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写真と俳句 その四十二

2023年 9月 7日



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 三日月や 膝へ影さす 舟の中 太祇


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太祇 (たいぎ) 1709年〜1771年

江戸中期の俳人。炭(たん)氏。初号水語(すいご)。別号不夜庵(ふやあん)、宮商洞、三亭など。江戸の人で、俳諧(はいかい)を初め水国、のち慶紀逸(けいきいつ)に学んだという。40歳を過ぎた宝暦(ほうれき)年間(1751~64)の初めに上洛(じょうらく)、やがて仏門に帰依(きえ)して法号を道源と名のり、紫野大徳寺真珠庵(あん)に入った。ほどなく、妓楼(ぎろう)桔梗屋(ききょうや)主人呑獅(どんし)の援助により島原遊廓(ゆうかく)内に不夜庵を結び住んだ。蕪村(ぶそん)と親密な風交を重ねた1766年(明和3)以降の6年間は意欲的に俳諧にかかわり、多くの佳吟を残す重要な時期となった。その人柄は無欲恬淡(てんたん)、温雅洒脱(しゃだつ)であった。俳風は人事趣味を得意とし、技巧的な趣向のおもしろさをもつものの、理詰めで深みに欠ける難もある。編著に『鬼貫(おにつら)句選』(1769)があり、作品は『太祇句選』(1770)、『太祇句選後篇(へん)』(1777)に収められている。明和(めいわ)8年8月9日没。墓所は京都市綾(あや)小路大宮西入ル光林寺。[松尾勝郎] 行く程に都の塔や秋の空『池上義雄著『炭太祇』(『俳句講座3 俳人評伝 下』所収・1959・明治書院)』

小学館
日本大百科全書(ニッポニカ)

… 本来中興諸家の俳風は多彩で,蕉風(蕉風俳諧)の目標も《虚栗(みなしぐり)》《冬の日》をとる者,晩年の《炭俵》調を選ぶ者とさまざまであったが,どの作家も純粋な感動を第一義とする点で一致し,運動の主力が地方系の伊勢派末流にあったことも起因して,平明で簡素な表現,写実的な形象性が重んじられ,繊細な感覚,清新な抒情,自然美の再発見も求められた。なかでも江戸座に近い蕪村は其角らの風も学び,知巧的で自在な表現を加味して高雅で浪漫的な美を追求し,同じ京の太祇も都市風の人事句に洗練を見せ,改革が地方系のみでなく都市系からもなされたことを示した。また運動の背景には儒学の徂徠派や国学における古学尊重の風潮があり,これが招来した漢詩文や文人趣味の流行も影響して,俳諧に古典的色彩や雅文学志向をもたらした。…

天明俳諧
平凡社
世界大百科事典 第2版


国立競技場前。Jリーグの試合のために、人が大勢、集まっています。半月が出ています。飛行機が飛んでいます。
「千駄ヶ谷駅」交差点


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 満月や 下駄を鳴らしつ 路地散歩 広在
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 荒城の月

Berliner Philharmoniker
The 12 Cellists of the Berliner Philharmoniker
Recorded at the Philharmonie Berlin, 9 January 2022
The Berliner Philharmoniker's Digital Concert Hall


春高楼(こうろう)の 花の宴(えん)
巡る盃(さかづき) 影さして
千代の松が枝(え) 分け出でし
昔の光 今いずこ

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし
昔の光 今いずこ

今荒城の 夜半(よわ)の月
変わらぬ光 誰(た)がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌う(うとう)は ただ嵐

天上影は 変わらねど
栄枯(えいこ)は移る 世の姿
映さんとてか 今も尚
ああ荒城の夜半の月

作詞:土井晩翠
作曲:瀧 廉太郎
世界の民謡・童謡 より

春には城内で花見の宴が開かれ
回し飲む盃(さかづき)には月影が映る
千年の松の枝から こぼれ落ちた
昔の栄華は今どこに

秋の古戦場 陣跡の霜に静寂が満ちる
空を行く雁の群れの鳴き声
敗れた兵の地面に刺さった刀に映る
彼らの命の輝きは今どこに

今や荒れ果てた城跡を
夜半の月が照らす
昔と変わらぬその光
主も無く 誰のために
石垣に残るは葛のツタのみ
松の枝を鳴らす風の音のみ

天上の月が照らす影は今も変わらず
されど世の中の栄枯盛衰を
今もなお映そうとしているのか
ああ 荒城を照らす夜半の月よ

「荒城の月」解釈
世界の民謡・童謡 より


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 俤や 姨ひとりなく 月の友 はせを


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 おもかげや おばひとりなく つきのとも
 「更科紀行」
 貞享5年(1688年)8月 芭蕉45歳

更科紀行 芭蕉自筆稿本 20.1cm × 137.1cm
伊賀市/デジタルミュージアム秘蔵の国 伊賀 
(以下リンク先、後半「姥捨山」の次の行)


 「更科紀行」は、更科の里、姥捨山の月を見ようと、出かけた旅。木曽街道の旅は、危険が多く不安な様子が描かれています。不思議なもので、困難が多いほど、良いものが生まれやすく、この句を芭蕉はとても気に入っていたようです。
 

 能 「姨捨」

姨捨
月の名ちかき あきなれや。月の名近き秋なれや。
姨捨山を尋ねん かやうに候者は
都方に住居仕る者にて候。我いまだ
更級の月を見ず候程に、この秋思ひ立、をはすて山へと急ぎ候。このほどの
志ばし 旅居のかり枕、しばし旅居の仮枕。又 立ち
出ずる中宿の明し暮して行程に
ここぞ名に負う更級や、姨捨て
山につきにけり。姨捨て山につきにけり。さても我
姨捨山に来てみれば、嶺平らか
にして萬里の空も隔なく千里
に隈なき月の夜。さこそと思ひやられ
て候。いか様この所に休らひ今宵の
月を眺ばやと思ひ候・・・

宝生流謡本
「姨捨」
宝生九郎 著
椀屋謡曲書肆 版 大正5年
国立国会図書館デジタルコレクション (保護期間満了)
https://dl.ndl.go.jp/

姨捨/伯母捨(おばすて) あらすじ

とある秋のこと。都の人が、信濃国更科の名月を眺めようと思い立ち、従者(同行者)とともに名月の日、姨捨山に登りました。平らな嶺に着いた都人が、月の出を待っていると、中年の女性が声をかけてきました。女は更科の者と言い、今宵の月は、ことのほか美しく照り映えるだろう、と都人に告げました。都人は、この近くに昔、老婆を捨てにきたという姨捨の跡があると聞くが、どこか、と問いかけます。女は、昔、山に捨てられた老女が、「わが心、慰めかねつ更科や、姨捨山に照る月を見て(姨捨山に照る月を見れば、悲しくなり、そんな自分の心を慰めるすべもないよ)」という歌を詠んだと教え、その老女の墓所を示しました。今なお老女の執心が残るのか、あたりは物寂しい様子です。そんな中、女は、後に月と共に現れて都人の夜遊を慰めよう(夜に歌舞を楽しむこと)と言い出します。そして捨てられた姨捨の老女は自分だと明かして木陰に消えました。(中入)
その後、更科の地に住む者が現れ、都人に姨捨の伝説を詳しく語り、今夜はここで過ごすようにと勧めました。そのうちに夜になり、すっかり晴れた空に、月が明るく照り映えています、都人がその景色を楽しんでいると、白い衣を着た老女の亡霊が現れました。老女は、この地の月の美しさを讃え、月にまつわる仏教の説話を語ります。なおも昔を懐かしみ、舞を舞うなどするうちに、やがて夜が明けてきました。都人が山を後にし、老女はそれを見送ると、捨てられた昔と同じく、ただ一人残されたのでした。

the能ドットコム
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_105.html


 芭蕉は、上記の能の世阿弥作「姨捨」、古今和歌集 巻17・雑歌上・878「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山に照る月をみて よみ人しらず」、
また、大和物語の「姨捨」、これらの作品の場であるこの地へ、行かずにはいられなかったのでしょう。
 どうしようもなく切ないことに対して、月と共に悲しみ、悩み、作品として昇華していったのだと思います。


 姨捨山

長野県千曲市「冠着山(かむりきやま)」
標高1252メートル
「田毎の月」として、名月の地とされている。
田毎(たごと)の月とは、姨捨の棚田の一つ一つに映る月のこと。

歌川広重が「信濃更科田毎月鏡台山」として、1850年代に、描いています。


 人捨穴

「人捨穴」の写真です。八丈島の伊郷名にあります。「人捨穴」には、さまざまな説があり、幕末に難破し上陸した欧米の捕鯨船員の遺体を葬った場所、古の「風葬」の遺構 などとも言われています。観音像が入口にあります。飲み物が供えてありました。  
「人捨穴」
八丈島 伊郷名
 
(「人捨穴」にはさまざまな説あり
幕末に難破し上陸した欧米の捕鯨船員の遺体を葬った場所
古の「風葬」の遺構 など)  

 八丈島の伊郷名にある「人捨穴」。深さ32メートル(戦後、埋められました)。
 「八丈年代記」によると、1456年から1532年の間、台風、噴火、雪や霜、洪水、大風、疫病などの理由で、飢饉が起こっています。
 江戸時代に入っても、同様の状態が続き、民話にも悲惨さが残っています。幕府は、食料の援助や資金の貸付し、備蓄用の倉を建てさせますが、飢饉は続きます。
 1835年、甘薯(さつまいも)の栽培方法が工夫され、収穫が見込めるようになりました。さつまいもの苗が最初に送られた1727年から108年後のことでした。

 八丈島の民話

「こんきゅう坂」
昔の話でおじゃる。島へ船は年一回程度しか来ませんでした。そのため、島人は細々と自給自足の暮らしをしていました。ある年のこと、防風が吹いて作り物が無くなり、島は飢饉になりました。その時、島にオメジという2、3歳の人形みたいに可愛い女の子がいました。オメジの家でも食物が無くなり、山からタブの木の実を拾って食べたり、海岸からハンバ(海藻)を取って来て食べたりしていました。

「とこら」
むかしむかし 八丈島は食料が乏しく、味噌やお米は一年に一度の船が運んでくるごちそうでした。
島民達の普段の生活を支えてくれていたのは、トコラという山芋でした。
トコラはトゲが多く、苦くておいしいものではありませんでしたが、命をつなぐために欠かせない食料だったのです。
あるお婆さんが山でトコラを採っていました。
かごいっぱいとったところで何気なく腰を伸ばして海を見ると、本土からの配給の船が来るのが見えました。

「人捨てヤァ」
むかしむかし、おおむかし。
 ⇒ムカシ ムカシ オウムカシ
 人生わずか五十年といって、人は五十歳になると、人捨て穴という穴があって、そこへ子が親を背負っていって捨てるようになっていたそうだが。
 ⇒ジンセイ ワズカ ゴジューネンテッテ ヒトワ ゴジューニ ナルトワ ヒトステアナーテ ヨ ヨーガ アッテ ソケイ コガ オヨー ショッテ イッテ ブッチャロ ゴン ナッテ アララッテイガ

八丈島の民話
https://hyoutan1857.blog.jp/archives/15016886.html

八丈方言で語る島の民話



月が出ている夕方、公園には、大きな木が夕日にも照らされています。傍には2台の自転車。仲良く停められていました。
武蔵国分寺公園



赤いノウゼンカズラの花が咲いています。凌霄花(りょうしょうか)と言います。中国原産ですが、平安時代までには日本へ渡来しました。 ちなみに夏の季語です。
ノウゼンカズラ
凌霄花(りょうしょうか)
中国原産 平安時代までには日本へ渡来 (夏の季語です)



ヒマラヤスギが陽に照らされています。幹がしっかりした大きな木で、何本も複雑に枝がでています。
ヒマラヤスギ



雲の写真です。紺碧の空に、白く何層にもなった雲がいい形を作っています。雲の遊びという感じがします。



大木の隙間から太陽の光が差し込む写真です。「日はまた昇る」
日はまた昇る



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