ』(山川出版社、2006年)

 

・ ジョン・J・ミアシャイマー、スティーブン・M・ウォルト、副島隆彦訳『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策2』(講談社、2007年)

 

・ 紀平英作編『アメリカ民主主義の過去と現在 : 歴史からの問い』(ミネルヴァ書房、2008年)

 

 

論文・記事

 

・ Jeane J. Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards” Commentary, November 1979.

 

・ Jeane J. Kirkpatrick, “Politics and the New Class”, B. Bruce-Briggs, The New Class?, Transaction Books, 1979.

 

・ Jeane J. Kirkpatrick “U.S. Security & Latin America”, Commentary, January 1981.

 

・ Jeane J. Kirkpatrick and Allan Gerson, “Reagan Doctrine, Human Rights, and International Law”, Louis Henkin, Stanley Hoffmann, Jeane J. Kirkpatrick, Right V. Might: International Law and the Use of Force, Council on Foreign Relations, 1991.

 

・ Jeane J. Kirkpatrick, "Beyond the Cold War", Foreign Affairs, America and the World 1989/90.

 

-------------------------------------

 

・ Theodore Draper, “review of Dictatorships and Double Standards”, The New York Times Book Review, July 25, 1982.

 

・ Walter Isaacson, “Feelings of Hurt and Betrayal”, Time, October 31, 1983.

 

・ “The Lady or the Team Player”, Newsweek, October 24, 1983.

 

・ Seymour Maxwell Finger, "The Reagan-Kirkpatrick Policies at the United Nations," Foreign Affairs, Winter 1983/84.

 

・ Michael Kramer, "The Prime of Jeane Kirkpatrick", New York Magazine, May 6, 1985.

 

・ Robert Kagan, “What China Knows That We Don't”, The Weekly Standard, January 20, 1997.

 

・ Francis Fukuyama, “After Neoconservatism”, The New York Times Magazine, February 19, 2006.

 

・ David Adesnik and Michael MacFaul, "Engaging Autocratic Allies to Promote Democracy", The Washington Quarterly, Vol.29, No. 2., 2006.

 

・ 宮脇岑生「レーガン政権における対外政策決定過程」『外交時報』(No.1227、1985年8月15日号)

 

・ 石井修「米国の人権外交の理念と現実」、『国際問題』(1990年6月号)

 

・ 高橋均「80年代米州関係におけるナショナリズムとヘゲモニー」、日本国際政治学会編『国際政治』(98号、1991年10月)

 

・ 松下洋「80年代のラテンアメリカが提起する諸問題」、日本国際政治学会編『国際政治』(98号、1991年10月)

 

・ 大串和雄「『民主化』以後のラテンアメリカ政治」、日本国際政治学会編『国際政治』(131号、2002年10月)

 

 

インターネット

 

・ 国務省 “Bureau of Intelligence and Research” http://www.state.gov/s/inr/

 

・ 国務省 “The Passing of Jeane Kirkpatrick” http://www.state.gov/secretary/rm/2006/77541.htm

 

 



[1] 田原牧『ネオコンとは何か―アメリカ新保守主義派の野望』(世界書院、2003年)、宮崎正弘『ネオコンの標的―日本の命運を左右する米国新保守主義の牙!』(二見書房、2003年)、太田龍『ネオコンの正体―世界人間牧場の完成へのネオコンの隠された目標』(雷韻出版、2004年)、ローレンス・F・カプラン、ウィリアム・クリストル、岡本豊訳『ネオコンの真実―イラク戦争から世界制覇へ』(ポプラ社、2003年)など。邦訳では『ネオコンの真実』となっているが、原題はThe War Over Iraq: Saddam's Tyranny and America's Missionである。

[2] John Ehrman, The Rise of Neoconservatism: Intellectuals and Foreign Affairs, 1945-1994, Yale University Press, 1995, p. 139.

なお、ネオコン自体についての定義は後に本稿で取り扱うため、ここでは便宜上「ネオコン」としている。

[3] Allan Gerson, The Kirkpatrick Mission: Diplomacy Without Apology: America at the United Nations, 1981-1985, Free Press, 1991, p. xiii., ガーソンはカークパトリックが国連大使を務めた1981年から85年までの間、法務顧問(legal counsel)を務めた人物である。ガーソンはこの著書の中で、彼女がいかにアメリカの国益を訴えていたのかについて論じている。

[4] Richard D. Wiggers, "Jeane Jordan Kirkpatrick", Cathal J. Nolan, ed., Notable U.S. Ambassadors Since 1775: A Biographical Dictionary, Greenwood Publishing Group, 1997, p. 219.

[5] J. David Hoeveler, Watch on the Right: Conservative Intellectuals in the Reagan Era, University of Wisconsin Press, 1991, p. 152.

[6] Gerson, op.cit., p. xiii.

[7] Hoeveler, op.cit., p. 152.

[8] Ibid., p. 152.

[9] Ibid., p. 153.

[10] Ibid., p. 153.

[11] 村田晃嗣『アメリカ外交―苦悩と希望』(講談社、2005年)、39頁。

[12] 阿部康典『レーガン・マシーン―その人脈・戦略・対日攻勢を読む』(現代史出版会、1983年)、137頁。

[13] Hoeveler, op.cit., p. 154.

[14] Ibid., p. 154-155.

[15] 山本吉宣「ネオコンの思想と行動」、山本吉宣『「帝国」の国際政治学』(東信堂、2006年)、61頁。

[16] Gerson, op.cit., p. xiii.

[17] Ibid., p. xiii.

[18] Hoeveler, op.cit., p. 153.

[19] 阿部、前掲書、137頁。

[20] Gerson, op.cit., p. xiii.

[21] Wiggers, op.cit., p. 219.

[22] Ibid., p. 219.

[23] Gerson, op.cit., p. xiii.

情報調査局については国務省ウェブサイトを参照。

http://www.state.gov/s/inr/

[24] 阿部、前掲書、137頁。

[25] Hoeveler, op.cit., p. 153.

[26] Wiggers. op.cit., p. 219.

[27] Gerson, op.cit., p. xiv.

[28] Wiggers, op.cit., p. 219-220.

[29] Jeane J. Kirkpatrick, ed., The Strategy of Deception: A Study in World-wide Communist Tactics, Farrar, Straus and company, 1963, p. xviii.

[30] Ibid., p. xx.

[31] Ehrman, op.cit., p. 117.

[32] Ibid., p. 117.

[33] Ibid., p. 118.

[34] Wiggers, op.cit., p. 220.

[35] Ibid., p. 220.

[36] Ehrman, op.cit., p. 118.

[37] Ibid., p. 118.

[38] Ibid., p. 117.

[39] Jeane J. Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards” Commentary, November 1979, p. 44.

[40] Ehrman, op.cit., p. 117.

[41] Ehrman, op.cit., p. 48.

[42] Wiggers, op.cit., p220

[43] Gerson, op.cit., p. xiv.

[44] Ehrman, op.cit., p. 57.

[45] Ibid., p. 119.

[46] 阿部、前掲書、139頁。

[47] Stefan Halper and Jonathan Clarke, America Alone: The Neo- Conservatives and the Global Order, Cambridge University Press, 2005, p. 55.

[48] Ibid., p. 55.

[49] Wiggers, op.cit., p. 220.

[50] 西崎文子『アメリカ外交とは何か―歴史の中の自画像』(岩波書店、2004年)、174頁。

[51] Jeane J. Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 1: Political and Moral Dimensions, Transaction Publishers, 1988, p. 470.

[52] 佐々木卓也「パクス・アメリカーナの揺らぎとデタント外交」、佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』(有斐閣、2002年)、143頁。

[53] Gerson, op.cit., p. xiv.

[54] 山本、前掲書、61頁。

[55] 阿部、前掲書、139頁。

[56] Ehrman, op.cit., p. 112.

[57] Donald T. Critchlow, The Conservative Ascendancy: How the GOP Right Made Political History, Harvard University Press, 2007, p. 168.

[58] 村田晃嗣『大統領の挫折―カーター政権の在韓米軍撤退政策』(有斐閣、1998年)、111頁。

[59] Halper and Clarke, op.cit., p. 55.

[60] 阿部、前掲書、p139

[61] 中岡望『アメリカ保守革命』(中央公論新社、2004年)、97頁。

[62] 中岡、同上、97頁。

[63] 石井修「米国の人権外交の理念と現実」、『国際問題』(1990年6月号)、29頁。

[64] 石井修「人権理念と人権外交―理念と現実の狭間で」、石井修・滝田賢治編『現代アメリカ外交キーワード』(有斐閣、2003年)、112-113頁。

[65] 乗浩子「アメリカの対ラテンアメリカ人権外交」、有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)、171頁。

[66] 乗、同上、173頁。

[67] 乗、同上、174-175頁。

[68] 高松基之「人権外交とレーガン・ドクトリン」、アメリカ学会編『衰退論の登場(原典アメリカ史)』(岩波書店、2006年)、188頁。

[69] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 36.

[70] Ibid., p. 34.

[71] Ibid., p. 36.

[72] Ibid., p. 43.

[73] Ehrman, op.cit., p. 119.

[74] Kirkpatrick, op.cit., p. 34.

[75] 佐々木卓也「デタントの崩壊と新冷戦」、アメリカ学会編『衰退論の登場(原典アメリカ史)』(岩波書店、2006年)、132頁。

[76] 佐々木、同上、133頁。

[77] 阿部、前掲書、190頁。

[78] 乗、前掲論文、182頁。

[79] 乗、同上、181頁。

[80] Jeane J. Kirkpatrick, Reagan Phenomenon and Other Speeches on Foreign Policy, AEI Press, 1983, p. 13.

[81] Ibid., p. 13.

[82] 佐々木「デタントの崩壊と新冷戦」132頁。

[83] 佐々木「パクス・アメリカーナの揺らぎとデタント外交」164頁。

[84] 佐々木、同上、166頁。

[85] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 1, p. 369.

[86] 佐々木、前掲論文、148-149頁。

[87] Kirkpatrick, Reagan Phenomenon, p. 33.

[88] 村田晃嗣「カーター外交の登場」、アメリカ学会編『衰退論の登場(原典アメリカ史)』(岩波書店、2006年)、122頁。

[89] Jeane J. Kirkpatrick, “Politics and the New Class”, B. Bruce-Briggs, The New Class?, Transaction Books, 1979, p. 47.

[90] Ehrman, op.cit., p. 119.

[91] Ehrman, op.cit., p. 120.

[92] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 37.

[93] Ibid., p. 37.

[94] Ibid., p. 37-38.

[95] Ibid., p. 34.

[96] Ibid., p. 42.

[97] Jeane J. Kirkpatrick “U.S. Security & Latin America”, Commentary, January 1981, p. 29.

[98] Kirkpatrick, The Strategy of Deception, p. xviii.

[99] 佐々木「デタントの崩壊と新冷戦」133頁。

[100] Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards”, p. 35.

[101] 中逵啓示『冷戦後の世界と米中関係』(広島平和文化センター、1997年)、39頁。

[102] 中逵、同上、4頁。

[103] Robert Kagan, “What China Knows That We Don't”, The Weekly Standard, January 20, 1997.

[104] Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards”, p. 34-35.

[105] Ibid., p. 35.

[106] 桜井啓子『革命イランの教科書メディア』(岩波書店、1999年)、64頁。

[107] 田中高「ソモサ独裁の誕生と崩壊」、田中高編『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』(明石書店、2004年)、207頁。

[108] 田中、前掲論文、208頁。

[109] Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards”, p. 38.

[110] Ibid., p. 38.

[111] 丸山浩行『ソ連軍対ゴルバチョフ』(読売新聞社、1991年)、77頁。

[112] Jeane J. Kirkpatrick, The Withering Away of the Totalitarian State, AEI Press, 1992, p. 273.

[113] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 34.

[114] ジミー・カーター、持田直武訳『カーター回顧録(下) キャンプ・デービッドとイランの影』(日本放送出版協会、1982年)、212頁。

[115] カーター、同上、218頁。

[116] Steven F. Hayward, The Real Jimmy Carter: How Our Worst Ex-President Undermines American Foreign Policy, Coddles Dictators and Created the Party of Clinton and Kerry, Regnery Publishing, 2004, p. 131.

[117] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 36.

[118] 新川健三郎「現代のアメリカ」有賀貞、大下尚一、志邨晃佑、平野孝『アメリカ史<2> 1877年~1992年 (世界歴史大系)』(山川出版社、1993年)、452頁。

[119] 新川健三郎、前掲論文、452頁。

[120] Jeane J. Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2: National and International Dimensions, Transaction Publishers, 1988, p. 252.

[121] Kirkpatrick, Reagan Phenomenon, p. 20.

[122] Ibid., p. 140.

[123] 田中「ソモサ独裁の誕生と崩壊」206-207頁。

[124] 高橋均「80年代米州関係におけるナショナリズムとヘゲモニー」日本国際政治学会編『国際政治』(98号、1991年10月)、37頁。

[125] Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards” p. 36.

[126] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2, p. 104.

[127] 田中、前掲論文、206-207頁。

[128] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2, p. 106.

[129] Kirkpatrick, The Withering Away of the Totalitarian State, p. 231.

[130] 阿部、前掲書、190頁。

[131] 山本、前掲論文、62頁。

[132] Kirkpatrick, Reagan Phenomenon, p. 30.

[133] Kathryn Sikkink, Mixed signals: U.S. Human Rights Policy and Latin America, Cornell University Press, 2004, p. 148-149.

[134] 坂出健「アメリカ民主主義の輸出」、紀平英作編『アメリカ民主主義の過去と現在: 歴史からの問い』(ミネルヴァ書房、2008年)、300-301頁。 

David Adesnik and Michael MacFaul, "Engaging Autocratic Allies to Promote Democracy", The Washington Quarterly, Vol.29, No. 2., 2006, p. 9-10.

[135] Halper and Clarke, op.cit., p. 163.

[136] Kirkpatrick, “U.S. Security & Latin America”, p. 29.

[137] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 44.

[138] 村田『大統領の挫折』250頁。

[139] Victor D. Cha, Alignment Despite Antagonism: the United States-Korea-Japan Security Triangle, Stanford University Press, 2000, p. 172.

[140] 五十嵐武士「太平洋世界の形成と東アジアの民主化」、五十嵐武士編『太平洋世界の国際関係』(彩流社、2005年)、30頁。

[141] 倉田秀也「朝鮮半島平和体制樹立問題と米国―多国間協議の規範と関与―」山本吉宣編『アジア太平洋の安全保障とアメリカ』(彩流社、2005年)、155頁。

[142] 倉田、同上、155頁。

[143] 五十嵐、前掲論文、59頁。

[144] 高松基之「韓国に対する人権外交の展開」、有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)、222頁。

[145] 五十嵐、前掲論文、59頁。

[146] 五十嵐、同上、59頁。

[147] John D. Martz, United States Policy in Latin America: a Decade of Crisis and Challenge, University of Nebraska Press, 1995, p. 370.

[148] 上村直樹「冷戦終結外交と冷戦後への模索」、佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』(有斐閣、2002年)、181頁。

[149] 湯浅成大「米中関係の変容—ニクソン以後の30年」、五十嵐武士編『太平洋世界の国際関係』(彩流社、2005年)、227頁。

[150] 上村、前掲論文、181頁。

[151] ジェームズ・マン、鈴木主税訳『米中奔流』(共同通信社、1999年)、196頁。

[152] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2, p. 300.

[153] 乗、前掲論文、186頁。

[154] 乗、同上、186頁。

[155] 乗、同上、186-187頁。

[156] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2, p. 106-107.

[157] 上村、前掲論文、179-180頁。

[158] ラテンアメリカ研究会「まなざしの向うから/向うへ」、ディーター・マズール著、関西ラテンアメリカ研究会訳『ゲリラのまなざし』(現代企画室、1989年)、201頁。

[159] 石井「米国の人権外交の理念と現実」38頁。

[160] 乗、前掲論文、192頁。

[161] フレッド・ハリデー、滝沢海南子訳『カブールからマナグアまで―第三世界をめぐる米ソの角逐』(新評論、1991年)、53頁。

[162] Christian Smith, Resisting Reagan: the U.S. Central America Peace Movement, University of Chicago Press, 1996, p. 30.

[163] 乗、前掲論文、187頁。

[164] Martha L. Cottam, Images and Intervention: U.S. Policies in Latin America, University of Pittsburgh Press, 1994, p. 128.

[165] Ehrman, op.cit., p. 151.

[166] 阿部、前掲書、141頁。

[167] 阿部、同上、141頁。

[168] Ehrman, op.cit., p. 151.

[169] Seymour Maxwell Finger, "The Reagan-Kirkpatrick Policies at the United Nations," Foreign Affairs, Winter 1983/84, p. 443.

[170] 阿部、前掲書、141頁。

[171] アレクサンダー・M・ヘイグ・Jr、住野喜正訳『ヘイグ回想録 警告―レーガン外交の批判(上)』(現代出版、1984年)、292頁。

[172] Gerson, op.cit., p. 114.

[173] 阿部、前掲書、142頁。

[174] アレクサンダー・M・ヘイグ・Jr、住野喜正訳『ヘイグ回想録 警告―レーガン外交の批判(下)』(現代出版、1984年)、117頁。

[175] Gerson, op.cit., p. 117.

[176] Geoffrey Smith, Reagan and Thatcher, W W Norton & Co. Inc, 1991, p. 81.

[177] Gerson, op.cit., p. 114.

[178] Mark P. Lagon, The Reagan Doctrine: Sources of American Conduct in the Cold War's Last Chapter‎, Praeger Publishers, 1994, p. 106.

[179] 五十嵐武士『政策革新の政治学―レーガン政権下のアメリカ政治』(東京大学出版会、1992年)、166-167頁。

[180] 宮脇岑生「レーガン政権における対外政策決定過程」、『外交時報』(No.1227、1985年8月15日号)17頁。

[181] Michael Kramer, "The Prime of Jeane Kirkpatrick", New York Magazine, May 6, 1985, p. 40.

[182] アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』(明石書店、2005年)、317頁。

[183] 松本、同上、319-320頁。

[184] Seyom Brown, The Faces of Power: Constancy and Change in United States Foreign Policy from Truman to Reagan, Columbia University Press, 1983, p. 617-618.

[185] Gerson, op.cit., p117

[186] Max Hastings and Simon Jenkins, The Battle for the Falklands, W W Norton & Co Inc, 1983, p. 109.

[187] Gerson, op.cit., p. 117.

[188] Kirkpatrick, op.cit., p. 218.

[189] Geoffrey Smith, op.cit., p. 84.

[190] Adesnik and MacFaul, op.cit., p. 10.

[191] Geoffrey Smith, op.cit., p. 86.

[192] 松本、前掲書、317頁。

[193] 松本、同上、302頁。

[194] セイモア・M・ハーシュ、篠田豊訳『目標は撃墜された―大韓航空機事件の真実』(文藝春秋、1986年)、145頁。

[195] Gerson, op.cit., p. 206.

[196] Gerson, op.cit., p. 206-207.

[197] Kirkpatrick, op.cit., p. 376.

[198] Kirkpatrick, op.cit., p. 377.

[199] Gerson, op.cit., p. 213.

[200] John Arquilla, The Reagan Imprint: Ideas in American Foreign Policy from the Collapse of Communism to the War on Terror, Ivan R. Dee Publisher, 2006, p. 153.

[201] Gerson, op.cit., p. 214.

[202] Robert J. Beck, The Grenada Invasion: Politics, Law, and Foreign Policy Decisionmaking, Westview Press, 1993, p. 55.

[203] Gerson, op.cit., p. 220.

[204] Gerson, op.cit., p. 217.

[205] 寿里順平『中米=干渉と分断の軌跡』(東洋書店、1991年)、88-89頁。

[206] Beck, op.cit., p. 10.

[207] Beck, op.cit., p. 17.

[208] 上村、前掲論文、181-182頁。

[209] Gerson, op.cit., p. 220.

[210] Kirkpatrick, op.cit., p232

[211] Gerson, op.cit., p. 225.

[212] 寿里、前掲書、89頁。

[213] Gerson, op.cit., p. 232.

[214] John Ehrman, The Eighties: America In The Age Of Reagan, Yale University Press, 2005, p. 70.

[215] チャルマーズ・ジョンソン、鈴木主税訳『アメリカ帝国への報復』(集英社、2000年)、48頁。

[216] Halper and Clarke, op.cit., p. 171.

[217] Wiggers, op.cit., p. 221.

[218] Halper and Clarke, op.cit., p. 46-47.

[219] Adesnik and MacFaul, op.cit., p. 9.

[220] Gerson, op.cit., p. xiv.

[221] 阿部、前掲書、140頁。

[222] 阿部、同上、136頁。

[223] 阿部、同上、139頁。

[224] 阿部、同上、139頁。

[225] Finger, op.cit., p. 439.

[226] Jeane J. Kirkpatrick and Allan Gerson, “Reagan Doctrine, Human Rights, and International Law”, Louis Henkin, Stanley Hoffmann, Jeane J. Kirkpatrick, Right V. Might: International Law and the Use of Force, Council on Foreign Relations, 1991, p. 34.

[227] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 1, p. 342.

[228] Kirkpatrick, Legitimacy and Force Vol. 2, p. 13-14.

[229] Finger, op.cit., p. 447.

[230] 花井等、浅川公紀『アメリカの外交政策』(勁草書房、1991年)、227頁。

[231] Kirkpatrick, op.cit., p. 28.

[232] Gerson, op.cit., p. 217-218.

[233] Kirkpatrick and Gerson, op.cit., p. 33-34.

[234] Finger, op.cit., p. 439.

[235] Ibid., p. 441.

[236] Ibid., p. 448.

[237] Lagon, op.cit., p. 106.

[238] Ibid., p. 106.

[239] Ibid., p. 106.

[240] ロナルド・レーガン、尾崎浩訳『わがアメリカンドリーム―レーガン回想録』(読売新聞社、1993年)、587頁。

[241] Walter Isaacson, “Feelings of Hurt and Betrayal”, Time, October 31, 1983, p. 29-30., “The Lady or the Team Player”, Newsweek, October 24, 1983, p. 25-26.

[242] Gerson, op.cit., p. 215.

[243] Ehrman, The Rise of Neoconservatism, p. 118.

[244] フランシス・フクヤマ、渡部昇一訳『歴史の終わり(上)』(三笠書房、1992年)、73頁。

[245] 石井、前掲論文、38頁。

[246] Halper and Clarke, op.cit., p. 174-175.

[247] 石井、前掲論文、39頁。

[248] 有賀貞「アメリカ外交における人権」、有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)、23頁。

[249] 石井修「アメリカの東ヨーロッパ政策と人権」、有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)、101頁。

[250] 高松基之「アメリカの国際人権擁護団体の活動と役割」、有賀貞編『アメリカ外交と人権』(日本国際問題研究所、1992年)、330頁。

[251] 高松、同上、330-331頁。

[252] 高松、同上、331頁。

[253] 乗、前掲論文、183頁。

[254] 高松基之「韓国に対する人権外交の展開」244頁。

[255] 高松、同上、245頁。

[256] 高松、同上、245頁。

[257] 乗、前掲論文、192頁。

[258] A. Glenn Mower, Human Rights and American Foreign Policy: The Carter and Reagan Experiences, Greenwood Press, 1987, p. 97.

[259] 石井「米国の人権外交の理念と現実」39頁。

[260] James M. Scott, Deciding to intervene: the Reagan Doctrine and American foreign policy, Duke University Press, 1996, p. 121.

[261] 石井、前掲論文、39頁。

[262] 石井、同上、39頁。

[263] David P. Forsythe, Human Rights and U.S. Foreign Policy: Congress Reconsidered, University Presses of Florida, 1988, p. 159.

[264] Walter LaFeber, The American age: United States foreign policy at home and abroad since 1750, W W Norton & Co Ltd, 1990, p. 670.

[265] LaFeber, op.cit., p. 670-671.

[266] Kirkpatrick, Withering away of the Totalitarian State, p. 78.

[267] Ibid., p. 78.

[268] Ibid., p. 79-80.

[269] Theodore Draper, “review of Dictatorships and Double Standards”, The New York Times Book Review, July 25, 1982, pp. 12-13.

[270] フクヤマ、前掲書、72-73頁。

[271] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 37.

[272] フクヤマ、前掲書、72-73頁。

[273] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 37.

[274] 山崎カヲル「サンディニスタ政権と反革命派」、大貫良夫、国本伊代、福嶋正徳、落合一泰、恒川恵市、松下洋監修『ラテン・アメリカを知る事典』(1999年、平凡社)、279頁。

[275] 山崎、同上、279頁。

[276] 田中高「革命政権の光と影」、田中高編『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』(明石書店、2004年)、215-216頁。

[277] Kirkpatrick, The Withering Away of the Totalitarian State, p. 213.

[278] 田中、前掲論文、216頁。

[279] 山崎、前掲論文、279頁。

[280] 牛田千鶴「中米紛争」、二村久則、牛田千鶴、野田隆、志柿光浩『ラテンアメリカ現代史Ⅲ』(山川出版社、2006年)、259頁。

[281] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 37-38.

[282] Kirkpatrick, “Dictatorships & Double Standards”, p. 37.

[283] 松下洋「80年代のラテンアメリカが提起する諸問題」、日本国際政治学会編『国際政治』(98号、1991年10月)、2頁。

[284] 大串和雄「『民主化』以後のラテンアメリカ政治」、日本国際政治学会編『国際政治』(131号、2002年10月)、4-7頁。

[285] Kirkpatrick, The Withering Away of the Totalitarian State, p. 286.

[286] Francis Fukuyama, “After Neoconservatism”, The New York Times Magazine, February 19, 2006, p. 64.

[287] 山本吉宣「ネオコンの思想と行動」70頁。

[288] 山本、同上、66頁。

[289] 山本、同上、66頁。

[290] Tony Smith, America's Mission: The United States and the Worldwide Struggle for Democracy in the Twentieth Century, Princeton University Press, 1994, p. 287.

[291] Jeane J. Kirkpatrick, "Beyond the Cold War", Foreign Affairs, America and the World 1989/90, p. 16.

[292] 山本「ネオコンの思想と行動」66頁。

[293] 西崎文子「ポスト冷戦とアメリカ」、紀平英作・油井大三郎編著『グローバリゼーションと帝国』(ミネルヴァ書房、2006年)、290頁。

[294] Fukuyama, op.cit., p. 64.

[295] Robert Kagan, William Kristol, "National Interest and Global Responsibility", Irwin M. Stelzer, ed., The Neocon Reader, Grove Press, 2004, p. 70.

[296] Kirkpatrick “Dictatorships & Double Standards”, p. 37.

[297] フクヤマ『歴史の終わり(上)』95頁。

[298] フランシス・フクヤマ、渡部昇一訳『歴史の終わり(下)』(三笠書房、1992年)、67頁。

[299] Fukuyama, “After Neoconservatism”, p. 62.

[300] 中西久枝「同時多発テロと中東和平―文明間の対話への道」、公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学―「反テロ」世界戦争に抗して』(東京大学出版会、2003年)、104頁。

[301] 山本「ネオコンの思想と行動」72頁。

[302] ジョン・J・ミアシャイマー、スティーブン・M・ウォルト、副島隆彦訳『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策2』(講談社、2007年)、22頁。

[303] 坂出「アメリカ民主主義の輸出」308頁。

[304] 坂出、同上、309頁。

[305] 坂出、同上、306-307頁。

[306] カークパトリック氏の死去について 国務省ウェブサイト http://www.state.gov/secretary/rm/2006/77541.htm

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