【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 中編 23
雨が、音もなく降っている。
緑葉に当たって、ぽんと弾けるような雨ではなく、しっとりと纏わりつくような雨である。
服も湿っぽく体に張り付いてきて、気持ちが悪い。
ただでさえ夜の見張りは体に堪えるのに、そんな天気が数日も続くと体調に悪い。
大伴の兵士の中でも、熱を出したり、鼻を啜りあげたり、咳き込むものも多い。
見張りの者は、夏が近いというのに火を焚き、天日干しのように体を温めている。
「くうぅぅ~、今夜も冷えるやんけ」
と、震えているところに、
「ご苦労様です、交代に来ました」
と、黒万呂と先輩の兵士が交代にきた。
「はよ来や! もう寒くて金玉が縮みあがるやないけ。何もなし! あとは頼むで」
と、前直の見張りたちは申し継ぎもそこそこに、兵舎へと帰って行った。
「くそっ、ほんまに寒いな。おい、黒万呂、お前、ちょいと一周してこい」
交代したばかりの先輩兵士は焚き火の傍に座り込み、どこに隠し持っていたのか酒壺を取り出してきて、ぐびぐびと始める。
見張りの間は禁止されているのに……と思うのだが、このまま酔いつぶれて、次の交代が来るまで寝ていてくれたら、黒万呂には都合が良い。
「ほな、俺、ちょっと周ってきますんで」
「おう、ゆっくりでええで」
黒万呂は、先輩兵士の言葉通り、まるで酒場をふらつくようにゆっくりと歩き出した。
が、心は急いていた。
―― 今夜こそは、会える………………
大伴の兵士になって、はや一年半が経つ。
相変わらず厳しい訓練は続くが、体は慣れた。
追いつかなかった心にも余裕ができた。
時々斑鳩寺に帰ることも許されるようになった。
奴のときは家族に会うことなど許されなかったが……とはいっても、ともに斑鳩寺の敷地内で生活し、厩長が良い人なので他の氏族や寺の奴婢に比べて、家族に合うこともできたのだが……普通の奴婢だったら、厳しく管理されていただろう。
それに比べたら兵士なんて、まるで貴人のような扱いだ。
いまでは、兵士になって良かったと思っている。
一方、辛いこともあった。
父と母が立て続けに亡くなった。
年も年だし、仕方があるまいと思うのだが、やはりどこかで、父も母も永遠に生きるものだと思っていたし、弟成と同様に親しい人と話もできなくなる寂しさに、遣る瀬無い気分になった。
―― みんな、俺の前から消えていくんやな……
弟成に関しては、何も進展がない。
あの戦から半年経ても、半島から百済の民が逃げてきたり、倭国の兵士が命からがら帰ってきたと話があがるのだが、もしやと思って期待していても、年恰好を聞いてため息を吐くのである。
それからさらに一年も過ぎると帰還の話も少なくなり、逆に唐や新羅が攻めてくると、朝廷が対馬や壱岐、筑紫に防人を派遣する話が広まった。
大伴家からも防人を出すようになったとき、黒万呂はいの一番に手を挙げた。
対馬や筑紫は半島に近い。
帰還兵の情報を得やすいはずだ。
なんなら、また半島に渡れるかもしれない。
そんな期待を持ったのだが、なぜか黒万呂は防人の任から漏れ、大伴本家の屋敷の警護に当たることとなった。
久米部大津に、なぜ筑紫行きが駄目なのか尋ねたが、「いや、大国様が決めたことだからな。決定は覆せん」の一転張り、「まあ、そんなにがっかりするな。大伴本家の護衛に当たるなんて名誉なことだぞ。それだけ、お前は大国様に認められているってことだ、胸を張れ」と、慰められた。
別に大伴大国に認められたところで……と思う。
―― そりゃ、奴から比べたら、ええ身分やけど、別に将来偉い兵士になるわけでもないし………………
もともと氏族としての生まれなら、宮中の高官になることや将軍になることはあるだろう。
だが、一般の兵士である。
しかももとは奴婢 ―― 生まれが全ての世の中だ。
黒万呂だって、そんな高望みはしていない。
彼の夢は、惚れた女と一緒になり、家族や気の合う仲間たちと楽しく暮らすこと。
例えそれが、奴婢という低い身分であっても。
その家族である父や母はもういない。
弟たちは健在であるが、それぞれ別の家族を持っている。
小さいころから生活をともにした厩の仲間とは離れ離れ。
一番の親友であった弟成は行方知れず ―― 決して死んだと思っていない。
人生 ―― 一度歯車が狂うと、思わぬ方に転がり始めるものである。
―― 惚れた女やかて………………
斑鳩寺からいなくなった八重女の行方も分からず。
正確にいうと、大伴家にいたことは分かっている。
斑鳩寺から大伴家に売られ、一度逃げかえてきたことがあった。
もちろん、すぐに連れ戻された。
大伴の兵士になったのは、八重女の行方を捜すためでもある。
兵士となり数日経ったころ、同僚の兵士に八重女という女のことを知らないかと尋ねてみた。
兵士は知らぬと答える。
同僚や先輩兵士たちに聞いてみるが、答えは同じ。
『なんや、その女、お前の女(すけ)か?』
と、いやらしく小指を立ててくる。
『そ、そんなんやないっす』
とはいったものの、顔が熱かった。
『斑鳩寺から売られてきた婢やろ? そんな女、おったかな?』
『そんなん聞かんなぁ~。大体、大国様は倹約家やからな、屋敷の手伝いに、わざわざ婢を買ってくることもない、全部身内で済ませるからな』
『そやな。ほなそれ、本家の話やろう』
この時初めて、自分は大伴家の分家の分家、それも殆ど他人と思われるような傍系の兵士になったのだと理解した。
『お前、そんなんも知らんかったんけ? ええか、大国様はもともと国巣(奈良県吉野郡)の出でな、一旗あげんと飛鳥に出てこられて、そりゃ努力して、いまの地位を築かれたんや。ワシらは、国巣におるときからの配下で……』
と、永遠昔話を聞かされ、結局八重女が本家にいるのではないかという情報以外は得られなかった。
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