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シェイクスピア(安西徹雄 訳)「ヴェニスの商人」より/未知への一歩、ずれ込む一歩

〔シェイクスピア(安西徹雄 訳)『ヴェニスの商人』(光文社古典新訳文庫,2007)の内容に触れますので、この点ご留意願います〕


シェイクスピア(安西徹雄 訳)『
ヴェニスの商人』光文社古典新訳文庫,2007
*以下「同書」は本書を指します。



1 はじめに

この戯曲は典型的な喜劇に属しますが(中村保男「解説」,シェイクスピア(福田恆存 訳)『ヴェニスの商人』184頁,新潮文庫,2014)、シャイロックからすれば悲惨極まりない悲劇的結末を迎えます。

捻じれた各自の声が、また心の中の複数の声が、そのまま融合することなく響き続ける、シェイクスピア独特のポリフォニー構造が明瞭に読み取れる物語でもあります。誰かの声、唯一の神、特定の思想に予定調和的に収斂されずに、それぞれが独自の声を持ち、これを堂々と発し、それでいて物語はどうしようもなく一つの方向へと流れていく。ポリフォニーを統御して物語を終結に向かわせるべくまとめ上げるシェイクスピアの恐るべき手際てぎわに目くらましをくらい、何か安定の地平に収斂されていくように見えるとしたら、読み手たる私たちは、誰かの声を、あるいは声にならない声を、無視し軽視し足蹴にしているのかもしれません。

今回は、とりわけバサーニオ、アントニオ、シャイロックの三人と彼らの関係・関係構築のあり方を中心に、限られた視点からではありますが、この物語を読んでいきたいと思います。



2 放蕩息子 貴族バサーニオ

(1)貴族

まずはバサーニオについてみていきましょう。

彼は貴族階級に属します。「貴族を代表しているのは、放蕩者のバッサーニオや土地財産に恵まれたポーシャである」(西原幹子「The Merchant of Venice におけるシャイロックと商業活動の表象について」沖縄国際大学外国語研究,16巻1号45-61[49]頁,2012)。本来なら父祖伝来の土地等の基盤資源を有し、果実を得て蓄積することができうる身分です。古典の教養も身につけています(野口忠昭「『ヴェニスの商人』におけるポーシャ再考」立命館経済学,58巻3号,21-42[26]頁,2009)。

しかしながらバサーニオは浪費する放蕩者で、アントニオから借りたお金も返していません。放蕩息子であると、バサーニオ自身が自分を規定しています(同書17頁)。

バサーニオはアントニオに言います。「…君には、アントニオ、誰よりもお世話になっている、金のことでも、友情でも。今またそれにすがるほかないんだが、耳を貸してはくれないだろうか、この借金を、どうやって全部きれいに解消するか、僕の考えている計画を」(同書17頁)。


(2)二本目の矢

そこで繰り出すバサーニオの説得論拠が、「二本目の矢」ともいうべきロジックです。

バサーニオ
子供のころ、弓の稽古で、一本の矢をうっかり見失ってしまうと、同じ大きさ、同じ重さの矢をもう一本、同じ方向に放ってみたものだ。ただし今度はその行方を、前より注意して見定めておく。そうやって、最初の矢を首尾よく見つけ出したものだった。両方を失う危険を冒して、両方を取り戻したというわけだ。子供のころのこんな経験を持ち出したのも、ほかでもない、これから君に話すことが、いかにも子供じみて、他愛のないことだからだ。君には大きな借りがある。しかも私は、放蕩息子さながら、君から借りた大事な金を失くしてしまった。しかし、もしまた一本、最初の時と同じ方向に矢を放ってくれさえしたら、今度は間違いない、十分的を見定めておく。両方見事に取り戻すか、少なくとも二本目だけは無事取り返し、最初の分は、しばらくのあいだ、ありがたく借りたままにしておいてくれればと思うんだがな。

(中略)

ベルモントに、一人の女性がいる。莫大な遺産がある。美しい人だ。それに何より、すばらしい美徳の持ち主。その人が、じつはある時、口にこそ出さないけれど、両の目からうれしい想いを訴えかけているのに、ぼくは気づいた。名前はポーシャ。(中略)ああ、アントニオ、このぼくにも、彼らと競い合う金さえあれば、ぼくには確かな予感がある。必ずや、成功を手にすることができるに違いないのだ。

同書17-19頁

調子のよいことを言う論理もあるものですが、しかし全く単純明瞭、確たる熱情に基づく分かりやすい動機、未来予想です。大変にカラッとしています。


(3)riskをとるスペキュレーション(投機)とヴェンチャー(冒険)の精神

バサーニオはポーシャの愛と遺産を獲得することへの熱情に生きますが、彼がやろうとしていることはいわゆるスペキュレーション(投機)です。成功するかどうかそれは分からない、が成功する予感がする、しかしまずは先立つものがいる。だからその原資をアントニオに用立ててくれとお願いする。ちなみにそうしてくれれば君からの借金も返せるよ、というわけです。

バサーニオがその後に行うポーシャへの求婚に際する三つの小箱選びも、答えを間違えれば以後独身を貫くなどの厳格な条件が課されるものであり(同書89頁)、riskをものともせずに求めるべきもののために飛び込む必要があります。

自分のすべてを失うかもしれない危険を冒し、リスクをしょい込み、賭けるべき何かを賭けて人生を燃え上がらせる、という生き方は称賛されるべき範型をなします。「イギリスが外に向かって大きく発展を遂げようとしている16世紀も押し詰まった時期に書かれたこの喜劇のなかで、意識的、無意識的にもこのventureの精神は積極的に評価されていたと見ることができる」(小野昌「『ヴェニスの商人』におけるVentureについて」城西人文研究,7巻155-170[168-169]頁,1980)と指摘されています。当該時代に限りません。リスクをとり、一人冒険に旅立つものは勇者だからです。

物語は、放蕩息子 バサーニオの一歩から大きく起動していくことになります。確たる熱情と明瞭な動機を抱き、分かりやすい構図を描いて彼は行きます。彼の未知への一歩は、実に真っすぐに伸ばされた足によりなされます。



3 憂鬱なる海洋貿易商 アントニオ

(1)遠隔地の差異を媒介する交易商人

バサーニオに資金提供を頼まれるアントニオ、ところがアントニオにも手持ちの流動資産はありません。「知ってのとおり、私の財産は今、すべて海に出ている」(同書19頁)。

アントニオについてはすこし立ち止まって考えてみたいと思います。

前提として、『ヴェニスの商人』の「商人」は、高利貸のシャイロックを指すのではなく、海洋貿易商人であるアントニオのことを指していることを確認しておきます(同書「解題」204頁)。そのうえで、「貿易商人としてのアントニオは、裕福ではあるが、バッサーニオやポーシャに代表されるような、世襲の財産や身分を持つ貴族とは明らかに異なっているといえる」(前掲西原論文49頁)とされます。土地などのような何か確固とした固い基盤資源を有していない、これらを有する貴族階級とは違う、ということです。

では、アントニオはどのような商行為を行っているか。

「たとえば、中国とペルシャから絹、インドとスマトラからはコショウ、セイロンからシナモン、西インド諸島から砂糖とタバコとコーヒー、ブラジルの内陸から金、新大陸から銀を輸入し、それらをヨーロッパにおいて高価で売りさばいていたアントーニオやその仲間の十六世紀ヴェニスの貿易商人たちは、これらの品物の遠隔地における価格とヨーロッパにおける価格との間にある差異を仲介し、危険はともなうが成功すればそれによって莫大な利潤を得ていた」(岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」『ヴェニスの商人の資本論』8-72[17-18]頁,ちくま学芸文庫,1992)。

「アントニオ自身も自分の商売のことを “venture (1.1.42)”「冒険」「投機」と述べていることから、失敗も成功も運次第の、危険を伴う商売であることがわかる」(前掲西原論文48頁)。

シャイロックもアントニオの商売について次のように認識しています。

シャイロック
だが、あん人の財産は、別に、現物があるわけじゃあない。貿易船が、一隻はレバノンのトリポリ、二隻目は西インド諸島に出ておる。それに、リアルトーの取引所で話に聞いたところじゃ、三隻目はメキシコ、四隻目はイングランド、そのほかあちこち、むやみにばら撒いていなさるらしい。

同書30頁

つまり、莫大な差益の利潤獲得を目指し、リスクを負って危険の潜む海洋貿易を行う。しかし、アントニオ自身は船に乗るわけでもないし、積荷たる商品を生産するわけでも、買付や売却に直接に携わるわけでもない。自分はヴェニスの街にじっとして、船が行ったり来たりするのを待っている、出すのは金だけ、動いているのは金だけ、金が媒介する商品だけ、お金に働いてもらう、そういう商行為なわけです。


(2)古代ローマ貴族風兄弟盟約と敵

他方で、アントニオは友愛の精神を生きたいと思っています。

アントニオ
いいとも、バサーニオ、ぜひ聞かせてくれ。もしそれが、いやしくも名誉にかなうことであるなら――もちろん君は、今まで名誉を汚したことなど一度もないが。いや、心配することはない。私の金も、この体そのものも、どこどこまでも君の役に立てるつもりだ。

同書17頁

バサーニオ
無二の親友。あれほど友情に篤い男はほかにはいない。高潔で、友のためとあらば、どこまでも身を捧げてやまぬ人物。いにしえのローマ人の名誉を、今このイタリアで体現する者がいるとすれば、彼こそ、まさしくその人だ。

同書123頁

アントニオの気風は「兄弟盟約的な連帯関係」(前掲岩井論文16頁)であり、友愛です。私のものは君のもの、君のものは私のもの、という兄弟盟約的関係性を意味しています。

別の視点からいうと友愛関係は、確立した個同士の連帯すなわち「私が大事にしているもの、君が大事にしているもの、これを相互に尊重して決して他方のそれに手を突っ込んだり詮索したりせず、確立した個同士において明瞭な分節線を維持して関係性を取り結ぶ」というあり方とは異なるように思われます。分節線を融解して一体化を希求するからです。

他者との一体化を希求する友愛を生きれば、その反射として必ず敵を設定しなければなりません。そこから友敵関係が生まれます。憎い敵がいるからこそ友に心を託せる。アントニオは敵を求めなければならない。友愛精神は美しく貴重であり、同時に、むしろだからこそ敵を生む、取扱注意の代物でもあります。


(3)憂鬱、高揚、不認識

アントニオは友愛の精神に生きたいと思っていますが、仕事としてやっていることは前記した利ザヤ獲得のための自分の身体をリスクにさらさないが財産を失うリスクにつかりきる海洋貿易です。憂鬱に悩むアントニオには、バサーニオからさらに金を貸してくれと言われることは、友愛を発揮できる機会が提供されることであり、迷惑どころか喜ばしいことです。

アントニオ
知ってのとおり、私の財産は今、すべて海に出ている。手許には現金もなければ、すぐ金に換えられる商品もない。だから、まず街へ出て試してみてくれ、このヴェニスで、私の信用がはたしてどれだけものを言うか。その信用をギリギリまで搾りあげても、君には十分な支度をさせて、ベルモントへ旅立たせよう、その美しいポーシャの許へ。さ、今すぐ出かけて訪ねてみるんだ、金のありそうな所を隈なく。私も出かける。間違いない、私の信用からか、それとも私に対する友情からか、金は必ず手に入る。

同書19頁

ところが、アントニオは自分の「友情」からは金が手に入らない。軽蔑し徹底的に苛めているシャイロックから借りることになるのは、友人が貸してくれなかったことを意味します。哀れなアントニオは「信用」からも金が手に入りません。高利貸のシャイロックから借りることになるのは、他の者は海洋貿易をするアントニオに信用(もちろん経済ターム)を与えないので金を貸さないからです。ここに固い基盤資源を有しない、典型的世襲貴族ではないアントニオの特徴がよく現れています。

アントニオの予想に反し、彼の信用も友情も、ヴェニスという街では全くと言っていいほどものを言わなかった。バサーニオへの友愛の精神を生きる機会をつかもうとアントニオの精神は高揚する、がそれゆえに彼は現実を見ることができない。

そこでシャイロックが必要となる。この街には、少なくとも今のアントニオにはシャイロックが必要なのです。友のため金を得るために、友愛を試すに足る敵を得るために。



4 ユダヤの高利貸 シャイロック

(1)利子をとる

シャイロックはユダヤ人でありユダヤ教徒です(同書32、166頁)。

旧約聖書の申命記 第23章、第19節には「兄弟に利息を取って貸してはならない」とあり、第20節には「外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない」とありますが、シャイロックは高利貸しをしています。彼は才知を駆使しで財を殖やすことを、旧約聖書の創世記 第30章のヤコブのエピソードを論拠に適正なものだと考えているようであり、また、財産を殖やし金を儲けることは神の祝福によると言います(同書34~35頁)。ヤコブの羊の子のエピソードにもなぞらえて、金が利子という子を産むのだと言います(同書35頁)。

金利は、金銭消費貸借の、現在のお金の価値と将来のお金の価値を交換することにより生じる差異たる価値を意味するもので、この時間差(価値の異なる二つの時間点)を媒介することにより、貸手は利子という利潤を得ることができます。

同族の友人に、テュバルやクシュがいる(同書123頁)。テュバルは金持ちであり、シャイロックがアントニオに融通するお金は、テュバルからシャイロックに来るようです(同書32~33頁)。シャイロックの妻はすでに亡くなっており、娘のジェシカと一緒に暮らしています(同書60、104頁)。


(2)苛められ続けてきた者

さて、このシャイロックはアントニオから日々蔑まれ、苛められています。金を用立ててくれと頼まれる立場であるのに、まだ侮辱されます。

シャイロック
アントニオ様。今まであなた、何度となくリアルトーの取引所で、手前のことを、頭ごなしに罵ってくださいましたな、手前の金のこと、利子のこと。けれども手前は、ただ黙って肩をすくめ、耐えてきた。耐え忍ぶことこそ、われらユダヤ人の、まぎれもない印でございますからな。あなた、お言いなすったね、手前のこと、邪教の徒だ、人殺しだ、犬畜生だと。そうして、この手前のユダヤ服に、唾、吐きかけた。それもこれも、手前がただ、自分の金を活かして、利子をとったからというだけ。ところがだ、そのあなた様が、今度は、私めの助けがお入用らしい。何てこった。手前の所へお見えになって、こうおっしゃる。「おい、シャイロック、金を貸せ」、手前の髭に痰を吐きかけ、お宅の玄関に迷い込んだ野良犬さながら、足蹴になさったあなた様が、おっしゃる。「金が、ほしい」。何とお答えすれば、よろしいんで?……

同書36~37頁

アントニオ
おれはこれからも貴様を犬と呼び、唾を吐きかけ、足蹴にもする。私に金を貸すつもりなら友人に貸すと思うな。…(中略)… むしろかたきに貸すと思え。それなら、万一約束を違えた時には、その分、情容赦もなく、違約金を取り立てることもできようからな。

同書37頁

アントニオの言う「仇」は、もちろん友人と対比される「敵」(シェイクスピア(福田恆存 訳)『ヴェニスの商人』33頁,新潮文庫,2014.原文「enemy」)です。ここでしっかりと、アントニオの敵 シャイロックが設定されました。


(3)復讐の機会という罠

侮辱され足蹴にされ続けてきたシャイロックは、アントニオを憎んでいます。

シャイロック
(傍白)ハッ、さも信心深げな顔しやがって。神殿でひざまずき、いかにもへりくだったふうを装った、あの税の取立て人そっくりじゃあないか。おれはあいつが大嫌いだ。ただ、キリスト教徒であるためばかりじゃあない。慈善だかなんだか知らないが、愚かなことに、利子も取らずに金を貸す。おかげで、このヴェニスの金利が下がっちまった。弱みでも見つけたら、昔から胸に募ったこの恨み、たっぷり晴らしてやるからな。やつ、わしら神聖なユダヤの民を憎みやがって、商人たちが大勢集まっている只中で、おれを罵る、おれの商売を罵る、おれが真っ当に稼いだ金を、利子だと毒づいて罵倒しやがる。かりにもあんなやつを許しておくくらいなら、われら民族全体が呪われるがいい!

同書32頁

憎しみの深さは相当なものです。ここから、シャイロックの一歩に微妙な歪みが生じることになります。

シャイロックはアントニオに利子をとらずに金を融通することにしますが、条件を付ける。

シャイロック
…これこれの日限までに、これこれの場所で、証文に明記したるこれこれの金額、万一返済なき場合は、そのかた・・として、あなた様のその白いお体の肉、きっちり1ポンド、お体の、いかなる部分からなりと、手前の望む場所から、切り取ることができるものと定めると。

同書38頁


この条件、証文の文言は、敵同士をどこに導いていくのでしょうか。



5 形態と各自の原理、ずれ込みの一歩

(1)動く体、動く金

ここで少し俯瞰的に考えて、形態を見てみましょう。

バサーニオは愛と遺産を求め、ポーシャのいるベルモントへ勇躍として飛び込んでいきます。体を実際に移動させます。物語の後半には、アントニオの危機を聞きつけてヴェニスに瞬時に戻る。この速度、明確な動き、直線的な行動スタイルは、前記したバサーニオの特徴にいかにも似つかわしいものです。

他方、シャイロックは金貸しですから、動くのは、あるいは動かすのはお金です。貸付金が利息というお金を生み運んでくるのを、ヴェニスのおそらくはゲットーで待っているのです(「ヴェネツィア共和国は、1516年に法令によってすべてのユダヤ人を町西北部の特定の場所(ゲットー)に住まわせることにした…」(後藤泰一「『ヴェニスの商人』覚書」信州大学法学論集,20号,75-104[83]頁,2012))。人を見抜き、時勢を読む、才智のいる仕事です(誰に、いつ、どのくらいの金額を貸すか。原資は自己か、他から融通を受けるか。返済期限は、返済方法は、利率はどうするか。担保はとるか、何を担保とするか、証書は作るか、文言はどうするか等々)。しかし、身体の移動距離は極小となります。

次にアントニオ。彼は海洋貿易商ですが、商船に乗り込んで地中海やインド洋の荒波や嵐に身をさらしたりはしません。有する資金で商品を買い付け、商船に乗せ、売りさばいて帰ってくるのをヴェニスの街で待っているのです、憂鬱に(同書9頁)。バサーニオがベルモントへ行っている間、アントニオは特にすることもありません。再登場は、物語終盤のヴェニスの法廷です。お金、これが転化した商品、そしてまたこれが転化したお金が、ぐるっと回って帰ってくるを待っているのであって、身体の移動はほとんどありません。

体を動かすバサーニオと対比し、お金を動かすシャイロックとアントニオは似た者同士であるといえます。法廷で後二者は対立当事者となり、駆け付けたバサーニオが傍聴人であるのも、この構造に即しています。


(2)動くことが意味する現実への直面と危険との遭遇

動く、というのは現実に直面する、ということです。現実への直面とは、危険に遭遇する、ということでもあります。駆けると地面が足に抵抗し、速度を増せば風が顔を打つ。転ぶかもしれない。高いところから水に飛び込めば水面は実は固いと知り、水が抵抗してくれるので、水をかいて泳ぐことができる。だが溺れるかもしれない。飛行機は離陸するために直面して抵抗する空気を要する。落ちるかもしれない。

ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ。

サン・テグジュペリ(堀口大學 訳)『人間の土地』7頁,新潮文庫,1998


バサーニオは全身をもって全霊でポーシャへの危険な挑戦に向かいますから、すべてを賭けている、がゆえに燃え上がった生を生きています。

他方、アントニオは、自身本体をリスクにさらすのではなく、自己の資産をリスクにさらす。だから、本当は自分の体をリスクにさらしたい、友愛精神からいっても自分を友に捧げたい。肉1ポンドの申出はうってつけであり、渡りに船です。

シャイロックの方は、もともとが利殖に命をかけこれに生きている、生き生きと。つまり貸金業に当然ともなう金銭上のリスクを日々負っています。しかし、その日常からはそれる復讐心がささやく。今回は利息はとらず、代わりにちょっとお遊びをしてやろう(「ほんのお笑い草の冗談として」(同書38頁)、「ほんの一興、れごとのつもりで」(前出福田訳33頁))。


(3)ずれ込みの一歩

以上で諸要素は出そろったかと思います。

バサーニオには明瞭な構図に基づく一歩があり、そこに歪みはありません。

しかし、アントニオは複雑な心理を抱えています。シャイロックと本質的商原理の変わらない、差異を媒介することによる利潤獲得を目指して、金と商品を積んだ商船を海でぐるぐると回していますが、自分の体は一切の危険から離れたヴェニスにあります。友愛精神を求め、バサーニオにお金を融通するために自分の体をリスクにさらすのは、その裏返しであったわけです。友のため敵に身を晒すなど、理想的なシチュエーションです。だからアントニオは現実を見れないのです。海洋のリスクは計り知れず、シャイロックの自身への憎しみも測り知れず深かったのですが、上記の構図に喜んではまり込んでいますから、そうした現実を虚心にみることができなくなっています。友愛の相方 バサーニオが「いや、ぼくのためにそんな証文、判などついてはいけない。それくらいなら、金に困ったままでいるほうがまだいい」(同書38~39頁)と冷静な目を持ち合わせていることと好対照です。ですから、アントニオは恐るべき証書を作成することに何らの躊躇もありませんでした。高揚した精神で、ずれ込んだ一歩を踏み出すことになったのです。

シャイロックはどうでしょうか。彼はアントニオの求めに応じて金を貸しますが、通常のやり方に反して利子をとりません(同書38頁)。この点は重要です。また、あんなに嫌だと言っていたキリスト教徒との一緒の食事も、バサーニオから食事に誘われて行くことにする(同書31頁、67頁)。心理的に大きな負荷をしてまで。シャイロックが、自分の通常のやり方をこの時ばかりは変え、信仰面からも心理的一貫性を失ってまで実行する。その理由が、復讐のチャンスをつかむという点にあることは明瞭なことでしょう(言葉上の「戯れごと」は、本当は確信犯的策略だったか。あるいは途中、アントニオの商船難破と娘 ジェシカの駆落ちの報が最後の引き金を引いたのか)。その彼が作り出す毒を潜ませた証書、これがずれ込みの一歩となって、やがて彼を破滅へと導いていきます。


6 関係構築のあり方

バサーニオとアントニオは兄弟盟約的な友愛関係であり、前者は放蕩息子らしく明瞭に関わっており、すっきりしています。後者はその憂鬱が象徴するように、すっきりと友愛だけに生きることができず、前記商原理とともに、友愛ゆえの憎い敵の設定を欠くことができません。また、アントニオはバサーニオとの一体的融合を希求するので、分節線を維持した個同士のあり方に至っておらず、君に捧げたい、この肉1ポンドごときが何だ、という心ですから、そこにシャイロックがつけ入る隙もできるというものです。

アントニオはシャイロックを敵としますので、相手が何を大事にしているか、どのような生を生きているかを考慮することはありません。法廷でシャイロックがポーシャに打ち砕かれて、慈悲を下すかのようにアントニオが提案するシャイロックの財産や信仰の扱いは(同書165~166頁)、彼の心の柱を残酷に取り外すものであり無慈悲もいいところですが、物語の基調は、さすがキリスト教徒という歓呼の声を観衆があげているようで、かえって不気味です。

シャイロックは、苦しい苛めに耐え抜いてきたがゆえの復讐心から、アントニオの命まで奪おうとする(同書146頁)。相手を、あるいは相手の大事なものを大事にできない、尊重できないのは、アントニオと同様です。言葉の本質を知らないため、自ら墓穴を掘ってそこに問答無用に落とされていきますが、その本当の遠因は、自らの復讐心を優先させてこの時ばかりは自分の軌道(いつものやり方)を見失ったがゆえに、侮辱と攻撃を加え続けてきたアントニオらキリスト教徒との関係構築という難事業に失敗したことにあるのでしょう。

他者や他の文化、相手の生き方や心、これらを認めない、個を認められない。そこから、空虚な自己を仮託する友愛や個を埋没させる集団へ一体化したり、異なる者を苛めて侮辱し、あるいはその反作用による復讐心で肉1ポンドを求め、さらには恐るべきジェノサイドによる殲滅を望む、という歪んだ関係構築のあり方が生じてきます。

そうではなく、確立した個同士、違いゆえに一体化せずに分節を維持し、それでいて他者を尊重し、相手が大事にしているものを尊重して、工夫しながら切り結んでいくという高質な関係性こそが求められるとき、この物語は大きな示唆を放っていると言えるのではないでしょうか。



【証書の文言、法と言葉について、機会があれば書いてみたいと思います】

【参考文献】
・小野昌「『ヴェニスの商人』におけるVentureについて」城西人文研究,7巻155-170頁,1980.
・岩井克人「ヴェニスの商人の資本論」『ヴェニスの商人の資本論』8-72頁,ちくま学芸文庫,1992.
・野口忠昭「『ヴェニスの商人』におけるポーシャ再考」立命館経済学,58巻3号,21-42頁,2009.
・後藤泰一「『ヴェニスの商人』覚書」信州大学法学論集,20号,75-104頁,2012.
・西原幹子「The Merchant of Venice におけるシャイロックと商業活動の表象について」沖縄国際大学外国語研究,16巻1号45-61頁,2012.
・河合祥一郎「シェイクスピア没後  四百年の今」教養学部報,第586号,2016.

【雑多メモ】
〇本note記事の分析視角は、「自分の物は相手の物、相手の物は自分の物、という兄弟関係ではなく、互いに掛け替えのない物を相互に尊重し合う、そうした結合の単位である」(木庭顕「夏目漱石『それから』が投げかけ続ける問題」『憲法9条へのカタバシス』所収,110頁,みすず書房,2018)という、『ヴェニスの商人』を論じたのではない論稿の一節に個人的に基づきます。
○アントニオの友愛精神にずれ込みの一歩の原因をみましたが、友愛自体を否定したり忌避すべきだと主張するものではありません。そもそもそのような友愛排除は不可能です。問題はいつも、どう見抜くか、どう受け止めるか、どう取り扱うか、他の要素とどのように切り結ばせるかです。
○アントニオへの金の融通を決め証書を作成しようという時のシャイロックの心の裡は、本当のところは知りようがないところではありますが、何か微妙に漂うものがあります。それは、アントニオと本当に付き合える間柄になりたいという、微かな希望というか欲求というか、切ない想いです。シャイロックは社交辞令ぶった表面的言辞を用います。「いや、本当に好意を示したいと、思っておるんだ」(同書38頁)、「このお方の、御好意をいただきたいから。友情で申し上げているんだ、こっちは」(同書39頁)。言葉どおり受け取らずに裏の意味で解釈すれば、復讐のための罠です。しかし、言葉どおりの気持ちが、ほんの僅かにありはしないか。だが、そうなら肉1ポンドをかた・・として要求するなど矛盾する行動ではないかとの指摘もありえましょうが、しかしどうでしょう。“私を対等に、人として信頼してくれますか。あなたの身体を預けるまで心を開いてくれますか。どうなんです?”と、シャイロックがおずおずと上目遣いで、苛めてくる相手に聞いているように思えませんか。心の声は、色とりどりの糸が織り合わされたように、いつも複数ではありませんか。
○シャイロックが知らない言葉の本質について。「「恣意性」という特徴はさらに、言語記号において、記号表現と記号内容の対応が一対一であらねばならないという束縛から言語を解き放ち、一対多、多対一という対応の可能性への道を開く。(中略) このことの持つ重要な意味は、それが言語の創造的な使用を可能にするということである」(池上嘉彦「言語学と記号論」『言語学から記号論へ 講座 記号論1』15頁,勁草書房,1982).彼は「Is that the law ?」と聞くが、まさにそれが法である。法が言葉による技術であるというコア部分を失ったことは、歴史的にその光輝と堕落を経巡ったとしても一度もないはずです。


2024.7.1



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