見出し画像

【建築】簡素でありながら心が震えるファールス修道院(ハンス・ファン・デル・ラーン)

皆さんは映画・音楽・美術館などに行く時、何から情報を得るだろうか?
訊くまでもない質問だと思うが、今の時代、ほとんどの人はネットで調べるだろう。私が建築を見に行く時もそうしている。そして実際に訪れてみると、それなりに満足感も得られる。ただし意外性のある建築に出会うことは少ない。どうしても自分好みの建築を選んでしまうからだ。
そこで最近はネットに加えて、というか以前はそれは普通だったが、詳しい人や地元の人にオススメの建築を教えてもらうこともある。当然それらは私の「いつか訪れたい建築リスト」に加わることになる。

そのように人から教えてもらった建築の一つに、ファールス修道院(Abdij Sint-Benedictusberg)がある。ご存じの方は少ないと思う。もしかしたら建築関係の方でもあまり知らないかもしれない。ネットで調べても日本語ではあまり情報がヒットしない。しかし私にはこの建築が何となく気になり、この数年間、常にリストのトップにあった。

そして2022年9月、時は来た。The time has come.である。




ベネディクト会系に属しているファールス修道院は、オランダ南部の街ファールス(Vaals)にある。アムステルダムからは鉄道やバスを乗り継いで4時間以上かかるが、ドイツやベルギーとの国境に近く、ドイツ・アーヘンからタクシーに乗れば、比較的容易に訪れることができる。


今にも泣き出しそうな厚い雲に覆われたこの日、修道院はなだらかな丘陵地の林の中に埋もれるようにしてその姿を見せていた。隣には牧場があり、のんびり長閑な風景が広がっている。


公式サイトによれば、「典礼・お祈りのみならず、建築探訪を含めた全ての来訪者に対して修道院は開かれています」とある。ただし神と修道院に敬意を払い、マナーを遵守した上でのことだ。


建物は丘の上にあった。天気のせいもあるが、外観はどうにも地味である。いつもはしつこく写真を撮る私も、ほんの数枚撮っただけで、中に入ることにした。


ドアを開けるが、玄関ホールからは人の気配は全く感じられない。

しかしこのホール、素材の使い方や光の取り入れ方からして、この建物が只者ではないことを既に匂わせている。


隣には小さくも宗教建築らしい中庭が面していた。


院内には案内図もサインもないが、導かれるように傍の階段を上っていく。

2階は中庭を見下ろす回廊となっている。


その回廊に面した一枚のドアから歌声が聞こえてくる。この奥が教会だろう。


そっとドアを開けると、典礼が行われている最中だった。信者でない私は、後ろのベンチからその様子を見学させて頂いた。(典礼の写真は撮っていない)

ラテン語による修道士たちの祈りと楽器を使わない歌声だけの聖歌が音楽ホールのように堂内の隅々まで響き渡る。修道士の声の良さもあるが、あまりの美しい光景に、この時点で感動してしまった。


やがて典礼が終わり修道士たちと信者の方々が退出すると、物音一つ聞こえない静寂な時間が訪れた。ココにいるのは私一人だけだったが、何故かしばらくベンチから動くことができなかった。

典礼で使われていた振り香炉の煙がまだわずかに残り、堂内全体がぼんやりと白く光っている。


それにしても神聖という言葉がこれほどしっくりくる空間はないだろう。加えて禁欲的な雰囲気もある。


デザインはとても簡素だ。幾何学的であり、直線と四角形しか使われていない。その中で照明だけが円錐形であり、アクセントになっている。


側廊もシンプル。ただ壁と柱があるだけである。無駄がないというか、余計なものを極限まで削ぎ落としている。それでいて貧相だとかみすぼらしさといったものは微塵も感じさせない。


ブロック仕上げの壁や柱は上から白く塗られ、味わい深い表情を見せている。


この建築を設計したのはハンス・ファン・デル・ラーン。父や兄弟が建築家という環境で育った彼は大学で建築を学んでいたが、途中で建築を離れ、修道士の道に進んだ。大学での学問と自分が学びたいことが違ったからなのか、あるいは人間や生活の本質を追求することに興味が湧いたからなのか?
ただし彼は建築を捨てたわけではなかった。修行生活を送りながらも兄弟と共に建築の道を探究し続け、教会や修道院の設計活動も行なっていた。

ちなみにハンス・ファン・デル・ラーンの名前に「ドン(Don/Dom)」を付けて紹介されることがある。マフィア映画などで使われる「ドン」であるが、本来は高位聖職者に対する尊称である。



閑話休題。この建物は、1956年に当時の修道院長が、他の修道院で修行していたハンスに設計の依頼をしたことから始まる。完成したのは1968年。それを機にハンスもこの修道院に移り住むことになった。

ハンスは教会を家として考え、神に捧げる家は人間がつくり得る最高の家でなければならないと考えていた。しかしそれは高価な素材や華麗な装飾を施すことではなかった。


例えば部屋の大きさや壁の厚み、柱の太さなどの建築的なスケールを決めるにあたっては、ハンスが若い時から研究して導き出した最適な比率が用いられた。この比率はプラスチック数と呼ばれ、現在でも建築やデザインに応用されている。
この空間に宗教建築らしい威厳や緊張感がありながらも、同時に琴線にも触れるのは、その比率を無意識に感じるからなのかもしれない。


祭壇や家具のデザインも建築家が行った。

こちらの燭台は十字架も表現している。


くさび形をモチーフとした椅子やテーブル。


工夫は他にもあった。信者席から祭壇が見やすいよう、劇場の客席のように祭壇に向かって僅かな傾斜が付いていた。(写真↓は祭壇から信者席を見ている)


地下聖堂も見学してみよう。
オランダ語の「STILTE」は「Silence(沈黙)」を意味する。


この修道院では珍しい曲線状の階段で聖堂に下りる。


上階の教会とほぼ同じ構成・仕上げながらも、異なる空間のようにも感じる。
地下ではあるが、片側の壁上部にのみ窓が並び、自然光が入る。

この独特の採光が、堂内に複雑な陰影をつくっていた。


吊り下げられた十字架。祭壇に置かれたものは何だろう?


側廊には小さな祭壇や告解室が並ぶ。

何度も書くが、シンプルながらも建築のあり方を突き詰めた美しさがある。

窓がない側廊にも祭壇が並ぶ。少し暗めのこちらの方が、より"stilte"に祈ることができるかもしれない。


この聖堂に入る前、信者の方がお一人で静かにお祈りされていたことも印象的だった。もちろんその方が退出されるまで外で待っていた。


玄関近くに並ぶ小部屋も覗いてみた。インテリアもそうだが、広過ぎず狭過ぎずの絶妙な寸法が良い。こんな部屋が欲しい。


ドアの木のパネルは釘で留めているが、それもデザインに取り入れている。


こちらもくさび形をモチーフとした机と椅子。

三本足の椅子って、安定感はどうなのだろう?


廊下の床には開け放されたドアからの光が模様をつくる。


ハンス・ファン・デル・ラーンは、この建物が完成した後も修道生活の傍らベルギーやスウェーデンの修道院の設計をし、晩年にはこの修道院の図書室も手がけている。(残念ながらそちらは見学できない)

1991年、ハンス・ファン・デル・ラーンはこの修道院で86歳で亡くなった。




今回の建築探訪はとても素晴らしかった。衝撃的でさえあった。見た目のデザインだけではなく、そこから感じられる宗教的な威厳や雰囲気にも圧倒された。
しかしこの建築、いつものように自分でネット検索するだけでは、「いつか訪れたい建築リスト」に加わることは絶対に無かっただろう。
教えてくれたGさん、Kさん、本当にありがとうございました!


帰り道は余韻に浸りながら、10kgのバックパックを背負って10kmの道のりを歩いて、アーヘン市内まで戻った。

そう、アーヘンといえば世界遺産にも登録されているアーヘン大聖堂。
ステンドグラスが美しいこのビザンティン様式の教会も私は大好きだが、用途が違うとはいえ、同じ宗教施設なのかと思うよね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?