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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 20

 夜の帳が落ちる始める中、大海人皇子と額田姫王の娘 ―― 十市皇女は、油皿に火を灯した。

 炎は、その艶やかな顔を照らす。

 流石に額田姫王の娘だけあり、見目麗しい。

 加えて最近では、人妻としての色っぽさも出てきた。

 彼女は、油皿を手に寝室へと入った。

 寝室に、男の影が映し出される。

 驚いて油皿を落としそうになってしまった。

「貴方でしたか。灯りも点けないで、如何なさいました?」

 貴方と呼ばれたこの男は、十市皇女の夫 ―― 大友皇子である。

 彼は椅子に座って、何事が思いに耽っていた。

「ああ、十市か、ちょっと考えごとをしていてね。遅かったね、何処に行っていたのだ?」

「ええ、お父様の所に。伯母様、奥様と立て続けに亡くなられて、酷い悲しみようと聞いたものですから、お慰みに」

「そうか、私の父上も激しいお嘆きようだ」

 間人皇女が亡くなった後、中大兄の娘で、大海人皇子の正妻であった大田皇女も、その美しくも儚い命に終止符を打っていた。

 中大兄が、大田皇女のために流した涙は、親としてのそれであったが、間人皇女のために流した涙は、兄としてよりも、一人の男としてと言った方が良いかもしれない。

 間人皇女から相手にされていなかったとは言え、彼の彼女を欲する気持ちに変わりはなかった。

 対して大海人皇子の悲しみは、弟として、また夫としてもあったろうが、彼の後ろ盾となるだろう大きな柱を失ったことへの悲しみが大きかった。

 間人皇女が長生きすれば、次の王位は必然的に彼のものとなるはずだった。

 加えて、中大兄の娘である大田皇女を妻にという保険があったのだが、彼女たちがこれ程早く逝ってしまうなんて………………これが、大海人皇子の正直な気持ちであった。

「そうですか。やはり、愛する人を亡くすのは辛いことなのですね」

「そうだな」

「貴方……」

 十市皇女は、大友皇子の前に膝抹いた。

「お願いです、私より長生きしてくださいね。もし貴方がいなくなれば、私、生きてはいけないもの」

 十市皇女は、涙ながらに懇願する。

 大友皇子は、その愛くるしい妻の頭を軽く抱いた。

「大丈夫、私はそなたを残して死にはしないよ。さあ、安心して」

 大友皇子は、十市皇女をきつく抱きしめてやった。

 十市皇女は、この瞬間が一番好きだった。

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