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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 21

 大友皇子は、中大兄と伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)の子で、幼名を母親から貰って伊賀皇子(いがのみこ)と言った。

 伊賀宅子娘は、『日本書紀』に采女であると書かれているので、地方豪族の娘であり、恐らくは伊賀国造の伊賀臣の娘であったのだろう。

 伊賀皇子が、いつの頃から大友皇子と名乗るようになったかは分からないが、おそらくは養育に当たった氏族に由来するのであろう。

 大友と言うと、大伴氏と思われるかもしれないが、大友氏の方である。

 大友氏は、大友史(おおとものふびと)・大友村主(おおとものすぐり)らの渡来一族で、その根拠地は近江国滋賀郡大友郷にあった。

『懐風藻(かいふうそう)』によると、大友皇子は容姿に優れ、風采は広大深遠で、その目は澄み渡り、輝いていたらしい。

 手放しの礼讃はあまり信じられないのだが、渡来人の養育を受けているだけあって、文才には長けていたようだ。

『懐風藻』には、彼の漢詩が二首残されている。

 そして、大友皇子が大王候補として頭角を表してきたのが、この頃からである。

 間人皇女が亡くなった後、中大兄は全く仕事が手に付かない状態だった。

 確かに、大王になった彼女は中大兄にとって目の上のたんこぶであったし、関係を拒否されたことからも、彼の彼女に対する憎しみは増大していた。

 だが、愛憎は表裏一体である。

 彼女を愛する気持ちに変わりはない。

 その彼女を亡くしたいま、中大兄は虚無感に囚われていた。

 群臣からの報告も上の空で、そのため大友皇子が全ての報告を纏め、中大兄の代わりに指示を出していた。

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