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自分の中を旅する。時々立ち止まり地図を確かめる。気持ちが向かう方向に歩く。来た道を振り返る。

少し前に、私が参加している、ライターゼミで、「幸せの定義」について話題となった。自分にとって、何が幸せの条件なのかを決めてしまう。覚悟を決めてしまう。これって良くないですか、というもの(だと理解している)。

仕事上の目標を高くしていくことと、自分自身の目標を同じように考えてしまうのは違うのではないか、という投げかけがあった。それで考えた。今の自分は幸せかどうか。

今の私は幸せである。

なぜなら、私個人を認知してくれる場があるから。マズローの欲求5段階説でいうと、低位の承認欲求が満たされている段階だ。

なぜこうに思うようになったか、経過を書いてみたい。

2年前に社内異動があった。異動前の部署は、沢山ある社内の課題の交通整理をしたり、若手の教育をしたりするような業務内容の部署だった。私の会社はいわゆる大企業である。私はその部署の立ち上げからかかわっていたので、部署の成り立ちや他の部署との関係性を知っていた。

業務が、少し面倒でも現在の手順をふむようになった、といったような変更事項の背景も知っていた。組織全体を見て業務の振分けや交通整理をすることもあり、後輩や管理職からも「何でも知っている人」と思われていたのだろう、よく質問を受けた。

教育した若手からは「話がわかりやすい」と言われるなど、何よりも仕事そのものにやりがいを感じており、他の人より仕事ができたと思う。

もう少しその業務を続けたかったが、他にその部署を希望する若手がいるということで異動した。

この時認識したのが「私はもうここでは必要とされていない」ということだった。

企業にとっては社員を異動させることで、多くの社員に様々な経験をさせ、組織を活性化していく。定年前の社員より旬の社員を重用するのは当然だろう。アタマでは人事異動の必要性と重要性は十分わかっていたが、この時は気持ちがついていかず、「私の方ができるのにどうして」と悔しさ、虚しさ、寂しさ、この3つのワードを日々交互に感じていた。

あれから2年経ち思うこと。
部の成り立ちを知っていることで重宝がられて、自尊心をくすぐられ勝手に仕事ができると思い込んでいた。経験年数が長くなれば、自然と業務関連の知識も増えていくし、後輩は最年長者である私を立ててくれた。

ただそれだけだったのに、ひとり喪失感を感じて気持ちがやさぐれていた。

「私が一番よく知っている」という、その部署での経験の多さは、今いる組織のなかでしか意味を持たない。このことに気づくまで時間がかかった。

今は、私しかできないことって何だろうか、自分に何ができるのか、棚卸しをしつつ探っている。

「まだやれるし、やってみたい」「終わった人にはなりたくない」。ならば色々やってみるしかない。そう思い、興味惹かれるものには手を出すようにした。 

そしてWEBライター講座に出会い、ライターゼミに参加させてもらっている。ここでは仲間から多くの刺激を受け、学びがある。

「お金」も勉強したいと思った。老後の収入は見込めないので最も興味がある分野だ。運よく、金融関係の会社の副業をみつけ、雇っていただいている。

この会社がまた素晴らしく、学びが多く知識をとことんギブしてくれる人たちの集まりで、大変ありがたいことだと思う。

組織の名前とは関係なく、私個人を認知してもらえる場があることが、今幸せだと思う。

仕事以外に日々の幸せにも目を向けると、いただいたお菓子がおいしかったり、母の手術が無事終わったり、いとこがこの3月に赤ちゃんを産んでかわいい姿が見られたりする。 

同期や先輩後輩とオンラインでつながって 話ができる。共感したり、ありがたさを確認したりできる。これも幸せなことだ。

幸せの定義は自分で決めるもの。そして定義は変わっていく。

自分のなかの、過去と未来との間で、思考を旅しながら、曲がり角を曲がって興味ひかれる方向に向かったり、振り返って立ち止まり価値観を見直す。

実際に場所の移動を伴う旅行ができるようなれば、前とは違った世界が待っているような気がする。


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