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「紡ぎ継がれる」営みの「流れ方」を考える ~ まちの景色を考えるためのまなざし

2月に話題になった、石川県池田町の「池田暮らしの七か条」
皆さんはどのように感じたでしょうか?

良し悪しはここでは言及しませんが、自分たちのまちの良さを守りたいという想いが背後にあることは間違い無いですし、おそらくその背後には過去の経験からまちの良さを壊されてしまった、という経験もきっとあるのでしょう。

しかしながら、だからと言って排他的になっていては、新しい人がやってくることもなく、次第にまちが衰退していってしまうことも容易に想像されます。

こうした景色は、池田町に限った話ではなく、全国様々なところで今日見られる状況でしょう。

ここ最近、北海道の東川町や長野市のコミュニティに触れる機会があったことで、地域への関心がものすごく高まっています。
今回のnoteでは、こうしたまちの状況にどのようなまなざしを持って向き合うべきか、考えてみたいと思います。


守るべきか、変わるべきかのパラドックス

こうしたまちの未来の話になると、「守るべき」という考えと、「変わるべき」という考えの対立に大体陥りがちです。

守るべきというスタンスに立ってみると

  • 外からやってきた人たちが、好き勝手にやっていくで、大切な何かが失われていってしまう

  • ダメだとわかれば撤退し、好き勝手に変えられたところは、元に戻ることなく荒廃していく

という景色感から、自分たちが大事にしていたものを守らなければ、という想いや、外から来たやつに好き勝手にやられたくない、という考えが生まれてくるのわからなくありません。


一方で、こうした保守的な考え方に対して、そんなことを言っているからダメなんだという人たちもいます。その人たちの景色から見ると

  • 守るべきものは守らなければと考えるあまり、どんどんとコミュニティは排他的になっていく

  • そこに新しい息吹が芽生えることもなく、月日と共にまちは徐々に衰退していく

というような考えを持っているようにも思えます。これも理解できる状況です。


こうした「守るべきか」「変わるべきか」という議論は、どちらが正しいと結論づけることはできません。それなのにも関わらず、どちらが正しいかという議論をしてばかりな印象もあります。

大切なのはこうした「パラドックス」の間に立ち、別のまなざしから語り合う姿勢を持つことでは無いでしょうか?


大切なのは「流れ方」へのまなざし

まず考えるべきは、そもそも「変わらない」ということはあり得るのか、についてです。

私たちは日々年をとっていきますし、まちに存在する動植物や人工物も、日々何かしら変化していきます。テクノロジーの発展云々に関わらず、私たちや私たちの景色は、常に「変わり続けている」のです。

こうした前提に立つと、私は「守る」や「変える」という能動的な視点ではなく、「変わる」という中動態の視点で考えることがまず大事になってくるように思えます。

「守る」や「変える」という視点に立って戦ってしまうから、「守る」側は変えられることに抵抗感を覚え動こうとせず、「変える」側は多少無理にでも変化を起こさねばと考えてしまいがちです。

私たちの意図云々に関わらず、常に変わっていくという「流れ」の中に私たちは日々生きています。「変わる」という視点で考えると、「守る」「変える」という対立は、どんな「流れ方」が良いかという話をしていると捉えることができます。

「守る」や「変える」ではなく、「変わる」や「流れ」という視点に立って対話を広げる

流れがないところは、新しい空気も入り込まず、次第に生き物も生きられなくなっていってしまいます。流れが早すぎるところは、どんどんと大切なものを削り落とし、次第に土壌の崩壊を招きます。

どれくらいの「流れ方」を大事にしたいのか、という問いに立てば、これまで対立していた人たちも、早すぎても遅すぎてもダメだ、という前提は共有できるはずです。

「流れ」というイメージは、友人に教えてもらった「土中環境」という本にヒントをもらいました。

豊かな流れを作るためのアプローチという点で、古くから培われてきた人間と土との長い視座を持った向き合い方には、まちとの向き合い方を考えていくためのヒントがたくさん潜んでいるように思えます。


流れの中で「紡ぎ継がれる」まちの文化

良い流れとはなんでしょうか?川の流れにヒントを得て考えるのであれば、それは流域に広がるエコシステムであり、その循環の中で培われていく豊かな土壌につながることでしょう。

MIMIGURIが掲げる理念である「Cultivate the Creativity(創造性の土壌を耕す」にも土壌という言葉がありますが、このCultivateは、Culture(文化)と同じ語源を有します。

「culture」は「耕す」を意味するラテン語「colere」に由来し、初めは土地を耕す意味で用いられていた。
英語に入って「を耕すこと」の意味で用いられるようになり、そこから「教養」「文化」も意味するようになった。

https://gogen-yurai.jp/culture/

つまり、良い流れは、良い文化につながるのです。

ここ最近訪れる機会のあった東川町や長野市のコミュニティには、豊かな文化を感じることができました。では良い文化が生まれる「流れ」とは一体なんなのでしょうか?

良い流れを生み出すために、人々の営みの中にある「紡ぐ」と「継ぐ」という2つのキーワードが大切なのではないかと私は考えています。

「紡ぐ」

「紡ぐ」とは、日々の日常の中で蓄積されていくもののこと。こだわりを持ったものづくりであったり、同じことの積み重ねによって生まれる何かであったり、私たちの日々の営みの中で、何を「紡いでいくのか」という視点を大切にできているかはとても重要です。

どんな人であっても毎日を「紡いでいる」ことには変わりありません。しかしながら自分の物語を紡ぐことを疎かにして、わかりやすいストーリーを外にばかり求めているだけで、豊かでオリジナリティあるものが生まれてくるとは思えません。

先日紹介した長野県の「シシコツコツ」も、こうした日々紡がれる何かを大切にしようという姿勢が潜んでいるように思えます。

「継ぐ」

「継ぐ」とは、何かの終わりと始まりの間に生まれる関係性のことを意味しています。人は必ず死にますし、どんな取り組みにも、何かしらの終わりはあるはずです。(先日大学の近くにあった、津田沼PARCOも終わりを迎えました)

東川町で聞いた話の中には、まちにやってくるひとはもちろんのこと、去っていった人とも豊かなつながりが生まれることがあるというケースを聞きました。去っていった人がいた場所を、新しくやってきた人が、そこにあった良さを「継いで」上手に新しい営みを始めているケースも多いと聞きます。

終わり方を考えることは、次の始まり方を考えることにつながります。しかしながら、終わり方を考えることなく、新しいことを始めようとしてばかりいては、そこにあった大切なものは失われていくばかりになってしまうのではないでしょうか?


豊かに「紡ぎ継がれる」ことが文化という土壌を耕す

こうした「紡ぐ」ことと「継ぐ」ことへの目線を疎かにした「変える」という「流れ」への向き合い方は、単に効率化や省力化といった視点ばかりに目がいってしまいがちです。

一方で大切なものを「守る」という視点だけでは、せっかくそこにあったはずの「紡がれてきた」こだわりも、聞かされる側は同じ話をされるだけで聞き飽きてしまい、「継ぎたい」と考える人もいなくなってしまうでしょう。

また「継ぐ」ということは、新しい営みの始まりでもあり、変化を拒むだけでは、単に終わりを拒んでいるに過ぎなくなってしまいます。

テクノロジーによって様々なことがより簡単に、便利に、誰にでもできるようになる中で、人々の営みをどう紡ぎ継いでいくかに一層向き合おうとしなければ、私たちの文化からは豊かさが失われていく一方になってしまうでしょう。



仕事柄、地方で新しい事業を生み出したい、という構想に関わることも少なくありません。そして、その時に多く聞かれるのは、どうやったら地方の課題を見つけられるかや、どうしたら良い事業のアイデアを考えられるか、ということばかりです。

しかしながら、本当に大切なのは、外から地域に関わる人たちも、そこにある日々の景色や人々の想いを感じ取りながら、自らがそこに加わる当事者として向き合い、どんな流れのある景色を目指すかを語り合うことにあると考えています。

ただ視察するのではなく、その日々に浸りながら、自身がどのように紡ぎ継がれていく営みに関わりたいのかという「ナラティブ」を醸成しようとしなければ、良い流れを生み出すことはできないでしょう。

私たちはどのような「紡ぎ継がれる」ことを大切にしたいのか

「守る」と「変える」という対立ではなく、「変わる」という「流れ方」の視点に立って、ぜひ考え始めてみませんか?


みなさんからいただいた支援は、本の購入や思考のための場の形成(コーヒー)の用意に生かさせていただき、新しいアウトプットに繋げさせていただきます!