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評価されない評価との出会い

最近よく「評価」のことについて考えている。教育界隈でも話題になることが多くなってきているように感じているので,シリーズ化して少しまとめていこうと思う。

ここでいう「評価」とは,学校教育で一般的に用いられているそれの意味とはまた少し違った意味で僕は捉えている。

いわゆる学校教育(特に高校)における「評価」というと,「テストの点数」や「成績」,「偏差値」など主に『数値化し(あるいは序列化し)優劣を定めること』と近いニュアンスで使われていることが多いと思う。

僕が考える「評価」は,『何を学んだか,そして次に何を学ぶことができるのかを学習者に伝えること』である。「フィードバック」ということばと関係性は強いと思う。

そう考えるに至った経緯はいくつかあるが,おそらく一番影響が大きいのは,自分自身の高校時代の経験だろうと思う。

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高校時代,いわゆる「勉強ができない生徒」だった僕は,成績やテストの点数はあまりよくなかった。つまり,学校からの「評価」は低かったわけだ。

最初はどんなきっかけだったかはもう覚えていない。授業に楽しさを見出せなかったか,そんな感じの誰でも一度は経験するような理由だったと思う。

勉強に対する学校からの「評価」が低いことから学習意欲は湧かず,勉強をしないので,また次のテストでも良い点が取れず「評価」は低いまま。

もちろん学びたいとかそういう気持ちは芽生えず,僕を机に向かわせていたのは「悪い点数をとりたくない。」という気持ちただ一つだった。

何が理解できていて,何が理解できていないかなんて関係なく,ただただ次のテストの範囲を1週間前になったら暗記するように詰め込んでいく作業が「勉強」だった。

もちろん,こんなふうにしていても何も変化は訪れない。

しかしながら,そんな僕にも転機が訪れた。

それは,ある授業との出会いだった。「マルチメディア制作」という映像制作をする授業だ(僕が通っていた学校は総合学科だったため,独特な授業がいくつかあった)。

この授業では,映像の分析をしたり,その分析結果を参考にしながら体育祭のプロモーションビデオを作ったり,自分たちでショートムービーやCMを作ったりするような内容だった。

昔から何かをつくることが好きだったため,映像制作には熱中して取り組むことができた。この授業は映像クリエイターの方が特別講師として関わってくれており,アドバイスをもらいながら制作できる部分も大きく影響していたように思う。いきなり映像を作るのではなく,あらかじめ映像を分析してポイントを掴んでいるため,動画制作をしながら何ができていて,何が足りないかをよく理解しながら学ぶことができた。

作った動画を見ながら,クリエイターの方が「うまく表現できているポイント」や,「もっとこうすればよくなるポイント」について教えてくれた。それを聞くことがとても嬉しく,次の原動力につながっていたことは今でも思い出すことができる。

テストもなく,動画のできを数値化されることもなく,いわゆる学校型の「評価」ではない,「フィードバック」をたくさんもらった記憶がある。もちろん成績はつけていたはずだが,覚えていない。おそらく成績表の評定は5段階の5だったと思う。

最終的に,この授業をきっかけに僕は「映像クリエイター(CMをつくるひと)」になりたいと思うようになり,そういったことが学べる大学(学部)を受験した。

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なんとなく,こんな原体験が今の僕を形作っていると思う。

数値化され,優劣を決めるために勉強していた内容はほとんど覚えていないが,映像制作の大事なポイントは今もまだ覚えている。

映像クリエイターには今のところなっていないけど,奇しくも最初に勤務した学校で「マルチメディア」という授業を担当した。なんとなく,あの時の自分と今の自分がつながっている。と感じる。

また,教員として働くようになり,改めて「評価」ということについて学び直してみると,とても感慨深い気持ちになった。

「評価」という言葉について文部科学省の解説を見てみると,こんなことが書いてある。

「子供たちの学習の成果を的確に捉え、教員が指導の改善を図るとともに、子供たち自身が自らの学びを振り返って次の学びに向かうことができるようにするためには、学習評価の在り方が極めて重要」

『児童生徒の学習評価の在り方について(報告)』より


『自らの学びを振り返って次の学びに向かう』時に,僕らは子どもたちに何をしてあげることができるだろうか。

それが「評価」の本質だと思う。


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