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反効率的学習のための法律学入門 「追い詰められた個人の側に立てるか」 互酬関係と権利義務関係③ #3

1 はじめに

この記事は前回からの続きです。
*前回の記事


憂鬱なる大学生A君。Yとの来るべき折衝に不安を募らせる農家X。

彼らは互酬関係の波間に揺られながら期せずして支配従属関係に入ってしまい,このままでは容易にその「自由」が失われてしまうという危機に陥っています。

次に何を「お願い」されるか分からないA君は,B君が形成しているであろう不透明な集団力に緩やかに絡みとられ,一方的にお金や時間や労働などを搾り取られてしまうでしょうか。あるいは,B君が形成しているであろう正体不明の集団の一員となるよう圧迫を受けるでしょうか。

農家Xはその心身ともの疲弊に経済的困窮までかかえ,これから容易ならざるYとの土地譲渡交渉に入ろうとしている。これが公平・透明で,微細な利益も適切に調整されるような交渉になるのかどうか。ZがYと何やら結託していそうであるが,その動向をXは把握しきれるのか。仮に真実は結託がないとしても,もしや結託があるのではないかと疑心を抱くことそのものが,Xに非常なる負担を生じやしないだろうか。


みなさまはどう考えますか。
「いや,そうは言っても,渡せないと断ればいいのにCさんに簡単に騙されて箱を渡したA君に落ち度があるから,仕方ないでしょ」と思いますか。「同情はするけれども,XがYから受けた恩義を返せなければ,相応のことをしなければならないのは当然でしょ」と思いますか。




2 追い詰められた個人の側に立てるか

しかし,前回・前々回の記事で確認したように,A君の苦境もXの困窮も,誰もが遭遇し,誰もが直面する可能性のある危機です。どこか遠い絵空事のお話を紅茶を飲みながら鑑賞しているのではありません。現実に,切実な問題に直面する人の,その人たちの事,私たちの事なのです。

A君やXの物語は例示です。
現実は,これらの無限の偏差バリエーションです。その典型的なものから,似ても似つかない態様のものまで。いかに想像力を働かせ,アナロジーを見い出し,背後にある共通のメカニズムを感知しうるかが問題であり,法律学を学ぶ意義の一つもここにあるはずです。



法はA君の側に立つ。Xの側に立つ。
追い詰められた個人だからです。

最終的に,A君やXにいかなる法的責任も義務もまったく生じないといいたいわけではありません。そうではなく,まず,A君やXの側に立って,その身になって世界を見る必要がある,追い詰められた個人の自由を考える,そうでなければ法の視点ではない,ということをいいたいのです。

つまり法は,「個人の自由」を基底理念としている。

民法2条(解釈の基準)は,「個人が完全に独立・自由であるべきこと」「自由・独立の原則」を定めていると解釈されています(我妻栄ほか『我妻・有泉コンメンタール民法―総則・物権・債権―(第7版)』27-29頁(日本評論社,2021))。明瞭に示された日本法体系の「解釈の基準」です。

その上に立って,その前提を踏まえて,A君やXに関して,曖昧不透明な互酬関係ではなく,それぞれ,関係者を二当事者対立の関係に切り出し,その間の定性的かつ定量的な権利義務関係に組み直していくことが,法によって解決するということの意味だと考えます。



では,具体的に法はどのように機能して,A君やXの諸関係を権利義務関係に編成し直していくのか。これを十全に説明するには,法律の世界の語彙である「法的概念」を知り,その意味を知り,その働き方を知る必要があります。物語「大学生Aの憂鬱」に関しては,契約法に係る寄託や債務不履行,損害論,不法行為,民事訴訟における立証の問題,債務不存在確認の概念,刑事法の知識や警察力の活用などなど,物語「農家Xの費用果実連関」に関しては,売買,付款たる条件あるいは期限,金融,農地,筆界と所有権界,強制執行,社会保障法や倒産法などなどの,いずれにしろ法の諸体系を視野に入れた全体的知識と法的対処上の実際的知識が必要となります。つまりは,数多くの「法的概念」を身に着ける必要があります。

したがって,またここから大きく大きく迂回して,広い視野をもって,反効率的にじっくり法律学を学んでいく必要がある,ということになるわけです。




3 何がこの感覚を導くか

追い詰められた個人の側に立つ,この感覚を導くのは唯一想像力だけであり,冷たい論理で微細な諸相を切りてるように言葉を操作する「概念による計算」的な思考などではないように思います。小説を読むときのあの心と頭脳があらゆる微細なゆれと違いを感知しようと動き出す,ただ自分一人で対象と向き合い見えにくい何かを見い出そうとするときのような,あの個としての想像力です。


脱線しますが,ある大学の先生が次のようなことを言っているのが目に留まりました。いわく,「法学においては自分の個性とか自分の意見とかは全くいらない」と。

この先生はおそらく,法学部の定期試験の論文式答案に,自分独自の意見や感性を盛り込んだことを書いても,既存の法学の知識を踏まえたものでなければ評価の対象外だよということを分かりやすく表現されたのだとは思います(それはその通りです)。しかし,そうであったとしても,表現がいささか乱暴であり,とりわけ初学者には大きくミスリーディングとなる言い方だったように感じざるを得ませんでした。


「現実」を明瞭に見て,問題をつかみ,これに深く切り込むために,一人一人が個性をもってぶつからなくてどうするというのでしょうか。他人の感受性を借りて問題に切り込むとでもいうのか。そもそもそれでは,転々流動してやまない無限の様相を呈する「現実」を見ることはできないし,問題を切り出すことも,精度高く捉えることもできないはずです。そうしてぼんやりと捉えた「問題」に向かって,他人の言葉をやたらと投げつけていく。そこから生まれるのは一体どんな学びの風景なのでしょうか。

一人一人が個性をもって,借り物ではない感受性をもって対象と向き合うということと,法的概念という法の世界の共通言語を学び,これにより現実を再編成して認識し表現していくということとは,まったく両立することがらです。たとえば,日本語という同一の言語(すなわち同一の世界認識・表現装置)を用いながら,文字通り無限に多様な文学が絢爛と創造されていくようなものです。こうした言葉と主体と世界との関係性をきちんと論理的に把握するときには,上記のことはあまりに明らかなことであると思います。

もちろん,何重もの自戒を込めて。



*以下の記事につづく




【参考文献】
・木庭顕『誰のために法は生まれた』(朝日出版社,2018)
・内田貴『高校生のための法学入門-法学とはどんな学問なのか』(信山社,2022) 

*角度は全く異なりますがともに素晴らしい書籍です。法を学ぼうとする方に,ぜひともお読みいただきたいです。




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