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Yellow Roses ~ イエロー・ローゼス ~(小説)

アイツと別れた晩、
ぼんやり夜空を眺めながら、
人通りの少ない道を
選んで歩いていた。
 
ずっと上を向いていた。

昔の歌みたいで情けなかったけれど、
なるほど今、
下を向いたらおしまいだ。

 

小さな教会の前を
通りかかった。

中はもう真っ暗だったけれど、
昼間このチャペルで
結婚式をしているのを
よく見かける。
 
アイツと結婚なんて
考えていたと思うと、
目を伏せてしまった。

 
あ、いけない!

そうつぶやいた途端、
ポロリと大粒の涙が
アスファルトの上に落ちる。
 
そっと落ちていった
涙の先をたどってみると、
そこに黄色いバラが
何本か落ちていた。

 
結婚式のおこぼれだろうか、

私は涙をぬぐって
通り過ぎようとした。
 
が、振り返った。

もしかしたら神様からの
お詫びのしるしかもしれない、
と一瞬思ったのだ。

しかしそんな自分が
悲しくなる。
 
それにしてもあんまりだ、
こんなあっさりと、
しかも決定的に
終わってしまうなんて。

 
私は道端にしゃがみ、
黄色いバラを拾った。

こんなものくらいでは
とうてい許せないけれど、
これがまた次の幸せを
運んできてくれるかもしれない。
 
要するに、わらをも
掴むような気持ちだったのだ。


黄色いバラを片手に、
しばらく町をさまよった。

一度泣いたせいだろうか、
妙に熱っぽかった。

 
いつも渡る橋までやってきた。

夏の夜、眼下を流れる
大きな川には点々と遊覧船が
浮かんでいて、蛍のように川面を
照らし出している。
 
空には触れれば手を切って
しまいそうなくらい鋭い新月が
遠い山間にくっきり浮かび、
幻想的な光景だった。

 
つりがね状になった
橋の中腹まで
そんな夜景に見とれて
歩いていたが、
橋を下りかかったところで、
突然激しい感情が押し寄せてきた。

 
そこで立ち止まって
橋のふちに佇み、
ひんやりとした鉄の手すりに
肘をのせて、行き来する舟遊びの
光を見つめた。
 
我慢していた涙が
滝のように頬をつたう。

あの教会の前を通るたびに
アイツのことを考えていた。

 
私は右手に固く握りしめていた
バラに気が付く。

神様のバカ、
こんなものでごまかされるものか、
私自身が飛び込まないだけ
ありがたく思いなさいよ!

 
いかにも子供じみた
八つ当たりで恨み言を並べると、
私はまさに黄色いバラを
川に投げ捨てようとした。

 
しかし、ここでますます
悲しくなった。

なぜなら、こんな状態でも、
自分の身はおろか、
バラの花さえ投げられなかったから。

 
 
― 私だって幸せになりたいんだよ・・・ ―

 
私は橋の手すりに
顔を伏せて号泣した。

もしかしたら酔っ払って
いたのかもしれない。
そうでなければ、病は気からで、
相当熱が出ていたのだろう。

とにかく通りがかりの人が見れば、
わが目を疑ったにちがいない。

 
今にして思えば、
この時、神様は何を思って
私を見ていたのだろう。
 
黄色いバラを握りしめて
夜の川を見下ろし
泣きじゃくっている私に、
次はあの人に会わそうなど
考えていたのなら、
神様はかなり意地悪なのでは
ないだろうか。

マミヤに出会ったのは
それから一週間くらい後のことだった。
 
家にこもってアル中に
なりそうな私に、せめて外で飲もうと、
瑞穂が外人バーに
連れ出してくれたのだ。

 
確かに数年前まで
外国人と片言の英語で遊ぶのは
楽しかった。

しかし今、私の関心は
日本男児のアイツにしか
向いていなかった。
 
それに身近な日本人を飛び越して、
外人にばかり惹かれていた
かつての私は、ただ単に
普通ではない状況に憧れていたに
過ぎなかったのだ。

自分のアブノーマリティを
満たす道具として
外人を求めていたのだろう。

 
今、外人といても何とも思わなかった。
仕事でもないのに
英語でしゃべる気もせず、
うんざりしていた。

 
そんな中、休憩から戻ってきた
マミヤがバーのカウンターに入る
姿が見えた。
 
すっきりした体型に今風の五分刈り、
前髪をピンッと立てて、
ワイルドなスポーツマン風だった。

ダブダブのジーンズに
黒の長袖シャツを着ていて、
制服のないこのバーで
他の店員と何ら変わらぬ様子だった。

 
弟の友達に似てる、
ちょっとイイ男、
そう思って酔っ払った目で
その人を追った。
 
カウンターから時々聞こえてくる声は
腹の底から出るような
力強いハスキーボイスだ。
 
が、女の客とじゃれあっている姿を見て、
何となく背中の辺りがモゾッとした。

 
「阿沙、どうしたの?」


挙動不審な私の様子を見て、
瑞穂が声をかけてくる。
 
黙っていると瑞穂は
私の視線を追い、
それから吹き出した。


「マミヤ見てるんだ? 
どう? ホレた?」  

 
どうして私が今こんな酒に
依存してるのか、事の経緯を
ほぼ知ってい瑞穂の不用意な発言に
カチンとくる。


「まったく昔からややこしいのが好きね」

 
瑞穂の冗談めかした
その追い討ちに、
カッと頭に血がのぼった。


「ややこしい? どういう意味よ。
それに、ユウジはちっとも
ややこしくなんて・・・!」

 
そう言いかけて、
喉の奥からゲッと変な音がした。

連日連夜のアルコールと、
突然飛び出したアイツの名前に
胃がひっくり返ったようだ。


「やだ、阿沙、大丈夫!?」

 
瑞穂の声が遠のいていく中、
私は本能的に
化粧室に駆け込んだ。

見事に戻した後、
少し晴ればれと立ち上がった。

そしてトイレのドアを
閉めていなかったことに気付いた。
 
ミニスカートにブーツで
洋式トイレを抱え込んでいた姿は
壮絶だったにちがいないが、
隠す余裕はなかった。

 
トイレを出て、
化粧台に向かう。

一刻も早くうがいをしたかった。
 
しかし、そこで私は
立ちすくんでしまう。

さっきの“ややこしい”人が、
長身を化粧台にもたせかけて立っている。


「おねぇさん、飲み過ぎはよくないよ」

 
ハスキーボイスが人を
からかうように楽しげな調子で言う。

弟たちと同じ年恰好だ。

若くて今風で、
ちょっとイケてるお兄チャン。


「・・・わざわざ介抱しにきてくれたの?」

 
水道の水で口をゆすぐ私を見て、
相手は肩をすくめて笑う。


「いや、たまたま入ったら、
ドア開けたままオェーッてやってたから、
しばらく様子見て、
声かけようかなって」

 
私はうがいを終えると
ペーパータオルで口元をぬくい、
さっきよりはすっきりした頭で
相手を見つめて考えた。
 
まさか、ややこしいって
こういうことだろうか。


「・・・ここの店の人よね?」

 
相手はうなずく。


「トイレは間違ってないよね?」


またうなずく。

今度は私の次の言葉を
楽しみにしているような目をして。

 
「そんなうれしそうな顔しちゃって。
あ~あ、ちょっとイイ男だなって
思ったら、オンナなんだぁ」

 
マミヤはとうとう大笑いした。

その晩はさすがに
それ以上飲むことはなく、
適当に切り上げた。

マミヤは女の子たちと違和感なく、
男の人たちとは同志といった感じで
楽しそうに話をしていた。



それからしばらく、
つらいことを忘れるために
仕事に没頭した。

気が付くと季節はすっかり変わり、
もう十一月になっていた。

マミヤのいるバーを
再び訪れたのは、
同僚の台湾人がどうしても
行きたいと言い出したからだ。

商社の輸入部にいる私は
同僚のシンディと金曜日の晩、
そのバーに行った。

その日、バーの記念パーティだったらしく、
従業員一同、寒空の下で、
店のロゴ入りのランニング・シャツにジーンズ
というスタイルだった。
 
格好いい人はより一層格好よく
見えるスタイルで、
日本人スタッフよりは
外人スタッフの方が
バッチリきまっていた。

英語が達者なシンディは
外人スタッフに積極的に話しかけている。
 
私はやっぱり外人はいいや、
とバーのカウンター近くの
スタンディング・テーブルで
お酒を飲んでいた。

 
しばらくして、灰皿を換えに
マミヤがやってきた。

マミヤは特に私のことを
憶えている風ではなかったが、
私はこれがオンナだということを
勿論おぼえていて、
そのランニング・シャツから出た
女らしからぬ腕をまじまじと見つめる。


「・・・すごい筋肉ね。何かやってるの?」

 
すんなり伸びた両腕は、
しかし驚くほどたくましく、
そしてきれいだった。

 
マミヤは一瞬、私が自分を
マッチョな男と勘違いしていると
思ったようだった。
 
それでもよかったのだが、
私は急にマミヤの本当のところを
聞きたくなってきた。


「マミヤ・・・って本当は何て名前なの?」

 
胸バッチにはE.MAMIYA、とある。

マミヤは最初首をかしげ、
それから承知したように言った。


「間宮恵美」


「・・・えみ?」


マミヤは恥ずかしそうに
バッチを手で隠す。


「そこには書いてないじゃない」

 
私のツッコミに三枚目の
お笑い芸人みたいな笑みを浮かべる
マミヤの表情は
男の子そのものだった。


「マミヤでいいよ、後は忘れて」


「いいえ、えみ。・・・何でそんな格好してるの? 
マッチョ・コンテスト?」


「ああ、これはマスターの趣味。
こういうの好きでね。
いかにも頭悪そうでしょ?」

 
笑いながらマミヤの男らしく
日に焼けた顔や腕を見ていると、
マミヤは思い出したように言った。


「・・・昔ね、ベンチプレスとかやってたから」

 
そう言って二の腕の力こぶを
作って見せてくれる。
私は思わすその筋肉に
見とれてしまう。


「ホレた?」

 
いけしゃあしゃあとそう言いながら、
マミヤは私の顔を覗き込む。

こういうところは同性の気軽さを
利用しているようだ。


「・・・でもオンナじゃねぇ」

 
実は興味を引かれつつ、
そう言って突き放すと、
マミヤはニヤッと
余裕の笑いを浮かべた。


「ソンはさせないけどな。
お買い得だよ」


「へぇ、売り物なの?」


「場合によっては。
でもおねぇさんとは是非
損得なしでお付き合いしたいな」


「・・・そりゃ、どうも」

 
大したリップ・サービスだ、
と鼻で笑ってしまう。


「全然本気にしてないな~、もう・・・」

 
マミヤは豪快に笑いながら、
私の肩を引き寄せた。

その体からどんな種類の
においがするのだろうと
鼻を利かせてみるが、
マミヤの香りを感知する前に、
自分の女の子らしい匂いに
呑まれてしまった。
 
マミヤは私の耳元で
やさしくつぶやく。


「今夜はあんまり
飲みすぎちゃダメだよ」

 
憶えていたのだ、と思うと
さすがにドキッとした。

そこら辺の男よりずっと
男前のマミヤに口説かれるのは
悪くなかった。
 
が、その時、私の左側に立っていた
マミヤの右腕の後ろの
薄いアザが目に入った。

本当にかすかだけれど、
二の腕の後ろのそのアザに、
私はしばらく言葉を失った。

 
神様、これは何の目印? 
アイツと全く同じところに
同じようなアザがあるなんて。

私が惚れ込んで、ふられて、
橋の上で大泣きするなんていう
情けない結末をむかえる目印?

 
懸命に忘れようとしていた
ここ何ヶ月かの歳月に
引っ張られるかのように、
私の意識は現実を離れ、
しばらく時間の波に翻弄された。

 
気が付くとマミヤは
もうそばにはおらず、
隣のテーブルの女の子たちと
戯れていた。

女の子たちといると、
男というよりは仕切り役の
姉御タイプにも見える。

 
間宮恵美の精神は男なのだろうか
女なのだろうかという
疑問が俄かに浮上してきた。

その晩から、間宮恵美の存在が
気になり始めた。
あんなに体を鍛え、
男より短く髪を刈り込んで、
彼女はそれでも女なのだろうか。
それとも性同一性障害だったり
するのだろうか。

 
アイツとの付き合いで
しばらく忘れていたアブノーマルな
ものへの憧れが再び
湧き上がってきたようだった。
 
男なんてもう懲り懲り、
それならマミヤという存在は
とてもしっくりくるかもしれない。

 
間宮恵美の実体はさておき、
私は一人夢心地に浸っていた。
これで100パーセント女です、
なんてことになったら
大笑いしようと思いながら。

地下鉄を降りて、
夜の地下街を歩いていた。

少し酔っ払っている感じだったが、
それより前のシチュエーションは
憶えていない。
何かに引き寄せられるように
遠回りして帰ることはよくあるので、
これもそんなところだろう。
 
夢の淵からもう一人の私が
見ているのに気付き、
自分が夢の中にいることを知る。
これも時々あることだ。

 
誰かに会えると思ってるの? 
まさか、アイツ?

 
直球すぎる自問に、
苦い思いが胸に広がった。

と、その時、私は目の前の光景に
息を呑んだ。

・・・出会ってしまった。

こんなにドキドキしていいのだろうかと
いう思いが頭をよぎる。

 
しかしその人と目が合うと、
私は臆することなく微笑んだ。
そうしない理由もない。
 
突然そこそこ会いたかった人に
出会った偶然に
一瞬驚いただけだ。
 
しかし私の瞳の奥には
ある種の輝きがあったということは
否定できない。
 
こんな物欲しげな目線で
相手に微笑みかけたのは、
夢の中だとわかっていたからではなく、
夢の中で酔っ払っていると
信じてアルコールの力に
任せた結果だろう。

 
相手は少し驚いたようだったが、
何やら意外な発見をしたかのような
表情で私に応えた。

 
「・・・外で見るとまた一段と男らしいね」


「それはどうも。・・・酔っ払ってる?」

 
間宮恵美はジーンズに
赤のTシャツを着てキャップをかぶり、
黒のリュックを肩に掛けていた。
 
どう見ても男だ。
素敵だった。


「酔っ払ってる? そうかなぁ・・・」

 
面白そうにこちらを
見ているマミヤに、
私は突然の行動に出た。

マミヤの首に両腕を回し、
抱きついたのである。


「酔っ払いついでに
抱きついちゃおう」

 
マミヤは一瞬私の体を
支えるのによろめいたが、
次の瞬間私の背にそっと手を回した。
 
それこそ男らしく遠慮がちに、
しかも力強く。

マミヤの手の平から温もりが
伝わってきた。

 
夜の地下街は殆んど
人通りがなかった。

私はマミヤに抱きついたまま顔を上げ、
そしてマミヤの唇にキスする。
 
マミヤの腕が更に
私の体を引き寄せた。

私はマミヤの胸に頬を寄せる。

硬く逞しい胸、だけど
その温かい体からは
ラムネのような
甘く懐かしい匂いがした。
 
これが先日、自分の匂いに
かき消されてしまった
マミヤの香りなのだろうか。

ここでまた、夢の淵から
もう一人の私が現れて口をはさむ。

腕のアザを確認しておいた方が
いいんじゃないの? 
ユウジの二の舞はごめんでしょ?

 
彼女は意地悪く微笑むと
淵から遠ざかって行った。

私は井戸の中から
上を見上げるように、
その姿が消えていくのを見送る。
 
そしてその後ろ髪が何ヶ月か前、
橋の上で泣いていた頃の
ものだと気付き、ハッとする。

 
その時、上から何か降ってきた。

・・・黄色いバラの花。

 
私はなぜかマミヤにそれを
見られないように足で踏みつけた。

そしてマミヤの腕の中で確信する。
絶対、この人の腕にアザはない。
よかった、本当によかった。

 
何とも言えない安堵感が
胸に広がり、心が温かくなった。

その夢を見たのは
三連休前の金曜日だった。
先週末にマミヤに会ったせいも
あるのだろうが、
そんな理由だけではないような気がした。

三連休の最終日は月曜の祝日だった。
最近飛び石連休が
月曜日に振り返られて、
やたらと三連休が多い。

 
昼過ぎまで家でダラダラしていたが、
夕方になって突然
思い立ったように外出した。

お気に入りの
青いセーターにジーンズ、
そして青い石のついたアクセサリーを
身につけて街に繰り出した。

 
何となく熱っぽかった。
休みで眠りすぎたせいだろうか、
夢心地で歩いていた。
 
朝食用のパンを買っておこうと、
地下街からデパートの
食料品売り場に向かった。
 
夢の中では確かここら辺で
マミヤに出会った、
そう思った瞬間、
人込みの中から
突然マミヤが現れて、
私は我が目を疑った。


― あ、マミヤだ! ―

 
気付いてから二秒も
経たないうちに、
マミヤは私の真横を
スッと通り過ぎてしまった。

 
赤いTシャツと黒いリュックを
背負ったマミヤの後ろ姿を見送りながら、
ぞっとする。
 
違いはキャップをかぶってないことと、
赤のTシャツの下に
もう一枚白の長袖のシャツを
今風に重ね着しているくらいだった。

 
一瞬のことで声も
出なかったけれど、
マミヤの視線はこちらを
向いていたようだった。

ほぼ真正面ですれ違ったのだけれど、
声を掛けられなかったのは私も同じで、
きっとタイミングが悪かったのだろう。

 
しかし夢の内容が気になって、
すれ違ってしばらく
マミヤの後ろ姿を見ながら、
後を追おうか悩んだ。
 
が、やめた。

私の見た夢が現実に
近かったからといって
マミヤを呼び止めて
どうしようというのだろう。
 
それに夢ではお互い目が合った。

私はじっとマミヤを
見ていたのにマミヤの目には
まるで私なんて映ってなかったし、
だいたいバーの外で見ても
客の顔が全てわかるという
わけでもあるまい。

 
いろいろ自分に言い訳をして、
JRへと続く坂道を上っていく
マミヤを見送った。

きっとこのままJRに
乗って家に帰るのだろう。

 
でも、と私は考える。

もしもう一度会ったら、
それはすごいかもしれない。
 
だからマミヤの後は追わず、
逆にその方向に背を向けて
地下街を進んだ。

花でも買おうと思いつき、
赤紫の花を地下街で買った。

 
お金を払って花を
受け取って振り向くと、
再びマミヤが人波をはさんで
向こう側を歩いているのが目に入った。
 
心臓が高鳴った。


― 本当に来ちゃったじゃない ―

 
真っ直ぐ前を見てこちらに
やって来るマミヤに、
今度こそ声をかけようと
私は人波を分けて進んだ。

 
私の口が開き、
声が出かけた瞬間、
伸ばした手がもう少しで
その逞しい腕に届こうとした瞬間、
マミヤは全くこちらを
見ることなく通り過ぎて行った。


― ・・・え? ―

 
私はあっけにとられ、
人波の中で立ち尽くした。

たとえ私の顔をしっかり
憶えてなくたって、
あれくらい誰かが接近してきたら
気が付くものだろう。

 
再び背筋がぞっとした。

これはもしかして違う
バージョンで繰り広げられている
夢の続きなのだろうか。

まるで自分が透明人間に
なってしまったかのようだ。

今のマミヤのシカトは
それくらい異常なものを感じた。

 
しかしここで、
私の本能的な何かが告げた。

二度あることは三度ある、
三度マミヤに会えば決まりだ。

あの夢は偶然ではなく必然であり、
私たちはどういう意味にしろ
出会う運命なのだ。

 
私は急に激しく火照り出した
額に手を置いた。
自分が何をしているのかわからない。

 
しばらくしてパンを
買おうとしていたことを思い出した。
右腕に固く抱きしめたままの
花が折れかかっている。

 
ぐっしょり汗をかきながら、
花屋の向かい側にある
デパートのパン屋に入った。
 
何が食べたいかなんてよくわからない、
それどころか
頭がガンガンしてきて
吐きそうだった。

相手は女だというのに、
なぜこんなに緊張しているのか
不思議だった。

 
とりあえず混み合った
パン屋でパンを二個買うと、
デパートを出ようと
出口に向かった。

 
まさかまたこちらに
引き返したりしてないだろうか、
そんなことを考えながら
フワフワしてひどく現実離れした
心地だった。

 
デパートを出た途端、
前を通り過ぎる間宮恵美に
危うくぶつかりそうになった。
 
三度目の赤いTシャツ、
五分刈りの頭、
大き過ぎる黒のリュック。

 
― えみ! ―

 
なぜ声にならなかったのかわからない、
いや実は声に出していたのかもしれない
マミヤの本名。
 
しかしマミヤは肩越しに
映っているだろう異様な様子の
私を全く無視して、
今度はまたJRの方向に
戻って行った。

 
私はしばらくそんなマミヤの
後ろ姿を見つめて、
そしてつぶやいた。


何で? 
どうして? 
どういうこと?

 
汗が引くまでデパートの
入り口のベンチで休んでいたが、
やがて私は立ち上がった。
 
四度目に出会ったとしても
同じだろう、
それならもう出会わない方がいい。

 

その日の鮮明な記憶は
そこで終わっている。

たぶんそれから色々
思うところはあっただろうが、
連休明けから急に
仕事が忙しくなり、
さすがに殆んど実体のなかった
マミヤの存在は
現実の時間の中で
押し流されて行った。
 
と言ってもきれいに
消えてなくなったわけではない。

川下に溜まった落ち葉の
何枚かが流れの変わった川を
逆流してくるような
風向きの時にフッと思い出したりもした。

十二月に入ってやっと
早めに会社を出られる日ができた。

切らしていたものを買いに
仕事帰りにスーパーに寄ると、
売り場はクリスマス一色になっていた。

去年のこの時期幸せだったことを
思い出すとやるせない気分になる。
 
こういう晩にはゆっくり
お風呂に浸かろうと、
甘い香りの入浴剤をカゴに入れた。

 
レジで並んでいると、
前でお金を払っている
母親の足元にまとわりついている
小さな男の子と目が合った。

にこっと笑いかけると
恥ずかしそうに
小さな手で額を押さえ、
母親のコートに下に潜り込む。
母親に何してるの、
と怒られながら、
男の子は何度もこちらを
振り返っていた。

 
スーパーを出ると、
本格的な冬の寒さを感じた。

こんな晩に一人両手に
買い物袋をぶらさげて歩いている自分が
さみしくもあり、
しかしなぜか頼もしくもあった。

家に帰って熱い風呂に浸かった。

久しぶりにゆっくりできる晩だ。
体が温まってくると
心もリラックスしてくる。
 
すると湯の中で氷が
溶けていくかのように、
ここ何週間かの出来事が
頭の中で溶けて流れ始めた。

思考は小さな雪解け水から
徐々に川のような流れを作り出す。

 
ほどなくマミヤの一件に
たどり着いた。

そしてあれはまさに
悪い夢のようだったと実感する。

しかしあんなにも動揺したのは、
あの時点で間宮恵美が
私の中で特別な存在に
なっていたということだろう。

 
あまりにも安直な自分の
心根に苦笑しながら、
お湯を両手にたっぷりすくって
顔をゆすぐ。

そして、入浴剤の甘い花の香りに
むせ返った。

 
その香りがあの花を
思い出させた。

全てはあの黄色いバラから
始まったのではないだろうか。
 
幸せへのパスポートで
でもあるかのように、
あの花を捨てられなかったのに、
夢の中では、マミヤに見られては
いけないもののように踏みつけていた。

黄色いバラはもしかして
心の執着を表していたのだろうか。
 
では万が一、
あのバラを捨てていたら、
どうなっていたのだろうか。

ところで、そもそもマミヤとは
一体何者だったのだろうか。

 
何もかも意味のあることのように、
そして全く意味のないことのように
思えてくる。
 
そんなとりとめもないことを
考えながら、ぼんやりと風呂に
浸かっていると、
川は更に大きな流れとなり、
ついに橋の上で泣いていた
あの晩に行き着いた。

 
そして思った。

あの時の悲しみからは
確実に回復しつつある。
 
マミヤにシカトされた時、
相手はともかくとして私自身は
恋する乙女のように滑稽なほど情熱的で、
そして、かわいかったではないか。

 
これからもこうやって
人生は続いて行くのだと思うと
笑みがこぼれた。
 
それなりに過ぎて行く
忙しい日々の中で、
マミヤとの遭遇や黄色いバラの意味を
深く考えたところで仕方ない。

第一、意味を見出す必要が
あるのかどうかもさえわからない。
 
こういう事がありました、

でもどういうことだったんだろう? 

・・・そこまででいいのではないだろうか。

 
目を閉じると一筋の川が
大きな海へと流れ込んでいく
情景が目に浮かんだ。
 
海の向こうには何かある、
きっと何かあるのだけれど、
今はわからない、
それがまた楽しいのではないか、
そう思うと、
温かいお湯の中で肩の力が
ゆっくりと抜けていくのがわかった。


             了


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