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排除ではなく、適度に共存すること

嫌なことは何でもかんでも排除、という風潮への違和感について。
noteを始めるずっと前、昨年1月にインスタグラムで書いた話だ。

以下、その部分を丸ごと引用する。
(インスタグラム用の文調になっている点はご容赦願いたい。)



嫌なこともストレスも、あって当たり前。だから適度に折り合いをつけて共存するしかない。
病も死も、あって当たり前。だから適度に折り合いをつけて共存するしかない。
ウイルスも、あって当たり前。だから適度に折り合いをつけて共存するしかない。

嫌なことは何でもかんでも排除、とにかく排除、という昨今の思想、やはり違和感は覚える。

自分自身、嫌なこともストレスも、自分の病も人の病も、人の死も、ウイルスも、これまで折り合いをつけて共存してきた。
悲しむときは素直に悲しみ、最終的にはどこかで折り合いをつけた。「排除」とは違う。

改めていろいろと思い出す、このコロナ禍。
それも大切なこと。




長い補足

上記投稿の補足を。

人生において、嫌な出来事は避けて通れない。
ストレス、人間関係のトラブル、意見のぶつかり合い、病気、人の死、など、生きていれば誰だって嫌なことにぶつかる。

そんなとき、嫌なことを排除するのか?
それとも折り合いをつけて共存するのか?

普通に考えれば、完全な排除などあり得ない。
身の回りの嫌なことを全て完全に消し去るなど不可能だ。
だから適度に折り合いをつけるしかない。

嫌なことに直面したとき、ただ「嫌だ」と言って排除するのではなく、
・どこかで妥協できないか?
・自分にも改善すべき点があるのではないか?
など、折り合いをつける方向で考えたほうが現実的だ。

もちろん、本当に嫌で嫌でたまらないなら、嫌な出来事から逃げれば良い。
しかし最初から何でもかんでも嫌だ嫌だと排除しようとしても、現実はそうはいかないだろう。

嫌なことがあっても、まず適度に折り合いをつけて共存する。
それで本当に無理なら、嫌なことから極力逃げる。
これしかない。

頭ごなしに排除しようとしない。
これは割と当たり前の話のように思える。


しかし昨今、嫌なことはとにかく排除すれば良いという風潮が感じられる。
例えば人と意見が違ったとき、全力でアグレッシブに異論を排除しようとする人は多い。
また、人間関係で揉めたとき、「自分にも原因があるのではないか?」という発想にならず、自分は絶対に悪くない、とにかく相手が嫌い、嫌いな相手を排除したい、いなくなってほしい、などと考える人も多い。

折り合いをつける、妥協点を見つける、落としどころを探す、共存する、そんな発想もなく、とにかくいきなり排除排除排除。
そんな風潮に違和感を覚えるわけだ。

嫌なことを頭ごなしに排除しても人は成長しないし、都合の悪い部分に目を向けない悪癖がつくのではないか?
また、排他的思想の入り口になるのではないか?
何でもかんでも排除しようとすれば、異論も多様性も何もない殺伐とした社会になるのでは?
そうなれば心に余裕もなくなるのでは?
社会全体で不寛容が進むだけでは?
など、違和感は尽きない。


繰り返すが、本当に嫌だと思えば、嫌なことから逃げれば良い。
それは悪いことではない。
しかし、この「本当に嫌だと思えば」という境地に達するには、それなりの「過程」がある。
妥協点を見つけようと努力したが、どうしても嫌な感情が消えない、どうにもならない、仕方ないから嫌なことから逃げる、といった具合に。

最初から嫌なことを排除しようとする発想とは明確に異なるわけだ。


長くなったので今回はここで終わるが、この「排除ではなく、適度な共存」というテーマ、また何かの機会で書きたいと思う。

休日前にやや暗いテーマになってしまった点はご容赦願いたい。
最後に紫陽花の写真を。


それぞれの5月。
良い週末をお過ごしください。

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