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本当にLess is moreなのかな

Less is more = より少ないことはより豊かなことだ。

ご存知ミース・ファン・デル・ローエの代表的な標語です。

僕自身このLess is moreがしっくり来ていた時期があった。それは東京を離れ長崎の超田舎の漁村に移住をした最初の1ヶ月間。この1ヶ月間は少ないこと、何もないこと、誰もいないことが本当に尊くてただただ視界に入ってくる海と山を眺めて時間の経過を愉しんでいた。

必要最低限しかない、もしくは必要最低限にもちょっと足りないくらいのこの環境こそが東京生活に辟易した僕にとっては天国の様な時間と場所だったが、その天国も1ヶ月を過ぎると少しずつ、所々に物足りなさを感じてきた。


Less is moreの標語が生まれた経緯には現在の資本主義への警告も少なからず含んでいると勝手に解釈をしている。欲望と便利さの追求で物やサービスを大量に生産、消費しその仕組みの中で勝ったものが強者とされ地位と名誉、権限を持ち勝てなかった者を資本主義の歯車のように使うことができる。More is moreが絶対の世の中に対して警告を発したのはこの歯車によって消費される者ではなくむしろ絶対的な強者かもしれない。欲望と便利さの追求の果てに見た本当に自分にとって必要なものはそんなに多くは無かったのだと言いたかったのかもしれない。


実際Lessの環境に身を置いてみると色々と不便だし、余計なものを欲するようになる。服作りを始めた最初の頃は一切の装飾がなく、シンプルで日常的に着ることができる服が大半だった。やはりそれはLessの環境がそうさせているのだと思う。Lessの環境に少しずつ疑問と自分なりの定義を持ち始めると同時に都市部への憧れ(中学生の頃にあったような無垢な東京への憧れ)が再燃してくる。伴って作る服にも装飾や無意味な機能や飾りが付き始める。自分がLessからMoreへの環境に移りたくなっている合図だと捉え、都市部(福岡)にアトリエと住まいを移すと決める。

こんな自分の今までの経験から、Less is moreはmoreのところで発揮する概念だと知る。LessのところではLessを求めない。だって、求めなくてもそもそもがもう既にLessだから。東京にいると田舎暮らしがかっこよく見えるし、田舎にいると東京がかっこよく見える。無い物ねだりだけは終わらないんだなーと感じます。

でもしっかりとLessを経験して再びMoreの場所に移ることは、Lessを知らないでMoreの場所でずっと過ごすのとは全く違う次元にいると思います。都市田舎の使い方が変わるだろうし、Moreに疲れてきたらLessに移れるし、その逆も然り。単純にコミットできる環境の選択肢が増えているのでCOVID-19が猛威を奮っている今の様な状態になっても自分の精神衛生状態の悪化や仕事の減少に対してもフレキシブルに対応できる。その確信を持っていることの強さを現在めっちゃ感じています。


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非常事態宣言が出ている現在ですが、長崎にいると実はあまりピンときていません。だって、元々近所に人なんて歩いていないからです。必要最低限の外出と買い物はOKとのことですが、普段から必要最低限の外出はしない。(行くところがない。)

でもこのCOVID-19のお陰で必要最低限じゃない買い物や外出がどれだけ尊くて大切なものか、全人類レベルで思い知りました。僕はこのLessの環境で5年暮らしてその大切さを痛感しています。

現在、半強制的にLessの生活を我々は強いられています。Lessってやっぱり物足りねーなーとか余計なものとか遊びとか、特に何をするわけでもないけど友人とかと会って時間を共有するって、本当に大切なんだなー。

そういえばドラゴンボールで修行をする部屋は精神と時の部屋、何もない空間だったなー。少ないこととか、何もないって強者のみが享受できる修行みたいなもんか。3.11がきっかけで文明とかMoreから距離を置きたくて長崎に移住したのは確かに修行っちゃ修行だった。勝手に自主練してた。なんとか有意義に暮らすために自営業になったとも言える。この自主練のお陰で自分の中のLess is moreという概念に磨きがかかった。

自営業として都市部に移った後に待ち構えているLess is moreはどんなものだろうか。

また修行が伴うだろうけど、ちょっと楽しみではある。

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