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登るか下るかしかない生活

先週は山奥で過ごした
宿泊施設の前に道路が一本あるが、登るか下るか、の選択肢しかない
寒いのでまずは登る
2キロ先にはその宿泊施設に泊まっているものだけが使えるカフェがある

カフェといっても、そこはとても広い一軒家だ
2階建てで、一階はカフェ、2階はスタジオ
共に100平米くらいはある
どちらも無人で、カフェにはスコーンとハーブティが置いてあり、食べた分だけ缶の中にお金を置いていくことになっている
電波は圏外で、もちろんテレビなどない
11月の半ばとなりかなり寒い
客は私たち夫婦しかいない

まず、スコーンを焼いて、ハーブティを飲んだ
12時過ぎで、それが昼食になる
宿泊施設に戻っても夕食は17時半からで、それまでは風呂に入るくらいしかやることはない
そんなわけで山奥の一軒家で、3時間くらい妻と2人だけで過ごした

2階のスタジオは真ん中にストーブが置いてあり、奥にはピアノがあった
そのほかには椅子が一脚あるだけで他には何もない
妻はピアノを弾き始めた
妻がピアノに触るのは久しぶりなので、時々、おかしな音になるが、妻はとても大きな音を出す
ピアノは鍵盤楽器だが同時に打楽器でもある
妻は打楽器としてのピアノの弾き方を知っているようだ

すると私はノってきた
100平米ほどある空間にはストーブしかない
妻のピアノに合わせて踊ることにした
もちろん、無茶苦茶な踊りである

30分ほど踊っていると、少し疲れてきた
妻はいろんな曲を弾いたが、トルコ行進曲に合わせて踊るのは大変だった
あの軽快さとダイナミクスを動きで表現するとなると、相当な修練が必要になることを悟った
バレエという形式ならそれに応えられるだろうが、他の踊りなら無理だろうと思った
今まで考えたこともなかったことだが、バレエという形式は偉大なのだ

妻はその後もピアノを弾き続けたが、私は一階へ戻り、ウッドデッキに吊るしてあったハンモックに身を横たえた
気温は多分10度に届いていないが、誰もいない山奥の一軒家でハンモックから眺める森は格別だ
空は曇っていて、決して観光日和ではなかったことで、かえって落ち着いて景色を楽しめた
ここに住んでいるかのようなリアリティを感じたのだ

妻と2人で森の一軒家で暮らす
食事を済ませたら、あとは2階のスタジオで、妻が気ままに弾くピアノに合わせて無茶苦茶な踊りを踊りまくる
そんなファンタジーのような生活がここでならできそうな気がするのは、ここには何もないからだ
宿泊施設を出たら道が一本あるだけで、登るか下るかしか選択肢がない
都会にこんな家があっても、都会にはいろんな道があるので、家の二階でずっと踊っている、というような選択はできないだろう
要するに、ここは閉鎖空間なのだ
森という開放的な場所にいるけれど、森によって外界から隔離されている

何かに集中して取り組もうと思ったら、他の選択肢を全て無くしてしまえばいい
都会でそれをやろうとしたら、そこには決意という力が必要になるが、ここでは力む必要がない
それはわかっているのだが、ここで感じている自由を都会に持ち帰りたい
ここで感じている自由を都会に持ち帰ることができたなら、今までより幸せを感じるだろう

ハンモックに身を横たえ、私はそんなことを考えていた
2階からは妻のピアノが聞こえる
都会にいてこんな音がしたら近所のことを気にするのだろう
2階から聞こえるピアノの音を心地よく感じられるということは、とても贅沢なことなのだ

そう思うと、今度はハンモックで寝ているのが勿体なく思えてきた
スローライフは結構忙しい
宿泊施設に戻るにはまだ時間がある
今度は私がピアノを弾いてみることにした

私が弾けるのは「ジングルベル」しかない
片手しか使えない
子供の頃、2年ほどオルガン教室に通ったが他の曲は弾けない
そもそもオルガンなど習いたくなったし、音楽に興味はなかった
だが「ジングルベル」だけは耳に馴染みがあった
両親が共働きだったので、クリスマスの近くになると寒い部屋で1人で「ジングルベル」を弾いたので、この曲だけ覚えたのだ

今思うと、一曲だけでも弾ける曲があるというのは幸せだ
自分の他には妻しかいない広いスタジオに、自分が弾く「ジングルベル」が響く
狭い空間では感じたことはなかったが、自分で弾く、というのはとても気持ちのいい行為だった

調子に乗った私は、今度は両手で無茶苦茶な曲を弾き始めた
ピアノは打楽器でもある
私はドラムを叩けるので、打楽器としてピアノを弾くことにしたのだ

音程を気にしないと、両手で弾くピアノはとても楽しかった
何となくこんな感じ、と低音を鳴らし、それに呼応して高音を鳴らす
1人でバンドをやっているような気持ちになってきて、自分なりのいろんな曲を弾いてみた
何かを真似するわけではなく、自分が出してみたい音を、自分の感情のままのリズムで出していった
中村達也は、ドラムはバンドの中でボーカルの次にエモーショナルな楽器だ、と言った
ピアノを打楽器として叩くと、音階によっても感情が発露でき、しかも低音と高音も使える
子供の頃、こんな気持ちでピアノを弾いたことがあったなら、絶対に音楽の道に進んだことだろう
自分の中には外に出したい情熱が確かにあったのだ
それに形を与える訓練をしていたら、今頃結構な芸術家になっていただろうと思った

そうやって、森の中の一軒家で過ごした3時間はあっという間に過ぎた
登るか下るかしか選択肢がない道を、今度は下って宿泊施設に戻った
道路脇には木々があるだけ、というより木々の中に道路があるだけだ
考えてみると、ここには何もない
カフェにはスコーンとハーブティとピアノがあっただけだ
それだけで、こんなにも充実して楽しく過ごせたのはなぜだろう?
人によっては、この何もない環境に耐えられないのかもしれない
宿泊施設には他にも客がいたが、誰もカフェに来なかった
登るか下るかしか選択肢のない道路を下りながら考えた

そんな時、ふと、道路脇のもみじが目についた
登ってくる時にもあったはずだが、その時は目に留まらなかった
目に留まったのは、もみじの赤が光っているように見えたからだ
スマホで写真を撮っていた時に、私は突然悟った
楽しかったのは、すべて自分たちで創ったからだ、と
登るか下るかしか選択肢のない環境では、自分で何かを創らない限り、何もない
人によってはそこで己の虚無に向き合うことになるのだろうが、私たち2人はそこで自分の情熱を発見した
妻はピアノを弾き続け、私はそれに合わせて踊り、それにも飽き足らず私は無茶苦茶なピアノを弾いて楽しんだ
全部、自分たちで創ったことだ
人の真似をしたり、誰かが作ったものに楽しませてもらったわけではない
逆にいうと、何もない環境下では、創らない限り己の虚無と対面することになる
それは崖っぷちに立たされているようなもので、だから火事場の馬鹿力のような情熱が発露したのかもしれない

もみじの写真は撮ってはみたが、目で見えているもみじの輝きを捉えることはできていなかった
どうすればもみじの輝きを写真に収めることができるのか、私はすでに考え始めていた


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