国家と個の距離感

誰もが簡単に世界中の情報にアクセスできるようになって、身近に色々なトピックについて語る事が可能になった。ある意味便利であり、ある意味危険な状況なのだと思う。

なぜなら、関係ない人があたかも自分事のように首をつっこめる。ワイドショーがその典型だが、個人的に専門性が高いわけでもないタレントのヤジや薄っぺらい総評を聞きたいわけでもない。今までは、テレビがそのような手法で視聴率を稼いできたが、誰もがビデオカンファレンスで参加できるようになると、専門性の高くないタレントは淘汰されるだろう。

タレントのことはさておき、個人が当事者顔で多くのことを語る危険性をもっと、認識すべきだ。言論の自由があるのだから、好き勝手語ればよいのだが、そういう薄っぺらい情報、あるいはモノゴトの側面しか捉えられていない情報で世の中は溢れている、ということだ。最近、私のFBのポストは老人の世の中批評や国家論で溢れている。

特に、学者でもないのに国家を頻繁に語っている人は要注意だと思った方がいい。国名はあくまで、ある一定の領域を特定しているだけで、その中に無数の個人がいることを忘れてはいけないし、個と国家の間には自分が捕捉できていない無数の事象やプロセス、文化、感情などがすっとばされていることが多い。国家の中の個人や集団をみると、その属性や特徴は、意外にも他国の別の集団と似ているかもしれない。

アメリカで育って、中国に長年住んでいた先輩が、中国人とアメリカ人はメンタリティが似ている、と言っていたことがある。おそらく彼のまわりにいるグローバルシチズンにとっては、国家ということの特性よりも生まれ育った環境やコミュニティの影響が人格形成に大きな影響を与えているのかもしれない。

逆にいえば、個の情報が明確に可視化される時代だからこそ、国家の姿も個を通じてしか見えなくなっていて、学校で友達を批判するかのような国家論に陥っているのかもしれない。

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